8.「食費を切り詰めたらいける、かな」
「ふう」
キリは両手で強く拳を作り左右に水平に延ばす。そしてそのまま両腕を後ろに持っていく。
「ん、ん~ん」
キリは時間を忘れるほど集中出来る。一息付いて伸びをするのは一段落付いた時である。
「んー、やっぱり最近疲れっぽいなぁ。お母さんに言われた食事を取ってないからかなぁ」
椅子の小さい背持たれに寄り掛かり背を反らし、両手をぶらーんとし、天井を見ながらつぶやく。まくっていたパジャマの袖が元に戻る。すこし肩がはだけるが気にしない。
息抜きにはTVを見る。まだ午後三時前。平日のこの時間、やっているのはワイドショーとか、サスペンス物の再放送とか、だ。ボーっと見るにはいいものだ。
「ああ、いいなぁ」
キリがたった一人、カーテンの締め切った蛍光灯の明かりの部屋の中、無気力にぼそっと呟く。今日は同年代の女の子が映ると、そこに目が行ってしまう。今日のキリはそこばかりだ。
今までなら無意識に視線を反らしてしまっていたところだ。太陽の日差しの中を元気に走り回る女の子、濃い影の出来る外で素足を出している女の子、水着になっている女の子。彼女達が映ると、なんともいえない気持ちになり、それ以上見たくなくなってしまう。
ないものねだり? 自分には与えられていない楽しみ。羨ましさが心を押しつぶしに来る。
知らなければ羨ましくなることはない。だから知らない振りをしてきた。見なければ知ることはない。悲しいことかも知れないが、知ることがもっと悲しく、辛くなることもあると思う。そう思うこともまた辛くなるが、キリはそうしてきた。
自分は『違う』のだから、と。
「ふーん」
でも、今日はちょっと違う。今日の朝から、キリは違っているのだ。服は人に見せる前に、自分で楽しむもの。キリはそれも出来なかった。今までは出来なかった。
「いいなぁ、あたしも……着てみたいな……」
TVの中の女の子の姿を、鏡に映っていた自分の姿に置き換えて見ていた。しばらくはにやにやしながら、時には頬を赤らめながら楽しんでいた。
キリはいつの間にか、ノートPCとタブレットをテーブルの端に寄せ、空いたところに両腕を重ねておき、その上に顎を置いてTVを見ていた。もちろん、猫背になる。
ちょうどCMに入ったところで、猫背の体勢をやめ立ち上がった。
「もーーーーーーー。あたしも、着てみたい!!」
キリは自分の声の大きさにちょっとビックリした。でも、感情の高ぶりが自分でも実感できた。なぜかちょっとテレながら洗面所に行く。
「こんにちわ」
そう言いながら、鏡の中の自分に挨拶。その彼女は笑顔で答えてくれる。キリが小さく手を振ると彼女も小さく手を振り返してくれる。そして頬がほんのり赤くなる。
「なんか、かわいい」
彼女も自分なんだという認識を少し忘れているようだった。
「やっぱり一着でいいから、なんかかわいいの着させてあげたいなぁ」
厚いカーテンの下ろされている窓の脇にある壁掛け時計をみる。午後四時前。『よし』とつぶやくとそのままパタパタとパジャマをバタつかせながらキッチンのカウンターの下の小さい引き出しを開ける。中にあった通帳を取り出し、見る。
「う……うん、もうちょっと食費を切り詰めたらいける、かな、うん」
パタッと通帳を閉じ、引き出しにポーンと放り込む。そのままTV脇にある充電器上の携帯を取りに小走り。
手に取った携帯の中のアドレス帳は、ほとんど名前がない。そのアドレス帳の「え」の欄の唯一の名前、「衛藤完美」を選択する。
「カンミさん、時間あるかなぁ」
携帯の発信ボタンを押す。
プルルルルルルルルルルル
プルルルルルルルルルルル
携帯を両手で抱え込むように持ち、耳に充てて待つ。固定電話でないので動き回れるはずだが、キリは、携帯を取ってその場で立ったままだ。そしてなぜか猫背。呼び出し音の鳴っている間はなぜかドキドキしてしまう。
カチャ
「あ、あの……」
向こうが喋る前にキリの声が出てしまった。
「……あ!」
またやってしまった、と言った時、またもう一つ声が出てしまった。
【はい……あー、キリちゃん? キリちゃんねぇ。めずらしいぃ】
「あ、ええ。そう、あたしです。キリです」
【うん。どうしたの? 緊急ぅ?】
比較的高い声でゆったりとした言葉が携帯から聞こえてくる。『緊急?』と聞いてくる割にはのんびりした口調である。カンミは外出中らしく、ちょっと声が遠い感じで、そして周りの車の音、人の話声も微かに聞こえてくる。久々に聞く街の音がキリに届く。
「……あ、ううん。今、時間大丈夫ですか?」
【ちょっとまって。今、客先なの。もう少しでお仕事終わるから】
「あ、ごめんなさい、また……」
そう『またかけます』と言おうとしたのだが……
【はい、終わったよぉ。今日は、後、帰るだけぇ】
「え? あ、お疲れ様です」
【なになに、どうしたの?】
「あ、はい。一個、あたし的グッドニュースです」
【なになに?】
「う、うん、実はね、……あたし、鏡に映ったんです」
キリが相変わらず抱え込んで携帯を持っている体勢で、静かにそう言った。少し待つ……。リアクションがない。『そっか、カンミさんには関係ないことだもんね……』、そう思った時……
【ホント!?】
突然大きな声が携帯のスピーカーをバリバリ揺さぶった。キリはその音にびっくりして携帯を遠ざけた。きっとカンミのまわりでも注目を集めたことだろう。
キリは落ち着いて携帯を持ち直した。耳を近づける前に、声は聞こえてくる。
【ねぇ、ホント? やったぁ】
キリは、喜んでくれるカンミに感謝しつつ、少なくとそこにいなくてよかった、と。
【ねぇねぇ、じゃあ、お洒落しなきゃぁ?】
「あ、はいっ! ぜひっ!」
キリは急に伝えたかった話になったので、慌てて返事した。
「実は、そのお願いだったんです」
【そぉ。いいよぉ。買っていくよ。どんなのがいいのぉ?】
「え? あ、そっか……考えてなかった……」
【おまかせってことね】
「あ、はい、です」
【うふふ。了解ですぅ】
その時、電話の向こうからもう一人、小さい女の人の声が聞こえた。
【衛藤さん、大丈夫?】
【あ、はい、お友達のキリちゃん】
【ああ、あの。そう。じゃ、お先にね。衛藤さん】
【あ、お疲れ様ですぅ】
カンミの同僚の挨拶がちょっと小さく聞こえた。キリは、晴天の中、カンミさんと同僚の女の人が颯爽と歩き、営業をしているテレビドラマのワンシーンを勝手に想像していた。
【んじゃあ、今日でいい?】
「え? いいんですか?」
【うん、でもー、今日、ちょっと遅くなるかなぁ。それでもいい? ダメなら来週になっちゃう】
「今日、遅いって、どれくらい?」
【んー、買い物してぇ、会社戻って、ちょっと処理して……】
「あ、ゴメンね」
【ううん。いいの。ちょっとお祝いしよぉ、ね】
「はい、ありがとう」
【じゃねぇ!】
「はい」
ツーツー
キリはしばらくカンミと通話していた、立ったそのままの姿勢でいた。
「カンミさんはあたしのこと、同僚にどう話しているんだろう」
つまらない想像である。
「陽に当たれない、鏡にも映らない、変な子、とかかな」
電話で会話を楽しんだ後のこの味気のない『ツーツー』。それは、今朝と同じ、お祭りの後のあの気だるさと同じ感覚。それがつまらない考えを呼び起こしているようだった。
そしてそのつまらない考えは、日が完全に暮れるまで続いた。
「街中のカンミさんかぁ」
ノートPCの前に座ってタブレット上でペンをうごかしてはいるが、真っ白だった画面に『の』の字がいくつも書かれていた。仕事は捗らない。
「やっぱり、夜、あたしと会う時より、おしゃれしているのかな。昼、どういう人と会っているのかな」
今日、太陽の下に居るカンミに電話し、家に居る時とは違う街の音の中にいたカンミを実感してしまった。『カンミさんは……普通の子として生活できているんだ』、と。
「ふう」
うなだれながら大きなため息を付いた。それは、悪いほうに考えてしまうキリ自身に対するため息なのかも知れない。
「あー、やめやめっ」
そうちょっと大きめの声をあげ、椅子を後ろに倒しそうな勢いで立ち上がる。そして仕事とつまらない考えの両方を止めた。
気が付くと日は完全に暮れていた。
「ありゃ」
ゆっくりと厚手のカーテンを開ける。厚手とはいえ陽の光が射しているかどうかはカーテン越しにもわかるのだが、一応慎重に開ける。
太陽の沈んだ後がキリの外出出来る数少ない時間帯である。しかし、普通の人にとっては『静』の時間帯。賑やかな『動』の時間は今の外には無い。
「もう、真っ暗。……さて、今日はいつもみたいに玄関で帰すわけには行かないもんね。買い出しにでも、行きましょか」
カーテンを全開し、その床まである窓の前で腰に手を充て、伸びながらひとりごちた。
ひとりごちてばかりのキリですね。
ちょっと書きたまっているので、連日投稿実施中です(もうすぐなくなる)。




