六条さん④
不意打ちのキスの衝撃によって遥か彼方のエデンまで吹き飛んでいた意識を引き戻したのは、頬に手を当てて恥ずかしそうにくねくねする六条さんの背後で先程のクソ甘い二人の世界を身動きも取れずにこれでもかと見せ付けられた掛け時計が仕返しの如く指し示した八時三十五分という厳しい現実であった。
その日が終業式であることと、高校まで急いでも三十分はかかることとが示すのは疑うまでもない大遅刻である。私立高校の莫大な学費を少しでも減らすために何かと必要になってくる内申点を、僕は入学当初からアスリートの体重管理並のシビアさで気にし続けてきた。遅刻1という罰点は生きるか死ぬか就職かという瀬戸際に他ならない。
「……文谷くんさぁ、もしかして『どうしよう学校間にあわなーい!』とか思ってないよね?」
自分をほっぽって時計を気にする僕を、六条さんは通りすがりの美人さんを目で追ってしまった彼氏を蔑む時と同じ目で見ていた。
「まさかとは思うけど、女の子の方からチューまでさせておいて、なんにも無しにここから出れると思ってないよねぇ?」
いかにも私怒ってますという風に頬を膨らませながら、眉をあげて前のめりに詰め寄ってくる。
ちょうどその時脳みそで放射冷却が始まったようで、六条さんの生活空間に踏み込んでから久しく失踪していた冷静さが舞い戻ってきた。そいつは頭の中で事の顛末を他人事のように見聞すると、感じの悪い先輩みたいな調子で僕を嘲笑った。
(なんだお前、内申点とウルトラ彼女、どっちが大切かもわかんねえの?)
勝手に言ってろ。六条さんの手に挟まれた時点で腹は決まっていたのだ。
僕は六条さんの肩を掴んだ。六条さんは唐突なアクションに少し驚いた顔をした後、すぐに満足げに唇を結んで口角を上げた。明らかな出来レースではあるものの、なんともいえないむず痒さに襲われる。
「……六条さん」
「なんでしょうか!」
「その、もしよかったら僕と……」
「え? なんですか? 全然聞こえないんですけど!」
六条さんはのこのことやってきた赤ずきんを見る狼のような笑顔を顔中に広げていた。使い古された罠に嵌まったようだ。
「いや、まだ何も言って」
「ん~、蹴れば入るゴールの前でもたもたしてる声は聞こえるんですけどねぇ」
ちくしょう。歯を食いしばって抗議の目を向ける。六条さんはそれを刹那で棄却した。足掻いたところで赤ずきんは狼の胃に収まる運命である。こうなればやけだ。真っ直ぐ突っ込んでいくのが潔い。
「僕と付き合って下さい!」
「よろこんで!」
お前を食べるためだよー! と六条さんはテーブルも気にせずに突っ込んできた。抱き締めるように受け止める。嗅いだことのない甘い香りが、ふわりと僕を包んだ。六条さんに轢かれた幾つかの食器が悲鳴を上げたが、もうそれどころではない。もし食器に目が付いていたら、数分前の六条さんと同じ目をしていただろう。すまない掛け時計君、君は一生一組として数えられることはないだろうから、せめて目に焼き付けておいてくがよい。
結局、僕は壁に磔にされた掛け時計が再び展開される甘い世界に憤死して力なく六時半を指すようになるまでずっと六条さんといちゃついていた。
独り暮らしを初めてからは学校以外で誰かと長時間同じ空間にいる機会が無かったために忘れかけていた、自分の生活圏に誰かがいるという安心感を思い出した。しかもそれがジーンズのモデルみたいな凛とした美人で、中身はかわいらし茶目っ気に溢れ、ましてその人が自分の彼女だったりしたらその多幸感は計り知れない。疑うまでもなく、僕は今人生の絶頂にいる。
六条さんが淹れてくれた緑茶を飲み干したところで、僕はへばりついた名残惜しさをなんとか体から引き剥がして立ち上がった。
「帰っちゃうの?」
隣に座っていた六条さんがブレザーの裾を摘まんでいた。かわいい。
「バイトなんです。休めればいいんですけど、木曜は僕がいないと厳しいので」
「そっかぁ」
じゃあ仕方ないね、と六条さんは残念そうに笑って腰をあげる。見送ってくれるらしい。
改めて立って並んでみると、やはり六条さんの目線の高さには驚かされる。ただ六条さんが小顔なのもあって、身長そのものはあまり変わらない気もする。ハイヒールは知らん。
「そういえば」
「ん、なあに?」
「やっぱり僕の部屋の鍵、渡してもらえますか?」
「えぇ、もういいじゃん! 彼女に合鍵持たせようよぉ」
そうは言っても、自分だけの領域というものは必要不可欠だと思う。ゆくゆくは合鍵というのもアリかもしれないが、流石に付き合って初日ではお互いを隔てる物理的な壁の一つを取り払うのは早すぎるだろう。いや、知らないうちに侵入されてはいたのだが。
「やっぱり、玄関の扉に守られてる一人の空間って大事だと思うんですよ」
「む。朝は嫌じゃないって言ってたのに」
「嫌ではないですけど、困りますよ」
「じゃあ、窓から入る」
「侵入経路の話ではなくて。不法侵入はダメです」
特に今日なんかは困るのだ。ただでさえ朝の時点で一度前屈みにさせられている。正直、二人だけの空間に長時間いるのもそういう意味では地獄であった。健全な男子高校生にはやらねばならぬことがある。
六条さんは非常に不服そうな顔をしていたけれど、しばらく唸った後渋々鍵を差し出してくれた。
「ありがとうございます」
「いいえ……」
「お昼頃からなら、いつ来てもらっても大丈夫ですから」
「うん……」
玄関で靴を履いて振り返ると、六条さんはまだ俯くようにしていじけていた。本人には申し訳ないが、かわいさしか伝わってこない。
「じゃあ、今日はありがとうございました。また明日」
「……待って」
唇を尖らせていた六条さんは、一歩僕に近付いて目を閉じると、今度は別の意味で唇を尖らせた。
「ん」
「い、今ですか」
「私まだ文谷くんからちゅーしてもらってないもん」
もん。もんて。
意味もなく周りを確認した。観客は謎のちっこい観葉植物と絡まったイヤホンコードみたいな現代アート的置物だけだったが、えらく恥ずかしい感じがする。
胸に手を当てて深く息を吐いてから、ゆっくりと六条さんの頬に右手を添える。不満げに寄っていた眉の力がスッと抜けた。まるで寝ているかのように穏やかな顔。僕はゆっくりと唇を重ねて、瞼を閉じた。
いくらかの心地よい静寂から目覚めると、くすぐったそうに笑う六条さんがいた。
「それじゃ」
「うん」
玄関を出ると、空は夜にのまれだしていた。遠くに見える夕陽の名残の赤が、今日は特別綺麗に見える。心の底から湧いてくる幸せの浮力で地に足がつかないまま、着替えも忘れて小走りにバイト先へと向かった。