第四十二幕・「キョウサク奮闘記」 前編
【――ユクシャ邸・雨漏り屋敷――】
夜も白々明けの頃、一人の奉公人が目を覚ます。
(んりゃ……。そろそろ、起きなくちゃなりゃね……)
眠たそうに目を擦りながら、キョウサクの一日が始まる。
先ず彼は顔を洗うと、出された朝食を急いで食べ始める。もう既に自分以外の奉公人は起きており、屋敷の掃除や朝飯を作り始めていた。
(鬼の奉公人が多いりぇ……)
ずずずっと汁を啜りながら彼はぼーっと観察していた。
ユクシャ屋敷は亜人の奉公人が数名居る。彼等は元々傭兵であり、ユクシャ組の者達だったが、戦で負傷し、体が不自由になったのだという。
アガロはそんな彼等を屋敷の奉公人として雇い、ナンミから送られてきた使用人を送り返した。
ナンミの家臣はそれを無礼と思ったが、リフは自身で面倒見るのであれば、許すと気に留めなかった。
以来、彼等は此処に住み着いている。そして、キョウサクもこの屋敷で働き始めてから既に何日か時が過ぎていた。無論、彼はここ数日無駄に過ごした訳ではない。アガロ・ユクシャという人物を入念に観察した。
「ほらほら、キョウサクさん! 早く食べて、当主様の元へ行っておくれ!」
女の鬼に急かされ、キョウサクは飯をかきこみ、その場を後にして、直ぐに当主の部屋へ向かう。
「起きたか。キョウサク」
「は! おはよう御座いますりゃ!」
普通なら、彼、キョウサクが先に起き、主の着替えから、飯の世話までするのだが、アガロは極端に睡眠が短い。ユクシャ当主は自分よりも先に起きていた。それが最早日常化している。
自分が部屋へ着く頃には、寝巻きから、簡単な着物に既に着替えてしまっていて、手伝う事が無い。
「他の者は?」
「ヤイコク様は既に起き、朝飯の支度をしておりますりぇ」
「ん」
アガロは早足で部屋を出る。一体何時寝ているのか、気に成る程、彼は早起きである。
そして、キョウサクは部屋に敷かれた布団を片付け、掃除を始める。
布団は昨夜敷いた侭であり、使った形跡が無い。何故ならアガロは布団で眠らず、部屋の柱を背に刀を抱いて座って寝むるからである。
この寝方は士族にとって、珍しいやり方ではない。寧ろ、昨今は何時命を狙われるか分からない故、その寝方を推奨している家も多くある。
「おはよう御座います。御当主様」
居住まい正し、行儀良く主君へ挨拶すると、早速朝食を前へ運ぶ。
屋敷に奉公人は勿論居るが、アガロへ食事を出す仕事は彼、ヤイコクが何時も行っている。
「ん。今日は山菜が上手いな」
「今朝、山から摘んだ取れたてに御座います」
「汁も上手い。塩加減が丁度いい」
「恐縮です」
料理は別段豪華ではない。屋敷の者達と同じ粗末な物を食している。だが、アガロは気にしなかった。
それは単にヤイコクが料理上手で、この当主が喜ぶ味付けを心得ているからだろう。
アガロは簡単に食せて、腹持ちが良く、尚且つ味の濃い食事を好んだ。また、非常に早食いである。
ささっと食事を済ますと、彼は馬小屋へ向かう。遅れてキョウサクが広間へ姿を見せるが、其処には既に当主は居ない。
ヤイコクに行方を訊ねると、今度は裏手にある、小屋へ急いで向かった。
「トウマ。昼まで戻らない。留守をしろ」
「へい!」
馬上から青鬼にそう言い付けると、其処へキョウサクが追い付く。
(やっと見つけたりぇ!)
安心したのも束の間。アガロは直ぐ様馬を走らせた。慌てて追いかけるキョウサク。彼は一応アガロの監視役であり、また彼の秘密を握って出世しようと企んでいる。自分の目の付かない所へ行かれては、仕事を果たせていない事になり、出世も遠のく。
彼は全速力で追跡した。その後ろをトウマがそっと見送った。
【――昼頃・ユクシャ邸前――】
「ヤイコク。戻ったぞ」
「お帰りなさいませ。御当主様」
恭しくお辞儀をし、当主を出迎える側近ヤイコク。
「はぁ…はぁ…、やっと、着いたりぇ……」
息を切らせながら屋敷に到着したキョウサク。
(それにしても、よく動くお人りゃ……)
下馬し、ヤイコクと共に屋敷へ上がるアガロの後ろを追いかける。馬はトウマが既に小屋へ連れて行き、飼葉と水を与えていた。本来それはキョウサクの仕事であるが、アガロは何時ものように野駆けをしては、供を置いてさっさと屋敷へ戻る。
その間キョウサクはずっと追いかけてなければならず、体力が続かない。彼が屋敷へ着く頃には、自分の仕事は青鬼に取られてしまっている。
「ヤイコク。稽古をする」
「御意」
短く返事をすると、彼は何処かへさっと姿を消す。
アガロは待っている間、稽古着へ着替え、庭へ出て木刀を握り素振りしていた。
キョウサクは遅れて庭へ行き、直ぐ側へ駆け寄ると、平伏する。
「遅い」
と、アガロが彼へ不満を一つ零した。
「も、申し訳ありませんりゃ!」
遅いといわれても困る。自分は徒歩。アガロは馬。どうやっても開きが出るし、彼は普段から馬を全力で駆けさせる。キョウサクは今迄、彼の目付け役がどんな思い出でこの少年を監視していたかを痛感した。
「待たせたわね」
「リッカ。構えろ」
暫くすると、縁側から腕を組み、堂々と仁王立ちする赤髪の美少女が登場する。
(リッカ殿……。相変わらず綺麗だりゃ……)
内心そう思いながらも彼は、彼女がとんでもなく強い事を知っている。
初めて彼女に会った時の事を良く覚えている。彼女が半妖と知り、酷く心の中で嘲った事も、そしてアガロに言われ、彼女と木刀で稽古した事もだ。
ドウキやトウマが言うには、彼女はユクシャ組の中で一番の使い手であり、最強と評されている。が、キョウサクは信じなかった。
彼は武士に成る事を目標としており、裏でこっそりと武芸を鍛錬をしているし、自分でも中々に腕が立つと自負していた。だが、稽古が始まるとそんな彼の自負心は粉々に打ち砕かれた。
次元が違いすぎる。力も、速さも、身体能力どれを取っても、リッカの方が百倍は上であろう。
彼は最も醜悪で、亜人にも劣ると嫌われている半妖に負けたのである。そのお蔭で死にたくなった事を、今でも鮮明に思い出せる。
「行くわよ!」
「来い!」
稽古と言う名の”試合”が始まる。
(ほんとにリッカ殿は半妖なのかりゃ? ありゃあ、どう見ても、そん所そこらの鬼なんかと桁違いの強さだりぇ……)
彼がそう思ったのも無理ない。
リッカの斬撃は目で追うのがやっとであり、常人なら瞬く間に彼女に切り伏せられるであろう。
しかし、ユクシャの当主は、此処に移り住んでからの三年間、そんな彼女とほぼ欠かさず稽古している。当然、彼女の速さにも慣れるし、癖も理解している。
初めの内は防戦一方だったが、アガロがわざと木刀を下げ、隙を作る。
それを待ってたとばかりに、リッカが速い突きを繰り出すと、彼は横にかわし、下から彼女を切り上げた。
「甘いわ!」
彼女は飛んだ。驚くべき跳躍力。彼女は太陽を背にアガロへ打ち掛かる。
すると、アガロはその力と重さに耐えかね、木刀を落とし、尻餅を付いた。木刀を向けられ、彼はリッカを見上げた。
「今日もあたしの勝ちのようね?」
得意げに笑う赤髪の少女。対して黒髪の少年は俯く。
誰もが勝敗決したと思ったが、その光景を見ていたキョウサクは別の事を考えていた。
(未だりゃ!)
キョウサクは注意深くアガロを見た。
すると、ユクシャ当主は小さく呟く。
「降参だ……」
「ふふん! これであたしの八百九十九連勝。一敗ね」
彼女は油断して木刀を下ろしたその時、
「喰らえ!」
「きゃ!?」
アガロは手に握った砂を彼女へ浴びせかけ、彼女を押し倒そうとする。
「その手はくらわないわ!」
しかし、彼女は分かっていたのか、反応が早かった。直ぐに当主の手を掴み、宙へ目掛けて背負い投げをした。
アガロは思いっ切りぶん投げられ、宙を舞うと地べたに転がる。
(ユクシャ様の凄い所は、ああいうとこだりぇ……)
半ば感心しながら見ていた。勝つ為なら手段を選ばないとばかりに、彼はあの手この手でリッカを倒そうとするが、彼女の方が既に、そんな彼の手の内が読めているのか、最終的には敗北に終る。
「……お前、俺は仮にも当主だぞ? もっと丁寧に扱え……」
「卑怯な真似をしてきたあんたが悪いんじゃない?」
「卑怯じゃない……、武略だ……」
軽口を付き合いながらも、彼は自力で立ち上がった。ちゃんと受身を取っていたようである。途端、さっさと奥の方へ引っ込んでしまった。
キョウサクは慌てて追いかけると、途中、無造作に脱ぎ捨てられた稽古着を拾い上げる。
アガロの後を付けると、彼は直ぐ近くに流れている川へ飛び込み、水泳を楽しんでいた。じっとしていられない性分なのか、彼は何時も動き回っていた。
その直ぐ側で、家臣のヤイコクが飯の準備をしている。
キョウサクはヤイコクという家臣が、大変良く出来ている事に舌を巻いた。
当然と言えば当然であろう。彼は亡きコサンの薫陶を受け、小姓頭にまで上り詰めたのだから相当に優秀といえる。主君の身の回りの世話から、仕事の補佐までこなせるのである。
汗を沢山掻いた後、アガロは決まって川を泳いだ。然程深くも無い川を、まるで河童のようにすいすい泳いでいく。
(ほんとにお上手だりゃ。河童とどっちが上手いかりぇ?)
残念な事にユクシャ組に河童は居ない。彼等は滅多に人前に姿を現さず、存在その者が珍しい。
「此処に居たのね」
「おう! 大将! 今日も元気だな!」
「若旦那! 飯の用意が出来やしたぜ!」
後ろを振り向くと、リッカ、ドウキ、そしてトウマが立っていた。
彼等に気付くとアガロは川から上がる。途端、リッカは狼狽した。
「ちょちょちょ、ちょっと!!? ちゃんと隠しなさいよ!?」
「何を慌てている?」
アガロはきょとんとしている。
「前が見えてるの! 前が!」
リッカは凄い勢いで後ろへ振り向き、当主が全裸である事を指摘した。
が、当の本人は気にした素振りを見せない。
「気になるから、恥ずかしいんだ。意識するな」
キョウサクはアガロへ視線を戻した。
意外にも筋骨確りとしており逞しい。無駄な肉も脂肪も無い。普段、着物の所為で見えないが、鍛錬を欠かさず行っているだけの事はある、と感心した。また、これまでの戦で付いた傷痕も多数見受けられる。
アガロは体を拭き、簡単に褌を締めると、用意された床机の上へ腰を下ろす。
ヤイコクがすかさず昼飯を差し出した。茶碗に湯漬けが盛られている。
彼は箸でそれを勢い良く口の中へかきこむ。しっかりと咀嚼し、飲み込むとまた食す。
この時代の主食は白米。ソウ国が天下統一をする前は、白米は貴族が食べる物であったが、統一後は生産量を増やし、一般家庭にも広く親しまれるようになった。だが、アガロは白米よりも玄米や麦飯の方を好んで食べた。
理由は、白米は直ぐに力に変わるが腹持ちが悪い為である。長く動く彼は長時間、腹に居座る他の穀物を好んで食した。今、彼が食しているのは玄米で、歯応えがあり、直ぐ空腹にならない。三杯程お変わりをして、食い終わる。
茶碗と箸をトウマへ無造作に手渡すと、着替えを始めた。アガロはゆっくりと着替えていられない性分であり、それはヤイコクも十分理解しているのか、彼が立ち上がった途端、直ぐに新しい着物に着せ替えた。
早業である、とキョウサクは思った。そして、見事なまでにアガロの動きを分かっている。
(ユクシャ家はこのヤイコク様が切り盛りしているりぇ……)
キョウサクは以前、ドウキをアガロの右腕、トウマを左腕と評したが、ヤイコクという人物を見てからはその考えを改めた。彼こそアガロを影で一番支えている人である、と思ったからだ。
ユクシャ組の訓練から兵糧管理、内部調整、陣立てから屋敷の者達への気配り、その上当主の世話までする。彼は一人で、ドウキ、トウマ、そして自分の分まで働いている。
恐らく、情報管理や収集に至る裏の仕事もこなしているのだろう。そう思えてならなかった。ユクシャ組の中で最も多忙な人、とキョウサクは彼を評価していた。
「御当主様。そろそろ、軍学の時間です」
体を動かした後は、勉強が始まる。基本、授業はヤイコクが行っている。
コサンに教えて貰えなかった軍学を、彼から聞くのが日課である。因みに、アガロは書く事が苦手であり、字が汚い。
静かに黙って机に向かい書状を認める事もあるが、何故か途中で飽きてしまう事が多々ある。
そういう時は何時もヤイコクが代筆するという。一応ユクシャ当主の認めた文は存在するが、酷い癖字で何を書いているのか分からない。
「ヤイコク。聞かせろ」
言葉を短く発しただけで彼はふっと立ち上がり、今度はトウマが用意した鉄砲で的を狙った。
本当に勉学をする気があるのか分からない態度。これもユクシャ組では当たり前になってしまっている。
「はい。では、今日は陣形の講義に致します―――」
ヤイコクは何時も当主の耳へ届くように、声を張り上げて語る。
「先ず、鶴翼の陣。というのが御座います。これは鶴が両翼を広げた姿に似ている為、そう名付けられたと言われており―――」
すると、銃声が響く。弾は寸分違わず、的のど真ん中に命中した。
すかさず、トウマがアガロへ、次の鉄砲を手渡す。
「この陣形は、主に敵を包囲殲滅目的で組まれ、味方の数が多い時に効果的で―――」
次の銃声が鳴り響く。
思わずキョウサクは後ろから声をかけた。
「ヤイコク様」
「―――そして、……何です、キョウサク?」
「ユクシャ様は本当に、お話を聞いているんですかりゃ?」
「聞いていますよ」
彼の思った疑問に、平然と答えるヤイコク。
「なりぇど、ユクシャ様は先程から鉄砲に夢中ですりゃ……」
「御当主様は大人しくしているのが、性に合わないのでしょう。されど、非常に勤勉です。私が言った事を確りと暗記しています」
「ヤイコク」
二人が話し込んでいると、アガロが声を掛けた。
「続き」
「は、申し訳御座りませぬ」
ヤイコクは講義を続ける。
昼の中頃になると、アガロは部屋へ引っ込んだ。少しばかり仮眠を取る。
(はぁ……。やっと休憩りゃ……)
この時だけは至福の時間である。
部屋をこっそり覗くと、当主は柱に背もたれしながら、一ヶ所に集められている書物に視線を移す。そして、無造作に一冊、その中から取り出すと、読書を始めた。
だが、それも僅かな瞬間であり、ぺらぺらと、数項捲り、流し読みすると彼はぽいっと山の中へ投げ捨て、眠りに付く。
(ユクシャ様はよく書物を読むが、最後まで読んだ所を見た事がないりぇ……)
彼にとって書物とは一種の催眠効果を持った道具なのだろうか、眠る前は必ず目を通す。
キョウサクは今の内に、飯を済ませたり、屋敷の者達と話したりなどして、何か出世出来そうな有力な情報は無いかと探りに入る。
やがて、当主は目を覚まし、今度は夜の部へと続く―――。