六条さん③
「その……ほら、ここに入居する時、いくつかスペアの鍵も貰うでしょ? そこにね、どうもうちのじゃない鍵が混じってるってことに最近気が付いたの。それでその、ほんとに、ほんとにね? なんとなく、文谷くんの部屋の鍵のような気がして、試してみたら、やっぱり開いたから……置いとこうかなって……」
女性の第六感には、どうあがいても男には理解できない鋭さがある。写真で見たって分からないような僅かな変化に、前髪切った? とかメイク変えた? みたいな当人の求める適切な突っ込みを、世の男どもが入れられない理由はそこなんじゃないだろうか。大抵頑張って捻り出したところで「ちょっと太った?」が関の山であるから手の施しようがない。
つまりこの朝御飯設置という謎も六条さんの第六感的行動であるから、鈍感の具体化みたいな僕には到底理解できないものなのである……と言うわけにはいかない。男にはシックスセンスの代わりにたらたらと理屈を並べる才能が与えられている。第六感なんて非論理的なものに僕のプライバシーを侵害されては困るのだ、納得できるまでいくらでも食い下がってやろうではないか。
「いやいやいや、いやあの、仮に鍵のくだりがまるっきり本当でも『朝御飯置いとこう』には繋がらないと思うんですけど」
「それは……ほら、最初に朝御飯を届けた日、すっごい喜んでくれてなかった? 転げ回るくらい」
ぎょっとした。タッパーに詰まった、お裾分けという割にやけにしっかりした朝御飯を掲げながら、鼻歌まじりに背中で床を雑巾がけするように転げ回る醜態を知られていた事に対してではない。その喜びの舞が、お隣の美人さんの来訪とお裾分け朝御飯という棚ぼたに脳の処理が追い付いた後のものであって、とっくに部屋に戻っている六条さんにはそもそも知る術はないはずのものであるということに対してだ。
嫌な考えが頭によぎる。もし朝御飯が設置され始めるより前に、もっと直接的に犯罪的な、レンズなんかがついたりしてるものが設置されているとしたら、僕が食い下がってどうのなんて言っている場合ではない。それは最早法律という理屈の大権現に頼る問題である。
「……なんで知ってるんですか?」
「やっぱり! 部屋に戻ったら文谷くんちから鼻歌とどたばたしてる音が聞こえてきて、もしかしてって思ったんだ!」
なるほど、ここのアパートの薄壁にはそもそもプライバシーもくそもなかったらしい。
俯き加減だった六条さんは、僕の見苦しい舞の存在が自分の勘違いではなかったと知って喜びの表情をぱっと広げた。
よくよく考えれば、普段からお隣の生活音を感じているのが僕だけでないのは当然である。今後気持ちが昂ったら外を走ることにしようと思った。鼻歌も控えねばならない。
隣人を陰湿な犯罪の容疑者として警察に突き出すような経験は誰だってしたくない。ほっとしたことで一辺倒だった思考回路にもゆとりができたのかだろうか、六条さんと僕との間に、この件に関して根本的な考え方の違いがあることに気が付いた。
「あの、じゃあ、六条さんは僕が喜ぶと思って朝御飯を置いていったんですか?」
六条さんはぽっと頬を赤らめて、俯きがちにはにかんだ。
「えへへ……あのね? 一日目に凄く喜んでもらえたから、二日目はちょっと気合いが入りすぎちゃって、思ってたより早く朝御飯ができちゃったんだぁ。一応チャイムも鳴らしたんだけど、文谷くんまだ寝てるみたいだったから……そこでほら、鍵を試したら、ドアが開いてね? 私もどうかなぁとは思ったんだけど、起こすのも悪いし、とりあえず置いといてみたの」
両手を内ももに挟んでもじもじとこすり合わせながら、六条さんはぽそぽそと言葉を続ける。
「それで……その……しばらくして、ちょっと後悔してたんだ。冷めちゃってるだろうなぁ、とか、引かれてないかなぁ、とか。起きてから届けて、冷めちゃったけどって謝ればよかったって。そしたら、文谷くん、お味噌汁まで綺麗に飲んで、『ありがとう、おいしかった』って言いに来てくれて……」
どうやら、僕は六条さんを勘違いしていたようだ。僕は目の前の結果に意識を向けすぎていた。そのせいで、六条さんの善意を完全に見逃してしまっていた。確かにやり方に多少問題はあれど、犯罪だ警察だとはあまりにも早計ではないだろうか。冤罪とか先入観とか、なんだかそういう難しい問題の片鱗に触れたような気がする。
しかしそれに今気付いたのではもう遅い。なぜなら、六条さんが今まさに目尻に涙を溜めてしまっているからだ。やってしまった。自分が納得した後であるから余計問題である。俯く六条さんの視界には、目に見えて狼狽する僕が入っていないようで、六条さんは今にも泣き出しそうなのを抑えるようにして話し続ける。
「だから、うれしいなぁって思って……ちょっと調子に乗っちゃったの。まさかこんなに嫌がられてるとは、思わなくて。ごめんね? もうしません。だから……」
「ま、待ってください! ごめんなさい! ちょっと勘違いしてたんです!」
ようやく声を発せたのは、六条さんに謝らせた後だった。自分の無能さに腹が立ち、心の底から申し訳なさが湧いてきた。
六条さんがきょとんとした顔で僕を見つめている。左頬に一筋、涙の跡があった。後悔の念が押し寄せてくる。
「あの、六条さんの善意に全然気付けなくて、申し訳ないっていうか、やっぱり寝ている間に勝手に家に入られるのは困りますけど、そんなに嫌ではないし、ご飯すごい美味しいですし、その」
まるで言葉がまとまらない。六条さんの話を聞いてからは、もう自分が何をしたかったのかさえよく分からなくなってしまっていた。恐怖を感じて訪ねたのに、仲良く一緒にご飯を食べて、その後勝手に怒りだして、六条さんを泣かせてしまった。その上、発端となった行為の経緯を知った今では、既にそれに対する嫌悪感を失ってしまっているような気さえする。我ながら何を考えているのかさっぱり分からない。
「……んふ、ふふふっ!」
僕の顔が自己嫌悪に染まって変になっていたのか、六条さんがどこぞのなめこみたいな笑い声をもらした。よっぽど面白かったようで、お腹を抱えてぴくぴくしている。なんだかよく分からないけど笑われるというのは精神衛生上よろしくないが、六条さんが元気になってくれるなら僕のメンタルくらい喜んで差し出そう。
笑いの波が一通り過ぎ去ると、六条さんは深呼吸しながら目尻の涙を拭った。最後に大きく息を吐いて、流し目に僕を見つめると、試すように問いかけてくる。
「ねぇ、文谷くんが気付けなかったのは、ほんとにただの善意なのかな?」
「えっ?」
「んふ、やっぱり。思ってたより鈍いんだね」
何を言っているのかさっぱりだった。何も返事ができないでいると、六条さんはくすりと笑ってテーブルに頬杖をついた。
瞬間、六条さんが纏う空気が変わるのを感じた。今僕の目の前にいるのは、凛とした表面の中にかわいらしい乙女を詰めたその人ではなくて、生暖かくてねっとりした目の、触れたところからゆっくりと溶け合ってしまいそうなほどに濃艶な、大人の女性であった。簡単に言うと突然ピンクな雰囲気を発し始めたのである。普段からスタバMacを重ねていると、己から発するフェロモンまで自在に操れるようになるらしい。完全に不意を突かれた男子高校生には抗うすべがなく、思わず前屈みになる。
血液が下腹部に集中して頭が冴えたのか、脳内に閃光が走った。
六条さんの言う、ただの「善意」でなければ何なのか。それは「好意」なのではないだろうか。そうであるならば、朝御飯を届けてくれることとか、そういえばさっき頬を赤らめてもじもじしたりしてたこととか、色々なことに説明がつくのではないか?
六条さんは僕に舞い降りたそれ自分で言ってて恥ずかしくないの的ひらめきを見透かすかのようににやにやと笑みを浮かべている。弄ばれているような気がしてならない。
そわそわするだけで一向に動かない僕にしびれを切らしたのか、六条さんは何やら再びポケットの中を探り始めた。先程と同じく一つ鍵を摘まみ出すと、両手を背中の後ろに隠して僕を見つめる。
「文谷くん文谷くん」
六条さんは今度は子供っぽい笑みを浮かべて、握った両手を僕の前に突き出した。
「どーっちだ?」
この遊びには大人の魅力も何もない。六条さんの意図がまるで読めないのも相まって、だんだんと僕の気持ちも落ち着いてゆく。ここにきていきなり鍵の入っている方を当てれば部屋の鍵をお譲りしますみたいな分かりやすいゲームを始めるとは思えないが、深く考えたところで仕方がない。とりあえず右を指差した。
「あー、残念!」
開いた右手には何も入っていなかった。左手に鍵かと思ったら、追って開かれた左手にも何も入っていなかった。
わけがわからず六条さんの顔を見た瞬間、突き出されていた両手が一気にせり上がってきて、僕の頬をがっしりと挟んで引き寄せた。
「えへ、女の子にここまでさせた罪は重いよ?」
六条さんはテーブルに身を乗り出して、飛び込むように僕の唇を奪った。
柔らかく吸い付くようなキスの後には、にんまりする六条さんと、仄かに甘い余韻が残った。