17.「ちょっと聞きたいこともあって……」
「……朝?!」
キリはリビングで『く』の時になって倒れていた。体を起こそうとすると手にはぬるっとしたものが付着しており、滑りそうになった。
酸のようなツンとしたいような匂いがする。大きなパーカーを中心に赤黒い液体がまかれている。それは、血と胃液と嘔吐物が混ざったモノ……。
「夢じゃなかったんだ……」
キリは、その場にしゃがみこみ、しばらく無表情で泣いていた。思いっきり叫んで泣いたおかげか、得も言われぬ恐怖心自体は薄れていた。いや、怖がる気力が失われた状態といった方がいいのかもしれない。胃が痛い。関節が痛い。
ふと見ると、左手の傷はほとんどわからなくなっていた。
「歯形は……、歯形だけは、夢……なの?!」
キリは左腕を擦る。赤黒い液体が左腕にも付く。見ると体中、赤黒い液体まみれだった。
「んふふふ」
変な声が漏れる。顔は笑っているように見える。頬についた液体は涙でどんどん流れていった。
「どうしよう……。お母さん……、ヒロさん……、カンミさん……」
ひきつった笑いのまま、小さい声で呟いた。
プルルルルル
その時、携帯が鳴る。キリはビクッとした。
プルルルルル
「あ、電話……はい」
キリは少しよろけながら立ち上がり、少し滑りながら携帯に近づき、汚れた手のひらを太股で拭い、TVの上の携帯を手に取った。
プルルルルル
「ヒ、ヒロさん!!」
携帯の着信名で、誰からの電話かわかる。キリの表情がほぐれ、すこし笑顔に近づいた。
「……あ、でも、こんなカッコじゃ……」
プルルルルル
「あ、見えないのか……」
キリはちょっと照れ笑い。少し開いていたカーテンを丁寧に閉じ、携帯の通話ボタンを押し、耳に当てた。
「もしもし」
【あ。おはよう、キリ。スマンな、朝からこんな声聞かせて、ははは】
ヒロの声はいつも通り、いや、いつもより明るく感じた。
【今日は、ちゃんと寝れたか?】
その優しい口調にキリは思わず大粒の涙があふれた。そして、今にも声を出して泣き出しそうにもなったが、『こんなこと話しても、心配かけるだけ……』と、口を手で押さえ堪えた。
【キリ?】
返事がないことを気にしてヒロが心配そうに問う。『ヒロさんに心配かけちゃだめ。気持ち悪がられたくないし……』と自分に言い聞かせ、気丈に答えた。
「う、うん、おはよう。もちろん、よく眠れたよ。昨日寝過ぎだったから、今日は早く起きちゃったけど」
【……そうか、よかった……】
携帯のスピーカーから聞こえてくる安堵した声。キリもその声で少し不安が和らいだような気もした。ただ、リビングに残るこの状況を見てしまうとやっぱり不安になる。
「そうだ、ヒロさん。知っていたら教えてほしいんだけど……」
【ん、なんだい?】
「お母さんの連絡先、わからない?」
【え? な、なんで?】
「うん、最近連絡くれないし、ちょっと聞きたいこともあって……」
【そっか……。……スマン、オレもわからない】
ちょっと歯切れが悪い感じだ。
【……あー、連絡ある時は非通知だしな】
「……そう、ありがとう」
【いや、すまない……】
「何で謝るの? 変なヒロさん」
【あ、そうだな、ははは。おっと、そろそろ出なきゃ、一限目に遅刻だ】
「うん、行ってらっしゃい」
【おう、行ってきます。……あ、朝、……寄っていこうか?】
「え? もう、そんなことやっていると、一限目に遅刻するよっ」
キリは目を細め、リビングの床を見ながら、ちょっと子供をしかるような言い方をしてみた。
【あ、はーい。じゃ、またな】
「うん」
プ
ツーツーツー
気がつくと、キリは、顔はほほえんでいるのに、目からまだ涙が出続けていた。
「おっかしいなぁ」
一生懸命笑ってみる。でも、リビングの床を見ると昨日が少し蘇る。
「あれ? ヒロさん、用件なかった……心配で電話くれたのかな?!」
ちょっとうれしくもなる。でも、リビングの床を見ると胸と胃が痛くなる。
「とにかく……早く、片づけなきゃ」
TVを付け、極力明るい話題のチャネルを探す。ちょっとボリュームは大きめ。おそらく血の部分だろう。固まっている部分があり、床にこびりついていた。でも、強めに擦るときれいになった。
雑巾があっという間に黒くなる。なんども風呂場とリビングを往復する。一部赤黒くなった下着姿のまま、何度も往復する。思ってもいないところに赤黒い液体が跳ねてついていたりすると、ショックを受け涙がこぼれることもあった。
幸い、ワンピースには飛び跳ねていなかった……。
フローリングの床にはカーペットなど敷いていなかったので、意外に掃除は短時間で終わった。
そして、そのままTVをつけたままシャワーを浴びることにした。
大きめのパーカー、下着、共に赤黒くなってしまっている。
「あーあ、洗って落ちるかな……」
そうあきれ顔。汚れたものを洗濯機に放り込み、洗剤を入れ、「お願いします」と洗濯機に一言かけて、スイッチオン。
シャワーを浴びる。湯船に使ったことはない。使い方もよくわからない。
「ふう」
まず顔からお湯を浴びる。手を洗い、顔を洗い、そのまま紙をワシャワシャと軽く洗う。
配水口を見ると、薄い赤黒い水が吸い込まれていく。
「……きっと、すごい怖い夢を見ちゃって、それで無意識に噛んじゃった……のかな。うん、そう、きっとそう」
そう顔からお湯を浴び続け、そう考えるようにする。それでも不安から少し涙が出たが、シャワーで流した。




