息をする度酸欠
*プロローグ*
何時からだろうか、私の生活が一変したのは。
ただ暑い夏の日をすごしぼんやりと生きていただけのような気がするのだが、確実にそのひと夏で私の生活は一変していたと断言できる自身がある。
そしてそのひと夏のせいで私の居場所は部活から、クラスから無くなった。
それは呆然とするしかなく、ただ日が経つのを待つしかなく。非力な私には何一つとして打つ手が無く、無力で滑稽な標的に手を差し伸べようとするものなど誰一人としていなかった。
否、偽りの差し伸べならば幾度かはあった。
だが其れにすがろうとすれば直ぐに手のひらは返されまた地面に突き落とされる。繰り返されるたび私は自嘲を浮かべ、夏場でも冷たい日陰の石階段に座り一人涙をこらえるしかなかった。
涙を頬に伝わせたところでこの現状が改善されるわけではない。誰かに訴えをした所で耳を傾けてくれるものはいない。上の人間になど言える訳が無かった。私はあくまでも非力で学年の中では一切の効力を持たないただの地味な人間だったのだから。
現実を知るたび地面を這う惨めな羽虫のような気分を味わっていた。
こんなにも人間が派手か地味かで立場というものは変わるのだと、身をもって知った。
何故、生きているのだろう。
煩く響くせみの鳴き声に紛れ、己の唇から言葉がこぼれた。
*
「ゆか……りゆ……」
友人――正しく言うならかつての友人ごっこをしていた人物――の名をポツリと呟いた。
部室のドアから出てくる一人なのだが、全員が此方をあざ笑いそして何もいないかのように視線を直ぐに逸らす。
その割には歩いていく際に聞こえる会話は私に関する罵りでしかなかった。
一番最後にゆっくりと出てきた少女、しの。彼女がリーダー格であり、私をこの状況に陥れた張本人。
彼女はこの夏までの間に私以外で二、三人ほどを苛めてきた。残念ながらその場面を目撃したことは無いが、少なからずグループからはずれ泣いている人を私は助けてきたつもりだった。
なのに、だ。
助けたやつは私の方をちらりと申し訳程度に見て、悲しげに目を伏せるだけ。
そんな視線を送るぐらいならあいつらと同様に完全なる無視を決めてくれればいいのにと何度思ったことか。元いじめられっこより痛く鋭い視線が今目の前にいるしのの物であるのは間違いなく、嘗め回すようなそれに逃げ出したくなる。
だが、どこに逃げるというのか。
逃げたら逃げたで嘲笑われ、後ろ指を差され。
ならばいっそ此方も無視を徹するのがいいのかもしれない。
「ねぇ××」
笑を含み独特の甘ったるさを放つその威圧的な声、上から覗き込まれている感覚に耐えれず見上げれば卑しく吊り上げられた唇が目に入った。
「目障りなんだけど、そこ邪魔。どいてくれない?」
勢い良く横から肩口を押され、体力的にも精神的にも弱っていた私は即座に反応などできなかった。
言いすぎだと思われるかもしれないが、自分のみに何が起こっているのかまったく感知できなかった。強いて言うならば彼女が私に何かをした、それぐらいだった。
視界が傾いて横向きになったしのの顔が更に歪む。
「あ、みんなまってー」
満足げな笑みを浮かべればまるで何も無かったかのように。
私の上を堂々と踏みつけて歩いていく、ちょうと骨の間にかかとが食い込んで痛みが前身を走りぬけたのは言うまでもない。
痛む体でぼんやりと其のまま寝転がっていたが、流石に通行の邪魔だと頭が正確に認識できたところで、汚れたたいそう服を振り払う。
わき腹を押さえて――自分でも笑える話だがよたよたと――立ち上がって、そろそろ昼休憩が終わるころだななんて思えば、自分の練習場所へと向かう。
学校の外から聞こえる子供の笑い声さえも、すべて私に向かっているようで。すれ違った先輩が何か口を言っていれば自分に対することかとおびえ。
震える肩を抱えながら必死で数メートル先の練習場所へと急いだ。歩いて三十秒とかからない場所であるはずなのに、重たい足取りでは時が止まったかのように感じ取れた。
滴る汗をぬぐいたどり着いたときに顔を上げれば、パートの先輩――言い忘れていたが吹奏楽部である――がやわらかな笑顔で迎えてくれる。
「××ちゃん、練習しようか」
一人の先輩は厳しいが優しく、もう一人の先輩は常に笑顔を絶やさない人だった。
其れだけが唯一の救いだが二人とも裏の性格が激しいといううわさも耐えない。故にこの空間にいることすらだんだんと息苦しくなり、唇をかみ締める。
「はい……」
歯切れ悪く返事をすれば短く息を吐き捨てて楽器を手にする。
同じ練習場所に集まってくる同学年の視線がまたつらく、どうしていいかわからなかったがただひたすらに楽器を弾いた。
先輩がいなくなれば同学年だけの空間となる。
これほどまでにいづらいことは無い。だからこそ先輩が合奏やミーティングといったことでいなくなればトイレに篭って時間を経つのを待った。
蒸し暑く独特の異臭を放つせまっ苦しい空間ではあるが、本当に唯一の居場所だったのかもしれない。
涙なのか汗なのか、入り混じった雫が床を汚し蜘蛛の巣の張った天井をひたすらに眺める。
囚われる蛾や羽虫を見れば手を伸ばして救いたくなるも、そんなことはしない。浅はかな行動をとれば蜘蛛のえさが無くなり蜘蛛が死んでしまうのだから。
餌となったものは私と良く似ていると思う。
手を伸ばそうとしても、ほかのところから自分への不利益が回ってくるから。
ご都合主義自分大好きな人間は、だからこそ助けてくれようとはしないのだ。
希望の糸口すら見えない数週間に、息苦しさは増していく。
*
大きな本番を控えた一週間前、いじめが開始されて約一ヶ月が経ったときだった。
絶えられなくなり自暴自棄に成っていた私は、私を裏切った二人と私をいじめるしのにメールを送る。
実に簡単な文章。
『何でこんなことをするの』
こんなこと、を説明する必要など無かった。何が?なんて帰ってくるかと予想指定が、底まで彼女たちも低脳ではないようだ。
しばらくして帰ってきたメールに息を呑む。
受信表示が出ればそれこそ心臓を握りつぶされそうなほどで、自分が知りたいと思っていながら指先は震えてしまう。
知りたい、知りたくない、知りたい、知りたくない、知りたい、しりたい。
数回深呼吸を繰り返し表示ボタンを押す。
最初に帰ってきていたのはゆかからであった、一番仲がよくて、部活でもクラスでも一番最初に仲良くなった人。
どんな理不尽な言葉が並べられているのだろうか。硬く閉じた目を開いて、本文を見やる。
『あのね、さっきりゆと相談していうことにした。
うちらが××から離れた理由分かる?
たぶん分からないよね。
うちとりゆは限界だったんよ。
正直××ってわがままだし、うちらの言うこと聞いてくれんし。
暴力的だし。
耐えれんかった。
親に相談したらね、もう無視すればいい、縁を切ればいいって』
連ねられた言葉に目を見張る。
この人はいったい何を言っているというのか。
それは、まったくの事実だった。
変えることのできない、私が過去に犯してしまった事実だった。
突きつけられた現実に目を背けたくなる。
原因は自分にあった。
それは、曲げられない真実。
でも、だからといって、どうしていじめられないといけないのか、無視や暴力を受け続けないといけないのか。
それだけは理解できなかった。
しのから帰ってきた返答に目を通す気も起きず、ぼんやりとその夜をすごした。
翌日、気まずそうな顔をするゆかとりゆに私は小さく笑って一言言った。
「ごめんね」
翌朝から気づけば私の手には傷が増えていた、何を思っていたのか、何を今でも思っているのか。
数年たった今でさえ自分の行動が一切理解できない。
今でこそいじめからは抜け出せれたが、やはり私が過去に犯してしまった罪はぬぐえないのだろう。
孤独な毎日を過ごし、偽りの友達と偽りの笑みを浮かべる。
ただそれが、本当だと信じてやまない自分のおろかさにただただ苦笑を浮かべるのみである。