4.『オレがいるだろ』
「だって、嬉しかったんだもん」
「あ?」
ヒロは即答するキリにビックリした様子だ。思わず怒鳴ってしまったが、すぐに強く返事がくるとは思っていなかったのだ。
キリは両肩を振り、ヒロの両手を払い、その手首をつかみ返した。そして、キリは少し無言でうつむいた。つかんでいるキリの手からは、力強さと小さい震えを感じた。
「……キリ?」
ヒロは、そのつかまれた両手首をそのままに、うつむいているキリの顔を覗き込こむ。キリの唇が見えた。
「鏡に映ったんだもん」
キリは小さくつぶやいた。ヒロはつかまれている腕を少し上に持ち上げた。あわせて少しキリの顔が上がる。
ヒロがキリの瞳を見た時だった。キリの握っている手と声に力が入る。
「うれしかったんだもん! 鏡に映って嬉しかったんだもん! 全部治ったかもって思ったんだもん!」
ヒロは両手首に痛みを感じながらも、キリの瞳に見えた涙に驚いていた。そして言葉を続けるほどに力が無くなっていくキリの手と声。
「そんなことでも、うれしかったんだもん。鏡に映るなんてみんなにとって当たり前のことかも知れないけど、あたしにとっては……あたしにとって……」
一瞬キリの声が聞こえなくなった。そして、かすかな声が聞こえた。
「……元気なヒロさんには、わかんないよ……」
振りほどこうと思えば簡単な腕はそのままに、ヒロは言葉を探した。確かに、鏡に映らなかったことなんてない。他人とは違う体質、……ハンデ……、ヒロにその気持ちは正直想像できなかった。
「……どうせあたしなんか……」
「『どうせ』、なんて言い方はしないでくれ!」
キリの言葉に、ヒロはなにか抑えることの出来ない感情が一瞬に沸いた。ヒロはキリの手を振り払い、逆にキリの両肩を強く掴んだ。
今度はキリがビックリする。ヒロは少しうつむき、静かな口調で続けた。
「『どうせ』なんて言わないでくれ。確かになにが原因でそうなっているかわからない。それが大きなハンデになっているのはわかる。でも、スマン、そのつらさは俺には想像できない」
「……ヒロさん」
「でも、でもさ、人は一人一人違って当たり前なんだよ。お前は生きているんだよ。今までも生きてきただろ。これからも生きるんだろ。キリらしく、生きられるんだから……」
キリは呆気に取られたような顔で聞いている。ヒロはこれから言おうとしていることに対する照れなのか、力の入りすぎのせいなのか、真っ赤な顔をしている。
ヒロはちょっと肩で息をしている。時折大きくつばを飲み込む。その動きがキリの両肩に乗せられたヒロの手から伝わる。しばらく、その状態が続いた。
そしてヒロが顔を上げ、更に言葉を続けようとした。
「そ、それに、オ、オレが……」
『オレがいるだろ』。ヒロはそう言いたかった、が、それはキリに邪魔された。
「ぷっ、ぷぷっ」
「な、なんだよ」
その時、ヒロはキリの肩をつかんでいる両手をビックリしたように離す。力が入って、パジャマがずれていて、右肩の肌が見えていたからだ。
キリは目に残っていた涙をぬぐいながら、そっと肩を直し、少しうれしそうに返事した。
「ふふふ。ゴメンなさい。ヒロさんが、そこまで真面目な顔したの、初めて見たんだもん」
「そっか? 確かに、ら、らしくない、かな。はは」
そう言ってヒロは自分の後頭部を右手で撫でる。その右肘はキリの肩に当たりそうだった。
「ん~ん、なんか思いっきり吐き出したら少しすっきりしたかも」
キリは笑顔でそう言いながら、両手を自分の頭の後ろで組み胸を張り、伸びをした。その胸はヒロの右肘にわずかにふれた。
ヒロはスッと後ろに一歩下がった。
「ス、スマン。俺もちょっとなんて言ったらいいか、わかんなくてさ。あ、怒鳴ったのもスマン、ほんと。でも、マジであぶないこと、……すんなよ。とにかくゆっくりゆっくり……えっと……」
ヒロは照れ笑いしながら、発する言葉を選んでいるようだ。薄暗い部屋の天井に何か答えでも書いてあるかのように見上げている。
「なに? ヒロさん」
「えっと、あ、いや、なんでもない」
思いついた言葉は、またキリをいやな気持ちにさせないか、ヒロには判断出来ずにいた。
「言ってよ」
「あ、ああ。えっと、さ。……ほら、鏡に映ったってことは、やっぱりちょっとずつ治ってきているんじゃないかなって思ってさ……あ、やっぱスマン、なに言っているんだオレは。変な期待させるもんじゃないよな」
キリは目を閉じ、思いきり頭を大きく左右に振る。
「ううん」
大きく振ったために髪の毛はくしゃくしゃになっている。
「ありがと」
ヒロはキリのその微笑を見てホッとした。
「ん。あ、で、陽に当たったところ、大丈夫か?」
ちょっと間が開いた後、思い出したようにキリに聞いた。
「うん。ほら」
そういってパジャマの左袖をまくる。
「海に行って陽焼けしたみたいになっちゃったな。ははは」
「そう? ふふふ」
薄暗くてはっきり分からないが、確かにキリは海で焼けたような、そんな感じの赤い肌をしていた。明日には服が擦れるだけでも痛いかも知れない。
「あれ? ヒロさんも手首、赤い……」
そう言われてヒロの手首を見ると、キリに掴まれていたところが赤い。
「あ……ああ、これ。キリ、お前だよ」
「え?」
「すごい力だった。ビックリした」
「ええ? あ、ゴ、ゴメンなさい」
キリは、申し訳ないのと恥ずかしさで真っ赤になった。
「いや、ははは」
「ぷっ、ふふふ」
二人はお互いの赤い肌を見て、笑った。
ぐー
その笑いを止めたのは、ヒロのお腹の音だった。
「あ、スマン」
「……あの、なにもないけど食べてく?」
キリはちょっと間を開けてからそう言った。
昨日までのキリなら、絶対言わない台詞。今まで鏡に映らなかった。それが今日、映った。明日はわからない。でも、少なくとも今日は特別な日。そうキリには感じた。今日は特別……。
「い、いいのか? ぃやった~!」
ヒロはガッツポーズで答えた。その仕草がちょっとわざとらしかったのか、キリはちょっと苦笑いをした。