闇
「ヨシフミ、止まれ」
帰りの道中、ヨシフミの少し前を歩いていたジャックが歩みを止め、前方に注意を向ける。
「狼だ」
行く手を遮る草木の向こうに灰色の狼の姿があった。幸い周りに仲間がいる様子もなく、単体での遭遇ではあったが、狼は既に自分達を視野に捉えているようであった。
いつ襲い掛かられてもおかしくない距離にあったため、ジャックは狼から目線を外すことなくゆっくりと後ずさりを始め、ヨシフミもそれに習った。
狼に出くわす事自体が初めてというわけではなかったが、今対峙してる個体は今迄出会ってきたものとは様子が違う。
決定的な違いとして、身体の周囲を黒い靄が覆っているように見受けられる。顔つきも何処か凶暴そうだ。
ある程度の距離を取ることに成功し、少し安堵を覚えた次の瞬間、狼が突如此方に向かって突進してきた。
「来っ…!」
叫ぶ間も無く一気に距離を詰められたが、咄嗟に身を躱し狼の初撃から逃れた。
狼はそのままの勢いで自分達の後ろにあった木の幹に食らい付き、いとも簡単にそれを噛みちぎった。
何という顎の強さであろうか、一度噛みつかれればそれで終わりだろう。
全身から血の気が引いていくのが分かった。
ヨシフミは反射的に持っていた弓に矢をつがえ、狼に向け放った。恐怖で手先が震えていたものの、矢は狼の左前脚に見事命中した。
矢が命中すると狼の動きが一瞬止まり、傷口の辺りから僅かに黒い靄が漏れ出し、消えていった。
『グウゥゥ…!』
狼は低い声で唸りすぐさま臨戦態勢に戻ったが、先程の様子を見るに、相手にダメージを与える事であの黒い靄を取り除けるのかもしれないとヨシフミは思った。狼が凶暴化し、強化されている原因が黒い靄に有る可能性は高いように思えたし、それで弱体化してくれるなら一石二鳥だ。
などと思考を巡らせていると、狼はヨシフミ一人に狙いを定め襲い掛かってきた。
「うおっ!?」
情けない声を出しながらも、弓を犠牲にする形で攻撃を躱す。弓は破壊され、使い物にならなくなってしまった。
次なる攻撃に備え、腰にある小刀を抜き構える。
この得物では次の攻撃を防ぐことは難しい、相討ち覚悟での反撃を加えるしかないと腹を括った。
「おっ、らぁっ!」
しかし、狼が三度襲い掛かろうとするより先に、ジャックが不意を衝き敵の横っ腹に一撃をお見舞いした。
狼は大きく吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられた。
「ジャック、助かった!」
「俺のことを無視するからだ」
ジャックの剣は大振りである事を代償に切れ味を犠牲にしており、切るというより殴るという感じになる。とはいえ、あれなら相当なダメージを負った筈だ。
そう思い狼の方を向くと、ヨシフミの期待とは裏腹に敵は案外すんなりと起き上がってきた。
一応ダメージはあるようだが、身体を覆う黒い靄の量に変化は見られなかった。
何故だ、矢とは比べ物にならない程の衝撃だった筈なのに…。
もしかしたら打撃では無く、切り傷でないと意味がないのかもしれない。それか、攻撃を受けた部位が関係しているのか?
それとも…誰が攻撃を加えたかによるか、とか?
「んー…」
色々試したい気持ちもあったが、それよりもここは逃げるのが先決だと思った。
こんな化け物を相手にしてたら命が幾つあっても足りゃしない。
「ジャック!如何にかしてここから逃げよう、コイツは普通じゃない」
ヨシフミは戦略的撤退を提案したが、勇敢なエルフの戦士であるジャックは断固として戦うという。
「逃げたってどうせ追い付かれるだけだ、それにこんな危険な奴を集落の近くで放って置くわけにもいかないだろ」
「いや、でも…」
「もし、ここでこいつを倒せたら集落の奴等に自慢できるしな」
おそらくそっちか本心であろう。まあ、分からんでもない。
ヨシフミは逃げたい気持ちを必死で押し殺し、ジャックの我が儘に付き合ってやる事にした。
幸いにも敵は先程の一撃を警戒してか、未だ此方の様子を伺っているようであった。
「分かった、やろう。その代わり一つ確かめたいことがあるから、それを手伝ってくれ」
「おう」
「俺があいつの横っ腹をどつけるように、少しの間抑えつけておいて欲しい」
「…ん、わかった」
かなりの危険が伴う役割なのに、あっさりと了承してくれた。信頼してくれているからなのかは分からないが、期待には応えねばなるまい。
「よし、いくぞ!」
今度は相手よりも先に此方から仕掛ける。
勿論、敵も応戦してくるためその迫力にビビりながらも、なんとか斬りかかっていく。
ヨシフミの小刀を嫌い、狼が回避行動をとるタイミングでジャックが相手に突進し、大剣に噛みつかれながらも動きを止める事に成功した。
「ヨシフミ、今だ!」
ジャックに言われるとほぼ同時に、渾身の力を込めて狼の横っ腹をぶん殴った。拳に気持ちの悪い感触が伝わり、狼はそのままに地面に転がった。
ヨシフミが殴った辺りから黒い靄が漏れ出して消えていくのが確認できる。
「やっぱりそうなのか…」
疑問はほぼ確信に近づいていた。
あとは最後に一つだけジャックにお願いするだけだ。
「ジャック、俺の刀でこいつにトドメを刺してくれないか」
状況を掴めていない様子だったが、ジャックはヨシフミから小刀を受け取り、それで狼の喉元を切き裂いた。が、やはりそこから黒い靄が漏れ出る様子はない。
「コイツ、喉を切ったのに死なねぇ…!」
「ちょっとそれかして」
驚愕といった表情で此方を向くジャックに代わり、今度はヨシフミが先程と同じように切り裂く。
すると黒い靄はその切り口からどんどん消えてゆき、
狼の身体を覆っていた黒い靄はとうとう無くなってしまった。
(やっぱり俺がやらないとダメってことか)
しかし、狼は死んではいなかった。ヨシフミの手から逃れから再度威嚇を始めたのだ。
だが、その顔はどこか怯えたものであり、先程までの凶暴性は皆無であった。
ヨシフミが立ち上がった瞬間、身体を強張らせたかと思うと突然走り出し、集落とは反対方向の森の中に消えていった。