86.「あたしの、レベル3の症状に似ているっていうの……」
ヒロは追い出されずにリビングに通された。
「ホント、次、おいたしようとしたら、もう入れないんだからね」
そうちょっと頬を赤くし、膨らませていた。
「すみませぬ……」
そう、苦笑いするしかなかった。そして『やばい、無意識だよ……』とコントロール出来ていない自分にちょっと焦っていた。
「ところでさ……」
ヒロは少し空気を直そうと一つ聞いてみた。
「なに?」
キリはちょっと怒っているフリをしている。
「前にも聞こうと思ったんだけど、なんで『おいた』っていうの? いたずらの……ことだよね?」
「え? そう言わない?」
「……うーん、言わないことないけど……、子供相手に言う言葉、だよ?!」
「え? そ、そうなの?」
キリは軽く握った右手を口に宛て、驚いた様に言った。ヒロはちょっとだけフォロー。
「ま、オレなんか、まだまだ子供みたいなもんだけどな」
「そ、そうだよ。そうそう」
キリもそれに乗っかってきた。ちょっと恥ずかしそうに笑いながら……。元気に笑うキリを見てヒロはホッとしていた。
しかし、『お母さんからの電話の内容は気になる。あのお母さんだ。他にもキリの気持ちを考えずにいろいろ言っていそう』とも思っていた。
「ね、ヒロちゃん、コーヒーいれて?!」
すこし腰を『く』の字に曲げ、少し甘えたような言い方をする。ヒロは今まであまりなかったこの声にドキッとしてしまった。もちろん返事は平常を装う。
「ああ、いいよ」
ヒロが入れるコーヒーと言っても別に凝った物じゃない。単に、インスタントコーヒーに砂糖と牛乳多めに入れるだけだ。しかし、キリはたいそうお気に入りのご様子。
キリはいつものように、リビングのテーブルに折り畳みのパイプイスを持ってくる。そしてそこに座り、両手で頬杖を突き、キッチンで作業をするヒロを楽しそうに見ている。
インスタントコーヒーを入れるのにそんなに時間はかからない。頬杖をついて、まもなく入れ終わる。
「はい。いつもの」
ヒロは『いつもの』と言うが、いつも分量は適当だ。キリもそれはわかっていて、毎回ちょっとずつ違うのが、また楽しみになっていた。
「ありがとう」
ヒロも自分の分を持ってリビングへ回る。そしてちょっと芝居っぽく、
「こちら、空いてますか?」
と言う。
キリは一瞬、え、という顔をしたが、すぐに気が付き、澄まし顔で返した。
「連れがおりますので……」
「え~」
ヒロはわざとらしくがっかりな声をあげる。キリはニコッと笑った後、珍しく大きく口を開けて笑い出した。
「あははははは」
それをすこし半分ほほえみ、半分悩み顔のヒロがテーブルに手を付き、立ったまま見ていた。
リビングの隅に、今朝持ってきた荷物があることは確認した。おそらくプレゼントの話につなげたらこの笑顔のままだろう。しかし『この質問をすると、また笑顔が消えちゃうかなぁ』と思いながらも、やはり先にお母さんの電話についてを先に聞くことにした。そう思った瞬間。急に乾いてきた口へ染み込ませるようにコーヒーを含ませてからゆっくり話し始めた。
「なあ、キリ……。もしよかったら、お母さんからの電話の話、聞かせてくれないかな」
表情には努めて優しく、明るく話した。ヒロの予想通り、キリの表情から笑顔が消えた。そして少しの間の後、小さくうなずくと、いつも通りチビチビ飲んでいたヒロコーヒーを一気に飲んだ。
「お、おかわり、おねがいします」
そうペコッと頭を下げながらカップを差し出した。その時のキリの顔に笑顔はなかった。
ヒロは、カップを受け取ると、ゆっくりキッチンへ回った。
「今朝、まだ外が暗いとき、携帯がなったの。起きていなかったらたぶん気が付かなかった」
キリはゆっくり話し始めた。ヒロは聞きながらゆっくり手を動かす。
「お母さん、時差のことをあまり考えてなかったみたい。『こんばんは、でいいのかしら?』って」
キリはそう思い出しながらちょっと笑っていた。ヒロも合わせて微笑む。
「前、ヒロちゃんに電話した時、あの事件のこと話したんでしょ?」
「ああ、『事件起きてないか』って聞かれた時、話したな」
「うん、それで……よくわかんないけどお母さんも調べていたみたい。それで、今回も事件あったでしょ?」
「ああ」
「その行動が、あたし……あたしの……」
キリの声が詰まった。ヒロが顔を上げると、キリは目を真開いて手をプルプル振ふわせていた。
「キリ!」
ヒロは思わず大きな声を上げた。そして入れかけのカップをキッチンに置き、急ぎキリの方へ回った。
ヒロがその震えた手を強く握るとキリも我に返ったようにヒロの顔をハッと見た。
「あ、……ゴメンなさい」
「大丈夫か? 無理に話さなくてもいい」
「ううん、聞いて……。でも、ちょっと握ってて……」
キリはちょっと恥ずかしそうに言った。ヒロは少し握る手に力を込めた。
「うん、……なんか、その事件を起こした人の行動がね……」
「うん」
「あたしの、……レベル3の症状に似ているっていうの……」
「レベル3?」
「……うん、末期だって……」
「末期? 末期ってなんだよ?!」
ヒロは声を荒げ、思わず握る手に必要以上に力が入ってしまった。
「イタッ」
「あ、スマン……、……まっ、末期って、……なんだよ……?!」
今度は小さく独り言のように言った。
「よくわかんない……」
キリはそう言うと不安な表情のまま俯いていた。それ以上キリもわからないようだ。母からの中途半端な情報はキリとヒロの不安を煽るだけの物にしかならなかった。
しばらくして、ヒロは一度手を離した。変な汗をいっぱいかいてしまったからだ。その手は見ただけで濡れているのがわかるほどだった。もちろんキリの手にもそれはついていた。
「ちょっとまって」
ヒロは慌てキッチンに戻り、手を洗いながら布巾を一つ絞った。それをキリに渡そうと顔を上げると、キリは手のにおいを嗅いでいた。
「キ、キリ?」
ヒロからは何とも情けない声が出た。キリはそれに気が付いて、照れ笑いしながら言った。
「なんか、不思議なにおい」
そのキリの顔はちょっとだけ笑顔を作っていた。
「こ、これで拭いて……ください」
そう言ってヒロは急いで布巾を渡した。




