第九幕・「浜辺」
天暦一一九六年・寅の月。
【――ユクシャ県・タキ城・当主の間――】
「……若様、だらしのう御座りますよ?」
「…………」
溜息交じりの声で、マヤに窘められるが、当の本人は聞いていないのか返事をしない。
「若旦那、マヤ姉さんもああ言っておりやすんで―――」
「五月蝿い、マヤ、トウマ! 俺は今眠い!」
怒鳴り目の前で大の字になり寝転がっているのは、先月元服を済ませ、家督を継いだ若きユクシャ家当主アガロ・ユクシャ。
彼は未だ家督を継いだ実感が沸かないのか、それともただ単に不貞腐れてるだけなのか、先程から起き上がろうとしない。
天暦一一九六年・子の月。
サイソウ城にて宴が催されてる最中、十三代当主ザンピ・サイソウは逝った。最後まで兄弟の不仲を心配していたという。彼の死は遺言通り暫くの間、重臣達により伏せられる事となった。
そんな折、アガロは父コサンに言われて元服し、家督を継いだ。
いや、この場合『元服させられ』『家督を継がされた』と言った方が正しいかもしれない――。
「ですがね若旦那。あっし等は若旦那のお世話をしなくちゃならねんですよ」
「そうですわ。若様がそうでは、私達がシグル様にお叱りを受けてしまいますもの」
「……ならもういい」
いきなり立ち上がると部屋を出て行くアガロ。
「若旦那、どちらへ?」
「野駆けだ。トウマ、馬を用意しろ!」
「へい!」
二人して部屋を出て行く。後にはマヤだけが残った。
「アガロ、居るか? 入るぞ」
部屋に入って来たのはコサンと妻のサヒリ。
マヤは慌てて居住まい正し、平伏する。
「こ、これはご隠居様。それに、奥方様まで……」
つい緊張して声が上ずる。
「マヤ、お元気ですか?」
「はい。お蔭様で変わり御座いませぬ」
「それは良かったですわ」
何時ものように微笑み気さくに声をかけてくるサヒリのお蔭で、マヤは少し心を落ち着けた。
「隠居か……。矢張り、未だその呼び名は慣れぬな」
「も、申し訳御座りませぬ……」
隠居、とはコサンの新たな呼び名であった。しかし、未だに違和感があるのか、コサンは首を傾げた。
「いや、よい。所でマヤよ、倅は何処へ行ったのじゃ?」
「若殿様はトウマと共に野駆けへ行かれました。何時頃戻るかは伺ってはおりませぬ……」
「あらあら、それは残念ですね……」
落胆して呟くサヒリを見て、申し訳無いような気持ちになる。折角、自分を信頼して現当主の世話役にしてくれているのに、これでは勤めが果たせていないではないか、と少し自己嫌悪した。
「ふむ。そうか。あやつの行きそうな所はシグルに聞けば分かるじゃろう。邪魔をしたな」
二人が部屋を出て行こうとすると『お待ち下さい』と、マヤが呼び止めた。
コサンはゆっくりと振り向き、マヤへ視線を落とす。
平伏している彼女の手は震えていた。
「……何じゃ?」
「恐れながらご隠居様に一つだけ、お訊ねしたき事が御座りまする」
「マヤ?」
怪訝な表情を向ける当主の両親。
「許す。申してみよ……」
マヤは心を落ち着けようと深呼吸をし、そして小さい声で訊ねた。
「何故、今でなければならないのですか……?」
「どういう意味じゃ?」
「何故、今若殿様を元服させ、家督を継がせたので御座いますか?」
コサンは無言の侭、ただ彼女を凝視し、妻のサヒリは顔色を変えた。
マヤ自身、自分が何を言っているか分かっている積りだ。一介の侍女の分際で、主家のお家事情に口出しするなど決してしてはならない。
その上、彼女は鬼の娘。主君の不興を買うと奴隷として売られる事もあり、最悪死刑にもなる。相当に勇気が要る質問だった。
「一介の侍女の分際で差し出がましくは思いまするが、後二年もすれば若殿様は元服をし、家督を継がれます。故に何故後二年待てないので御座いますか?」
「マヤ、お黙りなさい!」
何時も優しいサヒリだが、この時ばかりは流石に彼女の身を案じて怒鳴りつけた。対してコサンは先程から無言でいる。
マヤは勇気を振り絞って言い続けた。
「恐れながら、今の若殿様には当主の座は荷が重いように思いまする。いくら嫡男とはいえ、若殿様は未だほんの童……。これでは余りにも若殿様が…お可哀想に思いまする……」
長い沈黙が続く。
暫くしてコサンはゆっくりと彼女に近付き、しゃがみこんで目線を合わせた。そして、そっと細い肩へ手を落とすと、ビクッと彼女が体を強張らせる。
「マヤ。心して聞くがよい。わしがあいつに家督を継がせたは、お主等を守る為じゃ……」
コサンの口調は思いの外優しかった。別段、怒っている訳でも、不快を顕にしているようにも思えなかった。
「守るとは……?」
「何れ、分かる時が来る……」
コサンが立ち上がると、マヤは慌て平伏した。
「ご隠居様、出過ぎた事を申し、申し訳御座りませぬ。ご無礼お赦し下さい!」
額を畳に押し付け、これでもかというくらい彼女は誠心誠意謝罪をする。
「よいよい。それよりもわしは嬉しく思ったぞ」
「な、何故に御座りましょう!?」
「あやつは周りに迷惑をかけてばかりいるかと思いきや、以外に好かれている事が分かったからじゃ。それを証拠に、お主は無礼を承知でそのような質問をしてきた。それはあやつの事を少なからず、大切に思うておるからじゃろう?」
「そ、それは……」
「マヤ……」
「奥方様! 申し訳御座りません! 出過ぎた事をしました…」
「マヤ……。面を上げて下さい」
恐る恐る顔を上げるとマヤは目を丸くした。彼女の目の前でサヒリが涙を流しているからだ。
「お、奥方様!?」
動揺する彼女にサヒリは優しく語り掛ける。
「マヤ……、感謝します。あなたが居てくれればきっとアガロも、立派に当主としての役目を果たす事が出来ますわ……」
最後の方は涙声で、殆ど聴き取る事は出来なかった。
マヤは余程緊張していたのか、目の前のサヒリにつられて泣いてしまう。
「マヤ……。これからもあの子の事をお願いしますね?」
「はい……!」
コサンは二人の姿を暫く見守ると部屋を後にした。
そしてシグルに馬の用意をさせ、アガロの行きそうな場所へ案内させる。
【――ハギ村――】
「ガジュマル! 手を休めるな!!」
「分かってるよ親父! そんなに怒鳴らなくてもいいだろ!?」
ガジュマルは今漁を終え、明日の仕事の為に網の手入れをしていた。地味な作業ではあるが、毎日の糧を得るには大切な事だった。
すると遠くから馬の駆ける音が聞こえる。しかもその音は次第に大きくなり、近付いて来る。
気になって振り向くと、其処に居たのは彼の親友だった。
「ガジュマル、久しいな!」
「アガロ様!」
「今暇か?」
「うん! 暇すぎて死にそうな所だったよ!」
本当は仕事が残っているのだが彼はそれをほっぽり出して、馬を木に結び歩き出すアガロに付いて行く。
ガジュマルの父親は、やれやれと諦めてしまった。
「アガロ様一人かい?」
「いや、トウマを連れて来てたんだが、途中で置いてきた」
「どうしてだい?」
「あいつは馬に乗れない」
「……つまり自分は全力で駆けて、トウマを置いてきたのかい?」
「そうだ」
トウマの必死で追いかける姿が目に浮かぶ。
「……アガロ様は相変わらずだね?」
「何の事だ?」
そんな事など気にもしないアガロは、ハギ村の浜へ向かうと何時もの岩の上に腰を下ろす。
心地良い波の音と、潮風が彼のお気に入りである。
「……アガロ様。何か悩み事かい?」
「何でそう思うんだ?」
「いや、何となくだよ。アガロ様って考え事する時、何時もここに居るからさ……」
ガジュマルの言う通りかも知れない。アガロは思ったが、口には出さなかった。確かに彼は落ち込んだ時、悲しい時、そして思い悩んでる時は何時もこの浜に居る。
何処までも続く青い海や、高く広がる空が、自分の悩みを掻き消してくれるかも知れない、と思ってしまうからだ。実際にそんな事はないのだが、しかし波の音を聞くと、幾らか心が落ち着くのは確かだった。
暗い表情をするアガロに対してガジュマルは反対に笑顔になる。
「……何がそんなに可笑しいんだ?」
「いや、可笑しいんじゃないよ。安心したんだ」
「安心?」
訳が分からず訊き返した。
「アガロ様が全然変わってなくて安心したんだ。いきなり元服して当主になったって聞いてびっくりしたんだよ? もしかしたら、もうおいら達会えないのかなって思ってさ……」
「馬鹿。俺がそう簡単に変わると思うか?」
「うん。だから安心したんだ」
「……そうか」
どうやら知らない間に心配をかけていたようだ。謝ろうとも一瞬思ったが、自分らしくない気がして止めた。
「ガジュマル。お前は変な奴だな?」
「なんだかアガロ様に言われると腹が立つね」
「どういう意味だ!?」
お互いに笑みを浮かべる。
アガロは海の彼方へ目線を移すと表情を変えた。
考え事をしている時の顔だ、ガジュマルは思った。
「ガジュマル。俺はな……」
「うん」
「…………」
黙り込むアガロ。
そんな彼が言葉を発するまでじっと我慢し続けるガジュマル。
長い沈黙が続いた。