第四幕・「姉弟喧嘩」 前編
天暦一一九三年・巳の月・某日。
【――タキ城・本丸殿――】
「御館様。ご無事にお戻り下さり、先ずは祝着至極に存知まする」
ギ郡の北、エン州ビ郡の大名ナンミ家が攻め込んで来たのは今から一ヶ月程前の事だった。
ナンミ家はビ郡の守護大名を滅ぼし、下克上を果たした大名家であり、突如国境を越え領内に雪崩れ込んで来たのだ。
戦乱の世が始まって既に何年も経つが、ギ郡には未だ守護大名家が健在であり、ギ郡八県に散らばる豪族達を何とか束ねている。
ユクシャ家は守護大名家に仕え、その内一県を統治しているが、他の三県の豪族とは縁戚関係にあり、守護大名家臣団の中でもある程度の発言力を持っている。
また、老将コサンは戦上手であり、此度の戦では一族郎党を率いて敵を国境付近にまで追い返して、和議を結び帰還したのだ。
「うむ、シグル。留守役ご苦労じゃった。して、……あやつは何処じゃ?」
「……申し訳ござりませぬ。又しても逃げられました……」
はあ、と思わず溜息を吐く。その原因は言うまでも無い。自由奔放な嫡男アガロである。
何故ああも我侭になってしまったのか。思い当たる節はあるが今は後にしよう、とコサンはかぶりを振った。
「まったく! あの軟弱物は! 折角、父上が帰ってきたというに、一体何処をほっつき歩いているのか!?」
そう言って怒りだしたのは長女のタミヤ。今年十三になった彼女は、元服の儀を終え晴れて成人し、武士の仲間入りをした。そして今回の合戦に参加し、初陣を果たしたのだ。
未だ少女の彼女は母に似て美しい顔立ちをしているが 切れ長でやや釣り目がち。色白で唇は朱を注したように赤く、綺麗な黒髪を後ろで束ね総髪にしている。
将来は美人になるだろう。しかし男勝りな性格で、非常に負けず嫌いなのが難点だった。
その昔、宴の席にて酔った家臣が『姫様は武士にはなれませぬ』と冗談を言った事がある。
同席していたタミヤは酷く悔しい表情を浮かべ、席を立ち奥へ下がってしまった。父も家臣も酔っていて全く気にしていなかったが、暫くすると、彼女は持ってきた刀を抜き放ち、自分を貶した家臣に斬り掛かったのだ。
慌てて娘を止めて家臣から離したが怒りは収まらず、後日家臣が謝罪し、ようやく怒りを納めた。
「お父様、ご無事にお戻り下さり、祝着至極に存知まする……」
「おお、ルシア! 暫く見ない内にまた大きくなったのう!」
次女ルシア。姉とは正反対で大人しく、また弟とも正反対で引っ込み思案な彼女は、姉より一つ年下の十二才。
姉と容姿は似ているが違う所は茶髪で、両目が大きく垂れ目。非常に人懐っこい顔をしている。
コサンは将来、彼女を他家へ嫁がせようと考えていた。
「まあまあ、ルシア。久しぶりですね。この母にも元気なお顔を見せて下さいな」
母親へ向き直り一礼すると、ルシアは面を上げて微笑む。
一ヵ月間会えなくて寂しい思いをしたのだろう、母はそれを感じ取ると、娘を抱き寄せ互いに再会を喜び合う。
抱きしめあう母娘の姿に見ていた者は思わず頬が緩む。
すると、廊下を歩いてくる足音と、『若殿様、お待ち下さいませ!』と叫ぶ侍女の声が聞こえた。
「父上。無事の帰還、祝着至極」
短い挨拶を述べ、皆の前に姿を現したのは嫡男アガロ。
その後ろで息を乱しながら座り、頭を下げるのは侍女のマヤ。
彼は何時ものボロ着を着て、ズカズカと近づき一礼もせずに胡座を掻いた。
「まあまあ。久しぶりに家族全員、揃いましたね」
「アガロ! 父上の前で何たる無礼な!!」
「勝ったか、父上?」
「おい、無視するな!?」
隣で喜ぶ母と怒る姉の事など気にもせず、戦果を訊ねてくる息子。
「うむ。勝ち戦じゃ。散々に懲らしめてやったわい。ビ郡の猿共もこれで暫くは大人しくするじゃろうて」
「それは祝着。では俺はこれで……」
「待て、アガロ! まだ話は終わってないぞ!」
立ち上がろうとするアガロを、姉のタミヤが制止する。
「姉上。俺は行く所が……」
「ふん。どうせまた得体の知れない連中の所だろう!? お前は嫡男だ! そうふらふらと出歩いて言い訳ないだろ!」
「…………」
「待て! 逃がさんぞ!」
黙って行こうとするアガロだったが、姉に腕を掴まれる。
怒ったタミヤは『放せ!』と叫び嫌がる弟を外へ連れて行き、投げ飛ばした。
「シグル、木刀を二本持って来い! 私が直々にその根性叩き直してくれる!」
良い薬だろう、とは思わないが仕方無しとばかりに、コサンは命じた。
やがて、シグルは木刀二本を手渡すと、タミヤは一本をアガロの方へ投げ渡し、自分はもう一本の木刀で構える。
「どうした? 立て! 姉が怖いのか!?」
「当たり前だ! 姉上は何時も手加減しないだろ!?」
立ち上がり木刀を片手で握る。構えが隙だらけだった。
「問答無用!!」
上段から振り下ろすと、アガロは間髪でそれを受け止める。
「腹が空いてるぞ!」
蹴りを一発入れると、弟は前へ身を屈める。すかさず背中へ木刀を打ち込むと、彼は地面にしゃがみこんだ。
「もう終わりか? この軟弱物! 弱虫! 腰抜けめ!」
暴言を吐くがアガロは全く動こうとしない。
痺れを切らし無理やり立ち上がらせようと手を伸ばすが次の瞬間、バッ! とアガロは姉の目へ向けて砂をかけた。
「お前!? 卑怯だぞ!?」
「卑怯も糞もあるか!」
いきなり視界を奪われ動揺した隙を突き、アガロは脱兎の如く逃げ出す。
暫くすると姉は、その後を追いかけた。
そして見ていた父は、もう少し仲良くは出来ないものか、と溜息を吐いた。