56.「ドライブ、行かねぇ?」
その日、キリは眠れなかった。
ヒロが帰った後、二階に上がり、薄ピンクのシャツを脱ぎ、デニムショートパンツだけの格好で昨日ヒロが寝ていたこのベッドで丸くなってみたが、まったく眠れない。しばらくゴロゴロしてみるが、状況は変わらない。
眠くないわけではない。眠りそうになると何かが心のなにかに忍び込んでくるような感覚がある。
「昨日、一杯寝たから大丈夫」
そう強がってみる。
時計を見ると、まだ21時前。ちょっと遅いが、明日また来てくれるヒロの為に……
「少しでも迷惑掛けないようにしなきゃ……」
そうひとりごちて起き上がった。
さっき脱いだ薄ピンクのシャツを再び着て、また一階に下りる。
まず、リビングの明かりだけをつけ、キッチンの冷蔵庫の中身を確認する。ほとんど何も無い。
「恥ずかしいなぁ、もう。こんなの見たら、心配されちゃうよね」
ヒロに見られた時の事を思い出し、ぼそっと呟く。足りないものをメモってから買い物に行こうと思ったが、メモの必要も無い。何にも無いのだから。
キッチンの下の引き出しから、ATMの封書を取り出し、中から2枚ほど諭吉さんを取り出し、一回軽く拝む。そして、財布に差し込んだ。
リビングの明かりはつけたまま出かけることにした。
裸足のまま玄関で靴を履く。そして、下駄箱の扉の鏡にいるリキに、
「じゃ、行ってくる!」
と、少し緊張気味に挨拶した。
この時間に買い物に出かけたことはない。いつもはもう少し、一時間ほど早い時間だ。22時にもなると人の数がぐっと減る。それは、窓から外を見ているだけでも感じていた。
キリはそっと玄関の扉を開けた。念のため陽が差し込まないことを確認すると、最低限に開けた扉の隙間から外に出て、そしてそっと扉を閉める。
鍵を閉め、大きく深呼吸。
「うん」
そううなずいて軽く駆け足でコンビニに向かった。人があまりいない。誰もいない方がもしかしたら怖くないかも知れない、時々すれ違う人が居るとかえってドキッとする。
その怖さがだんだんキリの足を速くした。街灯の少ない道は一段と加速した。それでも角を曲がるときは、十分注意して薄ピンクのシャツをなびかせながら曲がった。おかげで曲がったところに人が居ても問題なく回避できた。そんな時は『ヒロちゃん、ありがとう』とお礼を心で呟いた。
そんな走りをしていたらあっという間にコンビニが見えてきた。コンビニの明かりでキリはちょっとホッとする。自然に足がゆっくりになっていった。
ガラス張りの店内は明かりが煌々と照らされ、外から中を伺うことが容易だ。マツジと見かけたことのある男、二人で入荷されたばかりであろう、品物を並べているのがわかった。
キリはコンビニの入り口の前で汗のチェックをする。思いっきり走ってきたつもりだったが、意外に汗はかいていなかった。
「よかった」
そうつぶやいて、コンビニの右側の扉をそっと押しながら入った。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ」
条件反射に挨拶が飛ぶ。客の顔なんて見やしない。いや、一人はすぐにキリに気がつく。マツジはその場に立ち上がった。
「あ、大坪キリさん」
マツジは店の奥のほうから大きな声で言う。キリは恥ずかしかったが、周りを見ると、お客はキリだけだった。だからきっとマツジも大きな声を出した、キリはそう思った。
「こんばんは」
キリは負けずにいつもより大きな声で挨拶した。ちょっぴり恥ずかしくもあった。
「今日は二回も、時間も珍しいじゃん」
極力、さっき一緒に居たホショウニンを名乗る男のことを顔に出さない様に、いつも通りの感じで声をかけた。もちろん、内心、あの男のことが気になってしょうがない。
「うん、さっき、やっとお金が入ったから、買い足しに来たの」
キリも当たり前にいつも通りに対応していた。そして、生鮮食売場に向かう。もう一人の店員がそこの陳列を行っていたが、すこし場所を空ける。
「とりにくいですが、このトレイのもどうぞ」
そう言って、陳列前の品物の入っているトレイを指差す。
「あ、ありがとうございます」
キリは軽く会釈すると、その店員は、その場をそっと離れた。
キリは近くのカゴを取り、牛乳を二本、卵6個パックを二つ、キャベツ半球、たまねぎ3個、そしてトレイの中から、豚バラ200gと牛バラ肉を200gを取り出しカゴへ入れた。以前なら持てなかっただろう重さ。今はなぜか片手で持ててしまう。むしろカゴの取っ手が悲鳴を上げ、変形していた。
その時、スッとカゴの下に手が伸びてきた。
「貸しな」
マツジだ。カゴの下に手を置きそのまま取っ手もキリから奪おうとする。
「なっ」
その重さにマツジはビックリした。キリは片手で持っていた。マツジもカゴをキリの手から奪い、片手で持ってみせる。
「か、会計でいいのか?」
もう一人の店員は同じくバイト、客はキリしか居ない。もう敬語なんて使う気はなさそうだ。ただ、カゴを持っている右手は、プルプル震えているのがよくわかる。
「あ、はい」
キリはちょっと心配そうにマツジの後を追う。マツジはキリに見えないように、こっそり左手でカゴを下から支えてレジカウンターに置いた。マツジの右手はガクガクしていたが、大きく振り回すことでごまかしていた。
カウンター内に移動し、レジを打ち始める。そのマツジの顔は先ほどの怖い顔と異なり、すこし鼻を膨らませ、なにか気合が入っているように見えた。
キリは、『怖い顔よりはいいかな』と思って見ていた。
「えー、しめて1500ぐらいかな」
マツジはそうしたり顔をする。レジ台の表示には『1450』と表示されている。それを見てキリは、口元をお手で隠したが笑いは隠せなかった。
「ぷっ、ふふふふふふふ」
「よっし、笑ってくれた」
マツジは小さくガッツポーズ。
「なんか、面白かった」
キリは微笑みながらそっと二千円を渡す。マツジは500円玉と50円玉、そしてレシートを右手に持ち、左手で差し出されたキリの手の甲にそっと宛がう。そして手のひらにそっと右手に持っていたものを置く。さっきとは違い、いつも通りの渡し方にちょっとキリはホッとしていた。
品物は二つのレジ袋に分けて入れるしかなかった。
「これ、持てるか?」
「うん、なんか最近、力が付いてきたみたい」
カウンター上のレジ袋を持ち上げようとした時だった。マツジがそのレジ袋をそれぞれの手で押さえ込んだ。
「大坪キリ。ドライブ、行かねぇ?」




