1.「なんであたしが鏡に映るの?」
いつも通りの睡眠。いつも通りの目覚め、いつも通りの朝の支度。淡い青のパジャマのままで二階から降りてくる女の子が一人。淡い茶色いストレートの髪の毛は短く一見男の子にも見えるが、その目はクリッとしており、一目見たら女の子と分かる。
彼女はいつも通り洗面所に行き顔を洗う。このメゾネットタイプのアパートの洗面所は小さいながらも、髪の洗えるぐらいの大きさの洗面台がついており、シャワーも付いている。でも、彼女はここでは髪を洗ったことはない。いつも晩に入るお風呂の時に体と一緒にボディーソープで洗う。特にトリートメントは使わない。髪の毛には比較的無頓着のようだ。もちろん最低限の手入れ、くし入れはしている。それで十分だった。
一人暮らしの彼女。歳は十八。しかし、外では働いていない。なぜか。もちろん理由がある。
洗面所で、前髪をゴムで額の上にまとめあげ、顔を洗って、手探りで無造作に洗面台の横の棚に置かれたタオルを取り、顔を拭く。昨日の夜に使ったせいで、ちょっと濡れてた。
「あ、あれ?」
タオルを顔から離した瞬間、驚いた。
「誰か居る……あれ? これ、あたし? なんで? なんであたしが鏡に映るの?」
彼女の名は『大坪キリ』。漢字で書くと『大坪鬼里』。母からは欧州出身の父がつけたとだけ聞いていたが、この『鬼』の字が嫌で、『大坪キリ』とカタカナで名乗っている。
「へぇ」
キリは鏡で見た自分の顔を見ながらしきりに関心していた。目をぱちくりしたり、ほっぺをひっぱったり、あかんべーをしたり、自分の顔で遊んでみる。
実はキリにとって初めての、絵ではない自分の顔なのである。
「でも、なんで鏡に映るようになったのかな……」
楽しそうに自分の顔で遊ぶ。むにむに。決して太っているわけではないが、頬の肉はやわらかい。
その手が止まる。
「も、もしかしてっ!」
鏡に映った自分にそう言ってパジャマのまま慌てて急な階段を登り、二階の朝日の当たる部屋に向かう。ここは東南向きのアパートだが、立地の関係で一階は朝日は入らない。
階段で大き目のパジャマのすそを踏んでよろめいて、土踏まずを階段の角にぶつけたりもしたが、痛みは期待でかき消されていた。
二階の部屋の東側の窓の閉じられたカーテンを両手で持つ。厚手のカーテンなのでその部屋は暗い。
そのまましばらく硬直。朝日とは言えもう直ぐ夏本番という強い光が当たっているのがカーテン越しにも分かる。暖かい空気、そして太陽の匂いが伝わってくる……。
キリはドキドキしながらカーテンをバッと開いた。
「きゃ~~~~~~~~」
非常に大きな声だった。キリはその陽の光から身を転げさせながら避けた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
左手は己の左頬を強く押さえ、右手は左肩のパジャマを破れんばかりに掴んでいる。そして肩で息をする。その身の直ぐ横には太陽のはち切れんばかりの日差しが畳の床を照らしている。
「はぁ、はぁ。っう。……やっぱり、だめ」
痛みのせいか、それとも……グッと見開かれた目には涙が浮かんでいる。
ちょっと落ち着きを取り戻したキリはゆっくり日影からカーテンを閉めた。
「鏡に映るようになっただけで、治ったわけじゃないのか」
キリは陽の光に当たりちょっと赤くなった自分の腕を見つめながらそうつぶやいた。顔もちょっと赤い。
そのまま膝から落ち座り込んだ。
厚手のカーテンに光を遮られ、どんよりと暗いこの部屋。目の前のカーテンの向こうは、相変わらず暖かい夏の太陽の光が満ちあふれている。
キリは、淡い期待をしたばっかりに、嫌な思いをしちゃったな、と、しばらく苛めていた。




