天使の救済
私情や感情を持ち込んではいけない。そんなことはよく分かっている。もう十何年もこの仕事をしてきた。マスターの情報も信頼しているし、今さら非情だとも思わない。しかし、それでも男はためらっていた。それほどまでに目の前の少女は可憐だった。
男の仕事はフリーターであり、運び屋であり、スパイである。依頼があれば受け、何のことなくこなして、ぱっとしないフリーター生活に戻る。誰も知らないところで世界を廻すのに加担することが、男はわりに好きだった。それに依頼の内容によっては、ひと月は遊んで暮らせるほどの報酬が手に入る。そのたびに男は裏の仕事だけで生きていくことも考えたが、考えたまま眠り翌朝にはバイトに出かけるのだった。大きな依頼はいつもあるものではない。それにヤバい仕事にはヤバい事情がつきものだ。もちろん守秘義務がある。ヤバい事情を抱えたまま独りで迎える朝は、自分が‘普通’からずれていくような、ひとたびずれたらもう戻れないような、そんな気がしてどうも不安になる。
高額の報酬とずれをもたらす依頼、その最たるものが、暗殺。
今回のターゲットは若い女。表向きは美術商だが、某機関の中枢人物。夜明けまでに遂行すること。スパイマスターからそれだけを聞くと、男は拳銃とともに闇に紛れた。
ターゲットは十六、七の少女だった。そしてどういうわけか、歓迎された。
少女は画材で散らかった部屋に男を招き入れた。椅子を勧めると自分も大きなキャンバスの前に座り、何事もなかったかのように絵の続きを描きはじめた。
「『天使の救済』。知ってる?」
「いや」
「この絵の名前。あたしもこの絵も有名なんだよ、こっちの世界ではね。そんなお仕事してるくらいだから詳しいのかと思った」
少女は男のコートのポケットをちらりと見た。
「コンビニ店員は知らなくていい話だろうな」
そう答えて部屋を見回してみると、同じ絵が何枚もあることに気づいた。どの絵も構図は同じだが、天使の目つきや背景は微妙に違う。その差異に何かが託されているようだった。
男はどうしていいか分からなくなった。これも一種の策略なのだろうか。それともこの子はすでに死を覚悟しているのだろうか。暗殺の依頼で迷いを感じたのは初めてだった。
じっと見ているうちに、男は少女の描いている天使が気に入った。色が鮮やかで、気が強くてわがままで、素直だと思った。のびのびと筆を動かす少女の姿には憧れさえ感じはじめていた。彩の無い、代わり映えしない、感情すらろくに映らない自分の生活に、この天使が必要なんだ――ポケットに忍ばせた拳銃を思った。俺はこの子を殺すために来たんだ。
ふいに少女が筆を止めた。できた、と嬉しそうに呟いて、男のほうへ向き直った。
「殺さないの?」
男は何も答えられなかった。
「お迎えにきてくださったんでしょう? それとも煉獄へはひとりで堕とされるのかな」
まだ絵の具の乾かない筆を、少女は捨てた。カラン、と響いた音は潔かった。
「あたしは殺したことがあるの。他人の血は見たことないよ。でもね、あたしの絵は人殺しなんだって。なんでか分かる?」
空が白みはじめていた。男は考えるのを止めた。拳銃を握る。神聖なまでの微笑みに向かって、男は引き金を引いた。
少女の絵がどうして人殺しなのか、男には最後まで分からなかった。