第五十幕・「異端児と行商人」
【――翌日・リンヤ村――】
「よし。イルネ、行くぞ」
「何処によ?」
何時ものように朝食の粥を運び食べ終わるまで待っていた彼女へ、未だ傷の癒えていないアガロは、右手に体を支える杖を付くと立ち上がろうとした。
彼女は訝しげな眼差しで見つめた。彼が何をしようとしているのか、皆目見当が付かないでいた。
「チュウコウの住処は、此処から西の山だったな?」
「あんた、未だ諦めてなかったの? しつこいと嫌われるわよ?」
「悪いが俺はあの程度で止めたりはしない。もし止めさせたいのなら、大人しく従う事だ」
ニヤリと笑って見せる。
彼の笑みを初めて見るが、可愛いといった感じではなく、何かを企んでいる野心家や、謀略家のような笑みだった。
彼女はそれを見て一瞬、背筋がゾクリとする。
「そういう訳だ。大人しく案内して貰うぞ」
「あたしがすると思う?」
「しないのなら、一人で行く」
彼は足を引きずりながら歩き始めた。未だに包帯も取れず、痛々しい後が残る体に鞭を打ち前進する。
彼女は呆れたように見つめていた。恐らくアガロの事だから、何を言っても無駄であろう。
彼は飽きっぽい性格だが、一度何かに熱中すると、それに没頭する傾向がある。それは時に鉄砲で、時には馬術で、武術であった。そして、今回は巨人の鬼、チュウコウだった。
彼は初めて目にした巨人の彼を忘れる事が出来ず、尚且つ必ず召抱えるという密かな野望を抱いていた。かつて半妖のリッカの力に惚れ、彼女を部下にするべく条件付で勝負を挑み、勝って部下にしたようにチュウコウも欲しかった。
基本、物欲はそれ程強くない彼だが、優秀な人材に対する執着心は強かった。これも家訓の所為か、それとも彼の性格がそうさせているのか、アガロ本人にも分からなかった。
しかし、今の自分がやるべき事は見つかった。チュウコウを召抱える。傷の事など忘れ、只管進む。
一方、イルネは此処で彼を案内しては、仲間のチュウコウを売るような気分になり案内を拒否した。
世話を命じられているが、其処までする筋合いはない、と彼女は彼を横からじっと見ているだけだった。
「―――っ!? ちょっと!? 危ないわよ!?」
すると、アガロが目の前でいきなり倒れた。体制を崩したのか、彼を戸に掴まり再び立ち上がる。
歩き出すと、ふらふらとしていてまた倒れそうで危なっかしい。
チュウコウの住処はそう遠くない山の中だが、道中の道は険しく、しかも獣に見つからないとも限らない。
彼女は、はぁ~っと深い溜息を一つ吐くと、諦めたように彼に歩み寄り肩を貸した。
「頼んだ覚えは無いぞ?」
「うっさい! あたしはあんたの世話係をスイセン様に命じられているの! 此の侭じゃまた倒れちゃいそうだし、仕方なく手伝ってやってるのよ!」
その侭、遭難されたり狼達に食い殺されては困る。自分はスイセンに信用されているし、彼に何かあっては自分の信頼を失い印象を悪くするかも知れない。そう考えた彼女は手伝わざる負えなかった。
道中休憩を挿みながら、チュウコウの住処である洞窟へ辿り着く。
其処でアガロは彼女の肩から離れ、一人歩き出した。
イルネは彼がチュウコウに嫌われれば直ぐに諦めるだろう、と踏んでおり後ろから見ている事にした。
「チュウコウ―――! 居るか―――!?」
彼が大声を出して洞窟の中へ向かって叫んだ。声は大きく、洞窟に響いた。後ろで傍観している彼女は驚いていた。
暫くすると、奥から足音が聞こえてくる。やがてそれは大きくなり、正体を現す。
「ン―――……。オマエ…アガロ……?」
「やっと目覚めたか、チュウコウ?」
「ナニ…シニ…キタ……?」
突然の来訪に、チュウコウは些か戸惑っていた。
昨日、いきなり自分を召抱えようと誘いを掛けてきた人物が、目の前に居るのだから当然と言えた。
「お前、字は読めるか?」
「ジ……?」
何を言い出すかと思えば、と後ろでイルネは半分呆れ、半分怪訝な表情を向けていた。
そんな彼女の視線等気にせず、アガロはチュウコウを見上げる。
すると、彼はゆっくりと答えた。
「オデ…アタマ、ワルイ……。ジ…ヨメナイ……」
当たり前だ、とイルネは心の中で呟いた。
チュウコウだけではない。イルネやこのリンヤ村の者達、ほぼ全員が読み書き出来ない。彼等は元奴隷であり、勉強など教えて貰える筈がない。
出来る者も稀に居るが、それでも書く事も侭ならず、読むに至っては殆ど文の端々を拾って、何とか理解する程度であり完璧ではない。
よって識字率はとても低く、勉学に関して然程の知識は無い。
「俺が教えてやる」
「…ナ、ニ……?」
「はぁ!?」
今度はチュウコウだけではなく、後ろのイルネも思わず声を出してしまう。召し抱える為に来たんじゃないのか、と思わず心の中でツッコんだ。
「ちょっと、アガロ。あんた一体、何考えてるの?」
イルネが後ろから近付き、彼の耳元で訊ねた。
だが、彼は振り向きもせず只『黙って見ておけ』と一言無愛想に言うと地面に座り、足元に落ちていた木の棒を持って、地面に字を書き出した。
「いいか? チュウコウ、とはこうやって書くんだ」
「オデ、ノ…ナマエ……?」
「そうだ。やってみろ」
手始め目にアガロは彼の名前を書いて見せた。自分の名前なら誰でも興味が沸くし、書いてみたいと思うだろう。
木の棒を巨人へ手渡すと、チュウコウはガリガリとアガロの字を真似して書き始める。
「コウ…カ……?」
「上手いじゃないか」
「どれどれ?」
イルネが横から覗き見た。
「わっ! 凄いじゃない、チュウコウ! 初めてでこれは良く書けてるわ!」
純粋に褒めると、二人が急に黙り出した。
いきなり空気が変わった事に気が付いた彼女は、訳が分からずに『えーっと……』と少し動揺していた。
「どうしたの……?」
「お前が褒めたのは俺の字だ……」
「えっ!? この字あんたの!? うわぁ―――……」
「五月蝿い!」
怒鳴るが顔を少し赤らめていた。アガロは酷い癖字であり、何を書いているか分からない。基本、彼の文はヤイコクが見て綺麗に書き直す。しかし、この時だけはアガロも字の練習をしておけば、と不覚にも思ってしまった。
「兎に角! 字が書けるのだな?」
アガロは気を取り直し、再開する。暫く教えていると何度か頷き、次は数字の説明をし始める。
初めに、一~十の数字を地面に書くと、懐に入れていた石ころを取り出し並べる。
「チュウコウ。今、石ころは幾つある?」
「ン―――……、ヨッ、ツ……?」
「正解だ。では此処に二つ足す。そしたら幾つになる?」
「……ムッツ……?」
「正解だ」
アガロは次は此処から幾つ引けば幾つ残るか? 次は幾つか? と先程からこのやり取りを続ける。
「ねぇ、あんた、一体何がしたいの?」
目的が理解出来ず、イルネは訊いてきた。
が、彼はその問いには答えず、無視してチュウコウに勉強を教えていく。
その姿を後ろから眺めながら、イルネは一人訳が分からないで居た。
(こいつは簡単な計算や、字の読み書きが出来る……。恐らく、護衛の任や、兵糧の輸送もこなせるだろうな……)
そんな彼女を尻目にアガロは、そう考えていた。
彼はこれから自分の部下になるであろう、巨人の基本的な能力を知っておきたかった。
巨人族は一般的に、頭が弱いと言われており文献にもそう記されている。
しかし、アガロとって巨人は彼が初めてであり、どのくらい頭が悪いのか調べたかった。
これは単に彼の好奇心だけではない。彼を部下にした時――アガロの中では既に仕える事確定――どの程度の事を理解出来るか知る必要があった。
仕事が出来る人間、出来ない人間などが居るがそれは単に仕事の相性もある。ならば得意分野の仕事を与え、それだけをやらせればいい。単純に適正というもので判断していた。
「あんたさ、村で読み書きを教えたら?」
「何だいきなり?」
振り返ると、イルネは感心した様子で腕組をしていた。
「村にはそういったのが出来る奴が少ないのよ。ほら、寺子屋みたいな感じでさ? そしたら、スイセン様も喜ぶと思うけど?」
「そうだな……」
珍しく彼はその案に乗り気だった。
普段の彼なら、忙しさの余り『興味ない』と冷たくあしらって終わりだろうが、今は体が不自由で上手く動けない。しかも、此処には何か暇を潰せるような娯楽が無い。
毎日が単調でゆっくりと時が流れるのみであり、アガロからしては苦痛な時間である。また、自分は村人達にも世話になっている。疑り深い性格ではあるが、恩を感じない訳ではない。これも日頃助けて貰っている礼として、やるべきか? と考えた。
「……長に訊いておけ。許可が下りるのなら構わない」
彼は再びチュウコウへ向き直ると本題に入る。
「良いか、チュウコウ? お前の食料の数をこの石一つだとする」
そう言うと、彼は巨人の目の前に小さな石ころを一つ置いた。
「オデ…モット…トレル……」
「まぁ聞け。これは例えばの話だ」
宥めるように言うとアガロは続ける。
「しかしだ、武士になればこうなる」
すると、アガロは今迄持っていた石を全て目の前に落とした。
途端、チュウコウの目の色が変わった。狙い通り、とアガロは内心ほくそ笑んだ。
「どうだ? 俺に仕えれば食うに困らないぞ?」
アガロはようやく此処で誘いを掛けてきた。
初めに彼が文字を教えたのは、どの程度の言葉を理解するかであり、次に数を教えたのは、若しかしたら言語能力に乏しいのなら、ある程度の数字なら理解するのでは? と考えたからである。
その読みは当たった。チュウコウは字よりも数の方を理解していた。
ならば数を教え、無駄な説明を省いて単純に目に見える情報。詰まり比較を見せ、現状と武士になった時の利点を見せた方が得策だろうと思ったのだ。
石一つが今の彼が入手可能な食料の数として、多く積み重ねた石を武士の年給と説いた。多少大袈裟かも知れないが、学問を受けていない巨人の彼に、何かを比較させるには効果覿面だった。
此処まで来れば後は簡単だろう。それだけの食料の数は魅力的であり美味しい話と錯覚し、自分の誘いに乗る、とアガロは踏んでいた。
しかし―――、
「……オデ、サムライ…ナレ…ナイ……」
「やっぱり駄目か……」
答えは矢張り拒否。
アガロもそれを予想していたのか、別段落ち込んだ様子は見せなかった。
(こいつ等亜人は、武士のように利益で物を考える性分じゃないか……)
侍とは、また人とは考えも価値観も違う亜人達。
アガロはある程度彼等と付き合ってきたから何となく、彼等には彼等の考えがあるのを分かっていた。勝算や利益、時には忠義で物事を考える武士とは違い、亜人達は些か考えが読めないし御し難い。
ドウキやコウハのようにある程度世間というものを見知っている者達や、身の拠り所の無い者達なれば話に乗るだろうが、チュウコウはそのどれにも当てはまらない。
古い文献では、巨人族は自分が認めた相手にしか仕えない、と記されているからその所為かも知れないが。
「あんた、よくこんなやり方思いついたわね?」
後ろでイルネが感心したように声をかける。
だが、彼は無反応だった。
「チュウコウ。明日もまた来る」
彼は杖を付いて村へ戻り出した。
イルネは肩を貸し、同行する。
「あんた、未だ諦めてないの?」
「諦める訳ないだろう?」
「はぁ―…、あんたのそういう所、感心するわ……」
ゆっくりと進みながら村に戻り小屋へ向かうと、入り口の近くに見知らぬ人物が立っていた。
(誰だ…あいつ……?)
アガロは内心警戒し、観察する。
相手は男。薄髭、長身痩躯。目は大きく、好奇心に溢れてキラキラと輝いている。背中には荷物を背負い込み、そして、衣服がこの村の者達に比べ上等である。
「あ、ヨヤさん! 来てくれたの?」
「やぁ、イルネちゃん! 久しぶりだね」
ヨヤ、という名を聞いてアガロは昨日の事を思い出した。確か彼はこの村出身で元奴隷の行商人。
イルネに頼んで、今日、来て貰う事になっていた。
「お前がヨヤか?」
「これは、これは。お初にお目にかかります。行商人のヨヤです」
「アガロ・ユクシャ。士族だ。上がれ」
短く挨拶すると、彼を狭い小屋の中へ案内する。
腰を下ろし、目を合わせた。
「私は主に特産品や、日用品などを取り扱っております。何かお探しの物は?」
「いや、品物は後だ」
「…? でしたら、如何様なご用件で?」
「俺はテイトウ山で戦い、此処まで流れ着いた」
それだけ言うと、先程まで笑みを作っていたヨヤの顔が変わる。
「……どちらの者で?」
当たりだ、とアガロは思った。行商人ならば、道中戦の噂も聞くだろう。ましてや今のセンカ郡は戦乱の最中、嫌でも耳にするだろうし、どの家が互いに争っているのかも知っている筈だ。
アガロは返答した。
「ナンミだ」
「ナンミ家のお武家様ですか……。それで、私に何をして欲しいのです?」
「そうだな……。ナンミ陣営まで行き、俺が生きている事を伝えて欲しい」
「……それを伝えて、何か私に得はありますか?」
「褒美を遣わす。欲しいだけ言え」
にやりと笑う行商人を見て、アガロは内心少し安堵した。
チュウコウのように何か違う価値観で物事を考えるのではなく、目の前の彼は商人らしく損得で判断する。
アガロにとってはそっちの方が話が早いし、相手がしやすい。
「いい話だとは思いますが、失礼ながら、私には貴方がそんな事が出来るような人物には見えません……」
手始めに褒美で釣ってみるが、彼の反応はいまいちだった。ヨヤがアガロ疑うのは当然である。
今アガロがユクシャ当主で、ユクシャ組の組頭だという事を証明出来る術は何もない。
只帰りたさだけに利用しようとしているのでは? と誰でも思うだろう。
「ナンミ軍、ジャベ隊の所まで行き、俺が生きている事を伝えて欲しい。俺を知っている奴が必ず居る。その時に、金を請求すればいいだろう」
「もし、知らない、と言われたら如何します?」
テイトウ山で敵諸共殺されかけたのだ。そんな奴は居ない。当の昔に死んだ、と言われればそれまでである。しかし、アガロにはこれ以外に自分の無事を報せる方法が無かった。
この村の者は外へ行かない。この村も秘境で土地の者でも知っている者は多くは無い。故に外へ行ける彼に頼る他無いのである。
だが、その道中危険がある。戦をしているセンカ郡の治安は悪くなっており、追剥や山賊に出会う確立は上がる。
そんな危険な旅をするだけの代償は何か、と問われる。
「お前は行商人だろう?」
「…? そうですが、何か?」
何を考えているのか読めない。ヨヤは商売柄、相手を観察する事に長けている。
相手の表情、視線や態度で、何を考えているか、どの様な人物か、推し量ろうとしていたがアガロに関しては上手くいかない。
彼は終始ずっと同じ表情で視線を逸らさず、口調も声色も同じであった。
此処まで心が読めない相手は初めてだ、とばかりに内心唖然とした。
「ナンミ陣営へ行き、鉄砲を売れ。ナンミは高く買い取るぞ」
「成る程……」
商売の序でに、自分の事を報せろと言いたい事が分かった。
「お前が売る鉄砲は、俺のユクシャ組が買い取る」
「貴方の組にはそれだけの持ち合わせがあると?」
「ある」
戦時中は武器や食料が高く売れる。特に直接陣営へ赴き、売り付ければ高値で買い取ってくれるのは確かだ。
中でも鉄砲は高価な兵器として値が張るが、ナンミ家はそれを惜しみなく買い取ってくれる大名として知られている。
ならば、とヨヤは決断する。無駄足にならない事は確かである。一度町へ戻り鉄砲と護衛を雇い、安全な道を進めばナンミ陣営へ辿り着く筈だ。アガロの事はその序でで良いのだ。
だが此処で、ヨヤは一つ気付いた。
「よければ送って差し上げましょうか?」
これなら簡単に話しが付く。ヨヤがアガロを商売がてら送り届ければ良い話なのだ。
しかし、アガロはかぶりを振り、その提案を拒否した。
「悪いが、今は体を上手く動かせない。それに、俺はこの村でやる事がある」
言うと、ヨヤが怪訝な顔をした。
「一体何をするお積りです……?」
「チュウコウという巨人を知っているだろ? あいつを部下にする」
それを聞くと、彼は口を開け唖然とした。
「巨人を…ですか……?」
「悪いか?」
聞き返され、ヨヤは言葉を失った。巨人を召抱えようとする武士など、今迄聞いた事も見た事も無い。
「恐れながら、そんな事をして宜しいのですか?」
「知るか」
何とも無責任で、質問の内容に興味が無さそうに答えた。
「ならば、私も仕える事が出来ると?」
「お前が来たいのなら構わん。家の勘定方にでもしてやる。他の仕事が出来るのなら、出世もさせてやる」
すると、ヨヤは今迄以上に真剣な顔になり、口を重くして訊いてきた。
「もし、半妖でも……、取り立てるのですか……?」
「構わない」
人にもなれず、亜人にもなれない半端な存在。両種族から疎まれ忌み嫌われる存在。それが半妖。
彼はそれでも召抱えるのか、と訊ねた瞬間、即答される。
「ぷっ…、あ――はっははは!!」
思わずヨヤは笑い出してしまった。此処までハッキリ言われれば、その言葉を疑う処か、逆に爽快な気分になる。
恐らくこの目の前の少年、相当に非常識な男なのだろう。
これまで多くの士族をヨヤは見てきた積りだった。
彼も一応は元奴隷。人の醜い部分を嫌という程見てきている。その中でも半妖は取り分け嫌われていた。それを平然と召抱えてもいい、と言った彼に興味が沸く。
「それと、俺には一応半妖の知り合いが居る」
「その人は今何を?」
「俺の家臣だ」
「くっくく、あっははは!!」
大法螺を吹いているようには見えない。そういった所がまた笑いを誘う。武士という概念から逸脱した考え、哲学、理論をこの少年は持っている。
「いいでしょう。その役目引き受けます」
「頼むぞ」
アガロは内心ほっとした。此処で断られれば、打つ手無しだったからである。しかし、一応彼も商人。儲け話を逃すような愚行はしないだろうと踏んでいた。
其処でヨヤは話を一旦区切ると、少し間を置いて再び口を開いた。
「しかし、一つ条件があります」
指を一本、黒髪の少年の眼前に突き出した。
イルネは小首を傾げ、アガロは落ち着いてその内容を訊ねる。
「どんなだ?」
「この村の子供達に勉学を教えて欲しいのです」
「そんな事でいいのか?」
何を言われるかと思えばそんな事か、とやや肩透かしを喰らった気持ちになった。
対してヨヤは真剣な眼差しになる。
「私は一応算術が得意で、読み書きも一通り出来ます。しかし、この村の者達は出来ません。となると、教える者が私以外居ないのです」
村の者達は元奴隷や、訳ありの者達。碌な知識を持ちあわせていないし、教育など受けた事がない者が殆どだ。
「私は教育というのはとても大切だと思うのです。私の師は既にこの世に居ませんが、私は師から学び、そして此処までになれました。この村の子供達にも、将来立派になって貰いたいのです」
知識は必要である。しかもそれは確りとした教育を受けていなければ、どうして必要なのかが理解出来ない所に難がある。
このヨヤはその点を良く理解していた。
「いいじゃないアガロ。あんた、読み書きも算術も出来るし、さっきチュウコウにも教えていたけど、中々上手かったわよ?」
横からイルネが口を挿んだ。
その時、ヨヤは些か驚きの表情になる。
「ちょっと待って下さい……。アガロ様は、チュウコウに勉学を教えていたのですか?」
「ああ」
又しても即答だった。ヨヤは『面白い』と心の中で呟いた。目の前の少年は大変な異端児だからだ。
戦国の世は人も、時代も狂っている。この狂った世の中で生きていくには、多少の危険を承知しなければならない。
ならば自身も狂人であれ、とこの行商人は考えている。
ヨヤは出世欲の強い男であった。此の侭終るよりも、この少年と付き合う事で何か出世の糸口が掴めるのでは、と賭けに出ることにした。ナンミ家は前々から噂で聞いており、一度接近したかったのも理由した。
彼の正体が如何であれ、一介の行商人で終る積もりは無い。
アガロの幸運な所は、周りに欲深な野心家が多かった事だ。アガロは彼等に終生助けられ、また脅かされる事になる。
ヨヤは決心した。
「承りました。道中は屈強な者達を数名、護衛として雇うことにします。ご心配には及びません。されど、往復するのですから最低でも一ヶ月、長くても二ヶ月は掛かると思われます」
「ああ、構わん。それと―――」
アガロは一つ質問した。
「書物はあるか?」
「御座いますが?」
「一つ貰う。無論ツケだ」
今の俺には金は無い。そして、子供に勉学を教えるのであれば、何か教材も必要と彼は付け足した。
ヨヤは『良いでしょう』と快く承諾し、互いに目を合わせ一つ頷きあう。
「あ、そうだ。イルネ。暫く村の外には出ない方が良い」
「どうしてよ?」
怪訝な顔をする彼女に、ヨヤは言い聞かすように続ける。
「昨日、スイセン様にも言っておいたんだが、近隣でナンミ軍の兵士による、乱捕りが盛んになっているんだ」
それを聞くと、アガロは苦笑いした。
彼もナンミの人間である。少し複雑な気分になったが、ヨヤは気にしてない、と笑みを向けた。
やがて、行商人は小屋を後にした。
(これで、暫く様子見だな……)
夜、アガロは筵に横たわりながら考えた。今回の事で現状から一歩前進出来た、と。自分の事を報せる術が無かった彼にとっては、ヨヤの存在は救いだった。
恐らく、本人も言うようにナンミ陣営まで行き、報せて帰ってくるまでには時間が掛かるだろう。凡そ一ヶ月、若しくはそれ以上かも知れない。だが、何も出来ないでいるよりは何倍もましである。
(今は待て。必ず吉報が来る……)
首飾りの貝殻を片手で弄りながら、彼は少し心持が軽くなった事に安心しつつ眠りに落ちていく。