六条さん①
高校二年の夏休み初日、僕は窓を叩く雨の音で目を覚ました。
枕の下からスマホを引っ張り出して電源を押す。ブルーライトと一緒に僕の寝ぼけ眼を刺したのは、六という起きるにはまだ早い数字であった。
受験期の夜中にさえ繰り広げられた両親の夫婦喧嘩に嫌気がさして、寮のある県外の高校を志望していたのだが、ある日母親がヒステリーをおこしてビリビリに引き裂いた郵便物の中に運悪く受験票が紛れ込んでいた時には笑うしかなった。それが原因で家庭はいよいよ形を保てなくなっていって、両親は離婚し、妹は父親に引き取られ、僕はアパートを借りて県下の私立高校に通うことになった。父親は金だけは本当によく稼ぐので、今の僕の生活費とか、発狂した母親の医療費とか諸々を背負ってくれている。金で愛が買えないというのは本当らしい。
こうして最悪の形で始まった一人暮らしの高校生活だが、つい最近までは非常に快適なものであった。孤立しない程度には友達もできたし、言い争いの聞こえない部屋でする勉強は捗った。家にいるとふと襲ってくる多少の孤独感は、隣の部屋の生活音と、本の中のハッピーエンドが拭いさってくれた。なんとなく始めたアルバイトもほどほどにやりがいがあったりして、母の見舞いをすっぽかすいい口実になっている。
とにかく何ら問題は生まれず、この夏は本格的に料理でも覚えようかなぁとのんきに考えていたくらいで、先日簡単お料理レシピなる本を買ってきたのも確かなんだけれど、流石にまだ前日の夜から朝御飯の下準備しちゃってますみたいな域には達してないわけで、じゃあこのお部屋に漂う美味しそうな焼き魚の香りは一体何なのだろうか?
全身に鳥肌が立った。上半身だけ跳ね起こして、今いる八畳の部屋からすりガラスの引き戸を隔てた向こうにある台所を確認してみる。部屋が暗い上に雨音がうるさくて、そこに誰かいるのかどうか分からない。とにかくまず光だ、光が足りない。
僕はなんとなく音をたててはいけないような心地になって、出来る限りゆっくりとベットの横のカーテンを開けた。窓の外を見ると、そこには土砂降りの雨と灰色の曇しかない。部屋に入ってくるはずだった光はドブに流されたようだ。
その時、背後で僅かに引き戸が開く音がした。
背中に悪寒が走る。やっぱりな、いると思った。そして恐らく今、僕は覗かれているのだろう。朝の六時に人の家に忍び込んでとっても和風な朝御飯を作っていた何者か(大体見当はつく)に、うっすら開けた引き戸の隙間から。察せようと何だろうと怖いもんは怖い。体が固まって振り返ることができなかった。
冷静さを欠いてはならない。今僕を見つめているのは、恐らくこの土地に縛り付けられた霊的な何かでもなければ、単純に盗みに入った泥棒でも男子高校生の可燃ゴミを漁りに来た変態でもないはずだ。だから別に僕をどうこうしてやろうとは思っちゃいないだろうし、むしろ冷めないうちにご飯を食べてほしいなぁとか、ちゃんと日中に訪ねてきた上で思っていたならば可愛いなぁ嬉しいなぁで済んだであろうことを考えているに違いない。ならば恐れる必要はどこにもないのだ。笑顔で挨拶をして、不法侵入を止めていただくよう再度丁重にお願い申し上げ、さっさとご帰宅願えばよいだけの話である。そうだ自分がんばれ、自己暗示で大抵の恐怖には打ち勝てるぞ。
ゆっくりと時間をかけて、引き戸の方へ顔を向けていく。怖くない怖くない、密室に容易く侵入されてようがそのままちょっと台所お借りされてようがなんにも怖くない。
そして振り向いた先、すりガラスに透けた何者かのシルエットを足元から見上げていくと、拳一つ分ほどの隙間からこちらを見つめる、熱い視線とぶつかった。
「おはよう、文谷くん。よく眠れた?」
うす暗い隙間の向こうには、不気味なまでに優しい微笑みを浮かべた六条さんがいた。