八百③
「要するに、チューされた勢いで告白しちまったわけだな!」
一通り話を聞いた八百の総括にぐうの音も出ないでいると、八百はケラケラ笑いながら僕の背中をばしばし叩いた。
「クッソ……浅はかと笑うがいいさ! でもどう思うよ!? あんなの告白しない方が異常だろ!」
「落ち着け落ち着け。お前の言いたいことは分かる」
そう言ってくれると嬉しいが、僕自身あの告白が如何に流れに身を任せた感心できないものであるか、重々承知しているのだ。カップルが成立するのにちゃおでりぼんなピュアホワイトが必ずしも必要になるなんて微塵も思ってはいないが、押されて三日でお付き合いとはあまりにも軽々しくはないだろうか。
何せここまでの十七年間でキスも彼女も初めての経験であるから、実際のところ世間的にどうなのかは知らない。しかし十七年分積もりに積もって拗らせた恋愛に対する一種の神聖視が、昨日の夜から僕の心の底でお小言を垂れ流している状態で、おかげで自分の内側を有罪判決が駆け巡っている。せめて執行猶予をくださいとそれらしい言い訳を並べるのが現状だ。
勢いで告白してしまいました問題について僕が一人脳内裁判を繰り広げていると、八百は受験を目前にして志望校が決まらない我が子を心配する親みたいに困惑した表情を浮かべて、
「で、お前、他の奴等にはなんて説明するんだ? 下手したら死人が出るぞ?」
と問いかけてきた。僕に彼女ができると誰かに死刑宣告が下るなんて法律は聞いたことがない。
「何言ってるかよく分からないけど、別に報告する必要もないだろ? 聞かれたら答えるけど」
「いやお前……それはちょっと惨いんじゃないか。オレだったからまだよかったけど、ミキが知ったら……」
「なんで清水が出てくるんだ? あいつは別に僕がどうなろうと……」
八百が信じられないものを見たといった風に目を見開いて固まっていた。同時に、再びホームにアナウンスが流れる。電車が動き出したらしい。気付けば雨足は弱まっていた。
「ふっ、ふへっ、そうか、そうか。文谷お前、ふはっ、はっ、そうだったのか」
唐突に吹き出した八百が、半ば呆れたように笑う。このよく分からないまま笑われる時間を、僕はつい最近経験した。恐らく僕はとんでもない勘違いしていたのだろう。清水美姫、僕が共に昼飯を囲む友人のうちの一人に対して。自分で言うのは憚られるが、ここまで来たらなんとなく分かるけれど、いやしかし、そんなことあるのか?
八百は僕の両肩を掴むと、真正面から分度器みたいに口角を上げて白い歯を見せつけてきた。なんともわざとらしい笑みである。
「いいか文谷、よーく聞け? お前がどうしようもないにぶちんなのがわかったから、オレがいいことを二つ教えてやる」
八百は僕の目の前で人差し指を立てて、たっぷり溜めてから一つ目を教えてくださった。
「ひとぉつ。ミキはお前にゾッコンだ。それも振り切れてな」
予想していた所へ真っ直ぐ突っ込んできた事実は、予想よりも大きなサイズであった。
「……待て、その、振り切れてとは……」
「言葉の通りだよ。まぁ、その内分かるさ」
「その内ってお前何を」
「ふたぁつ!」
八百は僕の言葉を遮るようにピースサインを眼前へと押し付ける。
「オレはミキの他にあと三人、お前のことが好きで好きでたまらん奴を知っている」
大体、ひとつ目の話をまるで飲み込めていない状態の僕が二つ目なんて処理できるわけがないのだ。何がなんだかさっぱり分からない。三人って何だ。その内分かるって、振り切れてるってどういうことだ、そもそもなんでお前がそんなことを知っているのだ。というか死人が出るって何の話だ? いや待て、第一にそんな素振り見せる人なんて誰もいなかったじゃないか。もしかして八百が嘘を吐いているのではないか? いやしかし、そうは言っても、云々。
ごった返しになった思考が脳みそで堂々巡りを初めた辺りで、僕は考えるのを止めた。こんなわけのわからん話を自分でどうにかしようとするのが間違っている。目の前には物知り顔で人がうんうん唸る様を見て楽しんでいる混乱の元凶がいるのだから、そいつに聞くのが一番早いに決まっているのだ。
「八百、とりあえず聞きたいんだけど」
「あ~オレもういいこと二つ教えちゃったから、こっから先は有料な。質問回数かける千円で」
クソ課金要素である。単体じゃ使い物にならないアイテムだけ無料で吐いて、その後に待ち構えるのはトンデモステップアップガチャだ。僕は目当てのアイテムの排出率は百パーセントだから良心的だなぁなんて思えるほど課金文化に侵されてはいない。
「ふざけんな。第一財布は家だ」
「そりゃ困った。じゃ代わりにオレの質問に答えてくれたら考えてやらんこともない」
随分安上がりになった。
「そんなもんいくらでも答えてやるから、とりあえず早くしてくれ」
「それが人に物を頼む態度か?」
「全力で答えさせていただきますのでなんなりとお聞きください!」
「よかろう」
顎を上げてこちらを見下す八百の顔を見て、こいつ絶対呪ってやると思った。一生補習してろ。
ふと、六条さんのことが頭を過った。
八百の言っている事が本当なら、僕には六条さんという彼女がいるから、八百の言う三人と清水の気持ちに答えることはできない。それは大前提として、僕の中に少しの疑問が生まれた。
もし、もし仮に六条さんが朝御飯を届けだすより前に、僕が誰かに告白されていたら?
僕は恐らくその人と付き合っていたのではないだろうか。そしてそうなれば、僕が六条さんに告白することはなかっただろう。……詰まるところ、僕は誰でもよかったのだろうか。たまたま六条さんが一番早かっただけで、僕は六条さんが好きという訳ではないのだろうか。もしかして僕が好きなのは、六条さんではなくて「彼女」なんじゃないだろうか。
「よーし、正直に答えろよな! 約束だぞ!」
八百のやけに明るい声は、僕を暗い思考の沼から引き上げた。
「お? どうした、人生を悟ったつもりの中学生みたいな顔してるぜ?」
「……なんだそれ。とりあえずほら、聞くこと聞いてくれ」
僕の答えに八百は僅かに苦笑して、
「……うーん、やっぱまずいかなぁ? まぁいいよね、じゃ質問ね」
なんて妙な含みを持った台詞を吐きながら腰を上げて、僕の前に立った。八百が腰を折ると、見上げていた顔が急に鼻の先まで下りてきて、弾んだ八百の髪が僕の頬を撫でた。
「もしもわたしにキスされたら、勢いで告白してくれる?」
待てお前まさか―――、言葉を発しかけた僕の口は、八百のキスによって塞がれた。返答を拒むように唇を押し付けてくる八百を、僕は突き放す事ができない。