6 改めて、青の領域へ
幼い少女の姿が裂ける。まるですべてが造り物だったかのように。童女の皮だけ整えて、その内側にひそむものが擬態のための皮ごとぱっくりと破いたように。しかし脱ぎ捨てた皮はどこにもない。それが、あの姿も本物のラフェミアであり、これがあくまでも形態変化に過ぎないことを示している。
消えた少女の代わりにいるのは、青白い巨大な何かだった。幹から無数に枝分かれした根を持つ植物だ。熊ほどの大きさのその植物は、意志を持つかのようにふるふると小刻みに震えていた。
「は……?」
上のほうに、朱色のがくで覆われた美しい花が咲いている。花の中央からは人らしきもののの上半身が生えていた。しかしそれはあの少女のものではない。彼女の腹部はあんな風に膨らんでいなかったし、顔だってあんなヒキガエルにそっくりではなかったのだから。
真珠色の身体の、短く柔らかな毛で覆われた醜いいきもの。吐き気を催すほどにおぞましい異形が、先ほどまで目の前にいたはずの愛らしい少女とどうしても結びつかない。
けれど、これはラフェミアだ。【幸福の魔女】ラフェミア=トラヴァルムだ。人としての本来の姿はきっとあの童女の姿だが、魔女としてはこれが本来の彼女の姿なのだろう。エシェールだって、人の姿と蜘蛛と化した姿、二つの外見を持っていた。悪魔のあるじである魔女が、第二の形態を持っていても不思議ではない。
「永く生きたが、この姿を見せて生かして帰した者はおらぬ。狩人の、そなたが一人目よ」
「そ……それは、光栄……なのか……?」
魔女はそううそぶきながら片手を上げた。その途端、床を這う根が持ち上がる。根はひとりでに蠢き、次々と守り手を突き刺した。天使はわずかによろめくが、逃げることはできない。すでに床中に根が伸びていたからだ。根は波のようにうねる。まるで捧げられるかのように、赤く染まってみじめにもがく天使は魔女のもとへと運ばれた。
「わらわも神やら神の兵器やらと対峙したことはない。しかし、これと似たようなものを相手どる者を知っている。……あの男はこう言っていた。“神だろうと何だろうと殺してやる――この世に存在する限り、壊れないものは存在しない”とな。奴はそう言って、これを殺しているのだ。つまり、わらわにも殺せるということであろう?」
「ず、ずいぶん血の気の多い知り合いがいるんだな」
「【罪科】のに仕える【剣士】のの言よ。そなたがこのまま進むのであればいずれ戦う男ぞ、覚悟しておくがよい」
魔女がかかと笑う間、彼女の背後から伸びた茨が守り手を絡め取っていた。血まみれの天使はさらに暴れるが、傷口が増えていくだけだ。
魔女は茨を使って天使を持ち上げた。枝のような腕が、動けない守り手を貫く。ぶすぶす、ぶすぶす。何度も何度も、色々な個所を執拗に。そのたびに天使の口の端からこぽりと泡立った血が垂れる。それはまるで検査のようだった。
「ふぅむ。外の構造は人とそう変わらぬな。血袋としては使えるか? すこぅし肌みは白いが、染色すれば綺麗に染まるぞ。さてさて、中身はどうだ? む、内蔵もあるとは。いくばくか損傷させてしまったが、すぐに治るようだな。これは面白い。……この眼球はわらわがいただこう。神の恵みぞ、余すところなく使ってやろうなぁ?」
細く鋭い枝は、その見た目にそぐわない強度でぶちぶちと守り手の腹を裂いていく。口からせりあがる酸っぱいものがこらえきれず、祐理は部屋の隅に駆け込んでうずくまった。
「善きかな、善きかな。これはいいものを拾った。これはいわば素体ぞ。いかなる者の治癒にも使える、万能の代用品だ。命は巡る、それを体現するために在るようなもの。まさに神の遣いよ。……聞いておるか?」
背後でラフェミアが何かを言っていたが、もう涙目の祐理の耳には入らなかった。ずるずると何かを引きずる音も、ぐちゃぐちゃと何かを引きちぎる音も、すべて吐しゃ物をまき散らす音に掻き消される。
「安心するのじゃ。守り手は死んだし、ラズはまだ生きとる。……祐理。おぬしは振り返ってはならんぞ。ラフェミアは狂っとる。たとえ今の儂らにとっては脅威でなくとも、あやつが人の理の中で生きるものではないことに変わりはないのじゃ」
「え、ぺー?」
胃の中身を吐ききって、口を伝っていた胃液と唾液の混じったものをぬぐう。肩で息をしていると、背中をひんやりした柔らかいものが通った。ぞわぞわする。次の瞬間にはすっぽり頭を覆われていた。虹色にきらめく膜の向こう側はすりガラスのようにぼやけている。
「ラフェミアは狂っとるが、薬師……否、医師としての腕前は十二分にあるようじゃ。あの娘の見立ては正しい。守り手は人を殺し、同時に人を生かすものじゃ。あの娘は、自力で守り手のもう一つの役割に気づきおった。……ラフェミアは、まごうことなき天才じゃよ。ゆえに魔女に魅入られた。ゆえにヴィーは、あの者に意志を託したのじゃろうな……」
「……?」
エペーが何か言っているような気がしたが、よく聞き取れなかった。エペーが覆いかぶさっているせいか、視界だけでなく音もほとんど遮断されているのだ。
「まさか肉袋が手に入るとは思わなんだ。……それにしても、だいぶ生ノ花を使ったな。これだけの怪我を負わされても移植に足りる肉袋があるとは、中々悪運の強い男ぞ。これも神のおぼしめしか? 神もたまには善きはからいをしてくれる」
「おい。その血肉はラズの治療に必要なのか? おぬしの魔術とやらだけで……」
「そうさな。ここまで損傷が激しいと、わらわの魔術だけでは手に負えぬ。体内で好きに花が咲いていいのなら、そこまで強い魔術を使ってやってもいいわ。そうすると、黒騎士のはわらわなしでは生きられなくなるがなぁ? それはそれで愉しいだろうが、無理やり跪かせただけの従者はいらぬ。わらわは素直な者しか傍に置きとうないのだ」
「……」
「さあさ、黙って見ているがいい。……ふふっ。使いものにならなくなった内臓は取ってしまおうなぁ? 安心しろ、痛みはないぞ。……こら、びくびくもがくな。手先が狂うだろう。痺ノ花の効きが甘いのか? なれば増やそうな。眠ノ花も咲かせてやろう。これだけ薬花があればおとなしくなるだろう。よしよし、いい子だ。さ、これが新しい内臓ぞ。肌を縫い合わせて……と。ついでだ、この肌もあててやるか。……そら、これで前より丈夫になった!」
「……終わったようじゃな」
ラズトラウトの傍にかがみこんではしゃぐ血まみれの魔女に、エペーは改めて声をかける。楽園の騎士の守り手の次はラズトラウトしか眼中になかった様子の魔女は、ようやく振り返った。
それと同時に、薔薇の咲いた茨が半壊状態の鎧を器用にラズトラウトに着せる。そのまま茨は中の服の上から、あるいは鎧ごとラズトラウトを締め付けていたが、すぐに枯れて朽ちていった。拘束を解かれた黒い鎧はすっかり直り、新品のように輝いている。
「ああ。なんぞ、そなたが狩人のの耳目をふさいでいたのか。道理で何も言ってこないわけだ」
「おぬしの処置は適切じゃった。恐ろしいほどにな。ゆえに今回は見逃すが……人を、命を、もてあそぶな」
「何を言っている? 命をもてあそぶのは【冒涜】のよ。わらわは、わらわに救いを求めるものを救うのみ。これで黒騎士のと狩人のが少しでも改心すればよいと思ってやったまでぞ。塊のに文句を言われる筋合いはない。……もしやそなた、この素体めに同情でもしておるのか? この肉袋風情に?」
「まさか。おぬしのやったことは確かに守り手に課せられた役目の一つであり、守り手は儂にとっても憎きものじゃ。じゃが、それ自体に罪はない。兵器としてのありようは、あくまでも使い手がそう任じたがゆえのものじゃからな。たとえ造られた代用品でも命は命、丁重に扱うべきじゃろうて。……祐理には何も言うなよ。ラズの治療に何が使われたか知れば、面倒なことになる。おぬしが危険な存在だとわかれば、祐理は二度とおぬしを本から出さないじゃろう。それはおぬしの本意ではなかろう?」
「……」
魔女は一瞬不服そうな顔をしたが、すぐに幼い少女の姿へと戻る。姿が変わったせいか、浴びた血はほぼ付着していない。彼女の無言を肯定とみなしたエペーは、祐理の頭からゆっくり離れた。
「祐理、ラズが治ったようじゃ!」
「黒騎士のは数刻としないうちに目覚めるであろう。起きるころには前より頑丈になっておるぞ」
「あ、ああ……」
「その小娘、治癒の魔術の使い手でな。治癒は加護の力によって引き起こされるはずの奇跡じゃが、魔女にも使えると知れば聖堂の聖職者達は軒並み卒倒するじゃろうなぁ」
「わらわの固有魔術は治癒だけにあらず。毒も薬も、わらわの手にかかれば自由自在よ。……“夢”を生み出していたのも、わらわの咲かせた幻ノ花の力ぞ。そなたが現実からの逃避を願うなら、わらわはいつでもあの甘くかぐわしい花を咲かせてやろう」
「それはちょっと遠慮願いてぇな!?」
エペーは嘘をついていない。ラフェミアが治癒の力を使えるのは本当だ。彼女はそれにより、一切の器具なしでラズトラウトを治したのだから。移植に使ったものが、解体された守り手の成れの果てだと言っていないだけだ。
だから祐理はわからない。眠るラズトラウトの身体に何が移植されたのか、ラフェミアが具体的にどうやってラズトラウトを助けたのか。重要なのは、こんこんと眠るラズトラウトが息をしていることだけだった。
「よかった……マジでよかった……! ラフェミア、ありがとな。エペーもさ」
「……そうじゃな。ラズが無事でよかったわい」
「ふん。これでわらわの偉大さがわかったか。……それにしても、ずいぶん荒れておるな。死人も多い。他の場所もこうなのか」
いぶかしげに周囲を見渡すラフェミアに、経緯をかいつまんで説明する。といっても、祐理も何が起きたか完全には把握していない。守り手が帝国の城を襲って人がたくさん死んでしまった、一応皇族の人は生きていると思う。話せるのはその程度のことだ。
「そうか。……まあ、城の修復と軽い怪我人の治癒程度ならわらわの力を使っても構わんな」
ラフェミアはそう呟き、ぱんぱんと手を鳴らす。その瞬間、彼女を中心にして茨がぶわりと広がった。薔薇の花を咲かせた茨は床を、壁を這っていく。ほんの数分の間にこの部屋を溢れた茨は、もしかすると城中を覆い尽くしてしまうかもしれない。
「なっ、何してんだよ!?」
「案ずるな。これは癒ノ花ぞ。癒すべきものがなくなれば、自然と枯れ落ちるわ。……わらわの癒しの魔術は、記憶には干渉できぬ。ここに幻ノ花を咲かせてもいいのだが……」
ラフェミアは一度言葉を区切った。祐理が警戒するように『魔女名鑑』を開いたのを見て、ラフェミアはくつくつと笑う。
「そう恐ろしい顔をするな。あるじ殿の意にそぐわぬことはせぬよ。……この薔薇が癒す傷に、心の傷は入っていない。人々は幸福な夢を見られず、突如として現れた天災じみた禍いに友を奪われるという過酷な現実と向き合わなければならぬ。可哀想になぁ。しかし仕方のないことよ。わらわの与える幸福は、あるじ殿のお気に召さぬのだから」
「……言ってろよ。そんなのがあっても、本当の解決になんてなるわけがねぇ」
「その通りかどうか、そなた自身が身をもって試してみるかえ?」
「ほれほれ、言い合いなどするな! ラズが目覚めたら……否、目覚める前でも構わん。早々に城を発つべきじゃ。守り手を倒した功労者……あるいは、守り手を招いた罪人として引き留められても知らんぞ。人は責任の所在を求める生き物じゃからな。儂らをどういう目で見るか、儂にはわからん。いずれにせよ、面倒事に巻き込まれたくなければさっさと青の領域を目指すべきじゃ」
一触即発といった空気になった二人の間にエペーが割って入る。確かにそれもそうだ。守り手を倒したのは魔女であり、実質祐理はほとんど何もしていない。ラフェミアの存在に気づかれれば厄介なことになるだろう。
「じゃあ、もう一頭疾走する大逆の禍風を出してラズさんを運んでもらうか。ラズさんの馬をどうするかだけど……ラフェミアって馬とか乗れたりしねぇよな?」
「馬?」
気絶したように眠っているラズトラウトをなんとか持ち上げ、新しい永久の闇の緋き檻に載せながら問う。さすがにこの状態の彼を外までは運べないので、室内で疾走する大逆の禍風も具現化させた。広い廊下なのできっと大丈夫だろう。
「わらわを甘く見るなよ。伊達に永く生きてはおらぬ。裸馬でも乗りこなせるわ」
【幸福】の魔女、思ったよりも頼もしかった。




