世界五分後仮説
放課後の部室に、私以外の姿はなかった。
パイプ椅子を引きずり、壁際の定位置に腰を下ろす。ここは科学部を名乗っているものの、フラスコやハンダゴテどころか、まともなパソコン一台すら置かれていない。私の主な活動といえば、近所の図書館で借りてきたSF小説や、顔も知らない先輩が残していった科学雑誌を黙々と読みふけることくらい。
今、目の前に開いているのもそんな遺物の一つ。私が生まれるよりもずっと前に出版された文庫本。ページは全体的に黄ばんでいて、色褪せた表紙には毒々しいフォントで『2000年問題』と印字されている。
年号を下二桁で管理している旧式のコンピュータが、西暦2000年になると同時に、西暦を1900年と誤認する。その結果、金融、医療、交通など、あらゆる社会インフラでシステム障害が発生し、世界が大混乱に陥る。という問題を扱った書籍。
中でも、核ミサイルを管理するシステムの暴走シナリオは、終末論にしても少し滑稽だと思う。そのシステムは「1900年という過去において、核ミサイルは存在するはずがない」と判断した結果、自律的にミサイルを発射してしまうのだという。
それほど論理的に推論できるシステムが、たかだか四桁の数字の繰り上がりに対応できないものかしら。
それでも、当時はこれが社会問題として大真面目に議論されていたという。結局のところ、世間はこういう話題が好きなのだ。最近ニュースでよく聞く「AIの発達による人類の危機」というのも、もっともらしく聞こえる専門用語を並べて未知への不安を煽っているあたり、構造的に似てるかなって思う。
私は、この時代を隔てた二つの話題を比較して、次の文化祭の展示にしようかと目論んでいる。
ーー
部室のドアがカラカラと軽い音を立てて開く。
入ってきたのは、一つ上の先輩で、科学部の部長。客観的に見ても十分に整った顔立ちをしていて、いわゆる「可愛い」部類に入るはずなのに、学内での人気はあまりない。むしろ、いつも周りから浮いている。
ちなみに現在、科学部に在籍している部員は、私と部長の二人しかいない。うちの高校の規則では、部活動として存続するためには最低三人の部員が必要なはずなのに、去年の三年生が卒業してからも、なぜか部活は存続している。
放課後、こうして毎日部室に居座って本を読んでいるだけの姿が、教師の目には「熱心な活動」として映っているのか。もしかしたら、毎年なんやかんやと展示をでっち上げて文化祭に参加しているから、情けをかけられているのかも。
真相はどうあれ、来年、私一人になってしまったら、さすがに廃部かな。
などと、どうでもいいことをぼんやり考えていると、部長は私の目の前に座り、唐突に切り出した。
「ねえ、世界五分前仮説って知ってる?」
ーー
もちろん知っている。有名な思考実験だもの。
「知ってますよ。確か、世界が五分前に出来たってやつですよね。」
私があっさりと答えると、部長はパイプ椅子から身を乗り出してきた。
「そう! 仮にそうだとしても絶対に反論できないっていうから、最初は『そんなバカな!』って思ったんだけどね。どんなに考えても確かに反論できないの!」
興奮気味に語る部長の瞳は、キラキラと輝いている。
「だって、私たちが持っている五分以上前の記憶も、社会で習った歴史も、発掘される化石も、全部ひっくるめて、そういう状態で五分前に作られたんだとすれば、世界は矛盾なく、辻褄が合っちゃうのよ!」
うん。科学ではなく哲学の話題になっているけど、部長にとってそれはどうでもいいこと。未確認生物でもオーパーツでも、知的好奇心が刺激されるものであれば、何でもかんでも取り上げるのが、私たち科学部の伝統だから。そういえば、去年の文化祭の展示は『キルリアン写真』だったな、と思い出す。
「この世界がシミュレーションだなんて、私、考えたこともなかった。」
どうやら、『シミュレーション仮説』とごっちゃになっているみたい。
この突っ走る感じが部長の可愛いところなんだけど、なんで誰も気づかないんだろう。
「しかもね、もしこの世界がシミュレーションだとしたらよ? 私たちをシミュレートしている外の世界だって、実はさらに外側の誰かのシミュレーションかもしれないじゃない!」
世界五分前仮説は「過去」を疑うもので、シミュレーション仮説は「実態」を疑うもの。二つは似て非なる仮説なんだけど、それを指摘するのは野暮ってものね。
「なるほど。マトリョーシカみたいで不気味ですね。」
先輩の熱弁を、もっと聞いていたい私は、あえて適当な相槌を打つ。
「そうなの! 無限ループって恐ろしいわ!」
先輩、安心してください。この世界には、数学的に計算不可能な『決定不能問題』というのがあるんです。計算できないことを、計算しかできないコンピュータでシミュレートしてるなんて変だと思いませんか。
と、言いかけたけど、先輩が本当に怖がっているわけではないので、そのまま同調する。
「ゲームや映画も、どんどんリアルになって、だんだん現実と区別できなくなってますもんね。」
「そうでしょ!今こうして座ってるパイプ椅子も、窓の外の景色も、全部ただの電気信号かもしれないなんて、昨日までと世界が変わって見えると思わない?」
今度は、『水槽の脳』も来てくれたみたい。
何かのまとめサイトでも見たのかな。なんて微笑ましく思っていたら、部長の話は予想もしない方向へと飛躍した。
「それでね、私、『世界五分後仮説』というのを考えてみたの。」
ーー
「世界五分後仮説、ですか?」
「そう。もしもこの世界が、誰かの作ったシミュレーションだとするよね。」
パイプ椅子の上で姿勢を正し、部長は語り始めた。
「だとしたら、ただ世界を回しているわけじゃなくて、何か明確な目的があるはずじゃない?」
確かに。宇宙をシミュレートするには、膨大な計算資源を消費するはずだし、何も目的が無いのは不自然かも。意外にまともな論理展開に、私は少し感心して肯定する。
「そうですね。何かしらのデータなり、結果なりのアウトプットを得るのがシミュレーションの目的というのは分かります。」
「まさにそれ、アウトプット! じゃあ、もしそのシミュレーションの目的が、今から五分後の状態を観測することだとしたら?」
なるほど。なんとなく話が見えてきた。
「必要なアウトプットが出力された瞬間、計算は終わっているわけだから、シミュレーションを続ける意味はなくなるわよね。つまり、今から五分後に、この世界はプツッと何の前置きもなく終わるかもしれないってことよ。」
単なる言葉遊びかと思ったら、思った以上にそれらしい話で少し驚いてしまう。
得意げに語る先輩を見ていると、せっかくなので少しツッコミを入れてみようと思う。
「面白い仮説ですけど、先輩。私たちがここで会話を始めてから、とっくに五分以上経ってますよ。」
論破、ではない。『世界五分前仮説』の復習みたいなもの。もちろん部長は怯む様子もなく、むしろ待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「だからよ! もしかしたら、あなたがそうやって突っ込んだ、今この瞬間から五分後こそが、シミュレーションの目的なのかも知れないじゃない!」
その通り、無敵の理屈。
目的のゴール地点をいくらでも先送りできるなら、もはや証明も反証も不可能になる。結局のところ、五分前でも五分後でも、これは科学では無いのよね。
満足げなしたり顔を素直に賞賛するのも癪なので、さっきの部長の発言をそのままなぞることにした。
「なるほど。無限ルー




