吾輩についてこれるか?
吾を讃えよ、人間どもは、吾を見てこう言う。
大きい。重い。おとなしい。まったく、三つしか言えぬのか。
吾らには鼻がある。
人間どもの小さな鼻とは違う。吾らの鼻は長く、手のように使える。
水を吸える。芋をつかめる。枝を折れる。匂いを嗅げる。仲間に触れられる。地面に絵も描ける。
鼻であり、手であり、管であり、道具であり、遊び道具でもある。
人間どもは吾らが基本しかないのに、よく我慢して生きているものだ。
吾らは食べる。とにかく食べる。
身体が大きいのだから、食べねば動けぬ。動けねば、また食べられぬ。
実に合理的な暮らしである。
だが、吾輩はただ食べているわけではない。
食べることは、試すことでもある。
この草は食べられる。この草も食べられる。では、こちらはどうか。
鼻で拾い、匂いを嗅ぎ、触れてみる。そして食べる。
吾輩は好奇心旺盛なのだ。
もちろん、吾輩の発想がすべて成功するわけではない。
以前、仲間が木の実を取ろうとしていた。鼻を伸ばし、懸命につかもうとしている。しかし、木の実は枝の上で揺れていた。
つかもうとすれば動く。動けば、また逃げる。
そこで吾輩は考えた。
木の実が動くから取れぬのだ。ならば、木の実を動かぬようにすればよい。
吾輩は鼻の先で、木の実をそっと押さえた。
仲間が、もう一度鼻を伸ばす。
今度はうまく取れた。
仲間は嬉しそうに木の実を食べた。どうやら、喜んでいるらしい。
なるほど。
吾輩の知恵が、ついに群れの役に立ったのだ。
まあ、木の実を押さえただけではあるが。
偉大な発明も、最初は小さな成功から始まるものである。
さて、吾輩は泥遊びも好きだ。
泥はよい。冷たい。身体にまとわりつく。
鼻でかき混ぜれば、すぐに動く。そして、吾らは草も好きだ。
泥と草を同時に味わえば、移動せずに済むのではないか。
我ながら、素晴らしい思いつきである。
吾輩は鼻で泥をすくい、その中へ草を混ぜた。
混ぜて、混ぜて、よく混ぜてから口へ運ぶ。
泥の味しかしない。
おかしい。
草は確かに入っている。
もう一度試した。
やはり泥の味しかしない。
泥に草の味がすれば、草を求めて移動せずに済む。どれほど便利なことか。
吾輩は歩く。
とにかく歩く。
水を求めて歩く。食べ物を求めて歩く。群れで歩く。
歩くには水が必要だ。それはわかっている。
だが、必要であることと、楽しいことは別である。
吾輩は考えた。
歩くのは、退屈ではないか。
そこで、歩かずに移動する方法を考えた。
誰かに引きずってもらえばよいのではないか。
ちょうど隣に仲間がいた。
吾輩はそっと近づき、その背中によしかかった。
これでよい。
あとは相手が歩けば、吾輩は歩かずに済む。
完璧な計画である。
ところが、隣の象は物凄い勢いで怒った。
耳を広げ、鼻を振り回し、こちらへ大声を浴びせてくる。
どうやら、協力を頼んだつもりが、敵対行動と受け取られたらしい。
解せぬ。
アイデア自体は悪くないはずだ。
問題は、頼み方か。
それとも、乗る相手を選ばなかったことか。
……まだ工夫が必要だ。
吾輩は頭がよい。
いや、正確に言えば、発想力が素晴らしい。
ただし、その発想の元が、少々怠惰なだけである。
歩きたくない。
食事のために移動したくない。
泥と草を一度に味わいたい。
どれも出発点を見れば、実に怠惰な考えである。
だが、偉大な発明というものは、案外そういうところから始まるのではないか。
面倒を減らしたい。
楽をしたい。
もっと効率よくしたい。
それを考え続け、試し続けた先に、群れ全体を変える仕組みが生まれるのだ。
吾らには耳もある。
耳を音を聞くだけでなく、暑い時には広げて熱を逃がす。
実に便利である。
吾輩は考えた。
この耳を羽ばたかせれば、飛べるのではないか。
試してみた。
飛べたのは、耳の裏についた鳥だけだった。
発想は悪くない。
まだ改良の余地がある。
そして、吾らの暮らしは食事と移動と睡眠の繰り返しである。
食べる。歩く。休む。また食べる。
どれも必要だ。
だが、優雅さが足りぬ。
そこで吾輩は、群れ全体を使った計画を思いついた。
吾らは大きい。
しかし、一頭だけでは限界がある。
群れの配置を工夫すれば、吾ら全員で、さらに巨大な生き物になれるのではないか。
吾輩は地面に線を引いた。
ここが頭。
ここが胴体。
ここが足。
ここが尻尾。
一頭ずつ配置につけば、吾らは大木を超える巨大な生き物になる。
吾輩は鼻で地面を叩き、群れに説明した。
ここに一頭。
その隣に一頭。
どうだ。
すばらしいだろう。
群れは黙っていた。
もしや、感動して声も出ぬのか。
そう思っていると、一頭が群れから離れていった。
また一頭が離れた。
さらに一頭が、こちらを見ないようにして離れていった。
なぜだ。
吾輩はまだ説明の途中である。
これは群れ全体の未来に関わる、実に重要な計画なのだ。
しかし、誰も戻ってこない。
もしかすると、まだ時期尚早だったのかもしれぬ。
吾らはまだ、この偉大な構想を理解する段階に達していないのだ。
あるいは、地面に描いた頭が少々小さかったのかもしれぬ。
耳を大きく描きすぎたか。
鼻を長くしすぎたか。
改善の余地はある。
だが、だからといって吾輩は思考をやめぬ。
今この瞬間に考えることをやめれば、それは吾輩にとっても、群れにとっても、未来の群れにとっても、大きな損失となる。
吾輩と群れの次なる指導者が誰になるかは、まだ決まっていない。
だが、吾輩以上にふさわしい者はいないだろう。
立候補者がいないのではない。
吾輩以外を候補に入れる必要がないだけだ。
何しろ、これほど先を見通し、群れの未来を考え、日々新たな発想を生み出しているのだから。
木の実を押さえてやった実績もある。
……まあ、今のところは、隣の一頭に乗ろうとして怒られ、泥に草を混ぜて失敗し、耳を動かしても飛べなかっただけである。
それでも失敗ではない。
次の発想のための、貴重な資料である。
吾らは大きい。
重い。
そして、おとなしい。
だが、それは人間どもが勝手に決めた印象である。
吾らは食べる。
歩く。
遊ぶ。
鼻で木の実を押さえ、泥と草を混ぜ、仲間に運ばせようとし、耳で飛ぼうとする。
群れ全体で巨大な生き物になろうともする。
吾らは象である。
大きく、重く、賢く、怠惰で、まだ誰にも正しく評価されていない。
そして、誰も思いついていない何かを考える。
時代が吾輩に追いつく日は来るのか?
まあ、そう簡単に追いつかせぬがな。




