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笑うな。

 笑い声かな、と思った。

 大勢がどっと歓声を上げる、そんな感じの笑い声。テレビのバラエティ番組でよく耳にするような、ちょっと嘘くさい響きが、壁の向こうからかすかに聞こえてきた。

 隣の学生さんだな、と思った。

 このアパートに越してきてひと月ほど、隣人とは一度だけ挨拶を交わしたことがあった。おとなしそうな青年で、袖に絵の具の汚れがあったから、近くの芸大の学生さんかな、と思ったのを覚えている。

 深夜番組でも観ているのだろう。自分が越してきてからずっと静かなものだったが、ひと月経って気づかいの心が薄れたのかもしれない。さほど大きな音漏れでもないし、自分が学生だったころを思い返せば腹を立てる気もしなくなる。

 だから最初はちょっと苦笑するだけで済んだ。

 しかし、笑い声は一回では終わらなかった。それどころか日に日に大きくなっていく。

 わははははは。

 最初に苦情を入れなかったのが悪かったのか、もやがかかったようだった音はもう、はっきり笑い声としてこちらの部屋まで届くようになっていた。

 それだけでも日々の労働で疲れた身には苛立ちの種になったが、もっと悪かったのはタイミングだ。

 足の小指をぶつけたとき、皿を落としたとき、仕事で失敗してベッドに身を投げ出したとき。

 わははははは。

 狙い澄ましたように笑い声が上がった。

 こちらの部屋の物音に聞き耳を立ててスイッチを押しているのでもなければ説明がつかないくらいの、嫌な間だった。

 ボケた芸人を大勢で指さすのが眼に浮かぶような馬鹿笑いは甚く神経を逆撫でした。

 わははははは。

 俺だってしょうもない学生だったが、ここまで底意地の悪い悪戯はしなかった。廊下で出会したとき、ひょこりと頭を下げた隣人の顔が瞼の裏に甦る。つり眼の、ちょっと性格の悪そうな顔をしていた。挨拶した当時は控えめに映った微笑も、今思い返してみると皮肉げな含み笑いだった気がしてくる。

 わははははは。

 苛立ちを見透かしたように、笑い声が響く。びくりと肩が跳ねてしまう。

 わははははは。

 限界だった。

「ちょっと、テレビの音量を下げてもらえませんか」

 深夜と呼んでいい時間帯だったが、呼び鈴を押すと隣人はすぐに出てきた。俺が音を上げるのを待ち構えていたのかもしれないが、そんなことはおくびにも出さず、不思議そうに首を傾げた。

「うちにテレビはありませんが」

 白々しい。見え透いた嘘だ。

「そんなはずないでしょう。毎晩毎晩、お笑いでも観てるのかもしれませんけど、うるさいんですよ」

「本当にないんです。動画は見ますけど、お笑いあんまり好きじゃないですし……」

「話しにならない。ちょっと、なか見せてください」

「ええ?」

 隣人は驚いたようだったが、構わず押しのけて部屋に上がった。抵抗らしい抵抗はなかった。チェーンすらかけていなかったところを見るに、ここまでされるとは思っていなかったのだろう。

 大人を舐めやがって。

「ちょっと、あの……」

 引き留める声がするが、知ったことではない。話は証拠を押さえてから謝罪と併せてじっくり聞かせてもらう。流し台の前を大股に通り抜け、煌々と灯りのついた部屋まで真っ直ぐに踏み込んだ。

 ほら見ろ、これはなんだ。

「………」

 そう言いたかったのに、言葉は何も出てこなかった。

 散らかった狭い部屋には、テレビは愚か、モニタの類もなかった。布団の上に置かれたノートパソコンにはしっかりとヘッドホンが繋がれている。

 隣の部屋まで音を響かせられるような機材は、何ひとつなかった。

「ね、ないでしょう」

 愕然とする俺の横に、隣人が並んだ。遠慮がちに顔を覗き込んでくる。

「だいじょ……」


わはははははははははは。


「………」

「………」

 笑い声は、俺の部屋から聞こえた。


◯


「——以上が隣人Kさんの話だ」

「なるほど……?」

 深夜二時に突然訪ねてきた吊坂は、玄関先に突っ立ったままそんな話を聞かせてくれた。

 その背後ではKさんが青ざめた顔で立ちすくんでいる。さっきの話が本当ならば、無理もない。気の毒に。

「それでお前、何しにきたんだ」

 しかしながら、夜中に呼び鈴と鬼電で叩き起こされて一方的に怪談を聞かされた俺とて、気の毒だろう。声に苛立ちが混じってしまうのは許してほしい。

 身を縮めたKさんの前で、しかし吊坂は嬉しそうに笑った。

「お前の部屋でも聞こえるのかどうか、実験させてくれない?」

「せめて『避難させてくれ』ぐらいの建前を言えよ」


笑うな

了


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