どくだみ病 -月がとっても青いなあ-
≪徳田美羽:詰む≫
それは、突然始まった。人生のバックミュージックが、急にベートーベンの運命に設定されてしまったかのような、不可逆的で、でも逃げ場のない始まりだった。
水中で溺れそうで苦しいけれど、ぎりぎり溺れないだけの酸素を与え続けられ、生かされる。そんな状況がもしあるのだとしたら、それがどんな感覚なのか、今の私にはわかる気がする。
高校受験も無事終わり、私は晴れて第一志望の高校に進学した。そこは、電車を乗り継いで一時間ほどで行ける場所にあり、都心なのに自然がある校舎だった。青々とした森から、歴史ある国立高校の威厳が感じられた。
「徳田美羽です。趣味は音楽を聴くことです」
入学式後のホームルームで、緊張しつつも、ミスなく自己紹介ができた。その後は、これでもかというくらい沢山の配布物を受け取って、その日は解散となった。解散の合図の後に、前の席の子が話しかけてきた。
「私、奈々恵。よろしく」
おとなしそうな見た目の子だった。
「私は美羽。よろしくね」
そう返す。
「私、地元の中学は歩きで行っていたから、朝の満員電車とか、マジできつかったわ。おっさんも近すぎてマジ無理だった。明日からは、女性占領車両にしよーー」
奈々恵は、おとなしそうな見た目とは裏腹に、はっきりと思ったことを話す子だった。
「満員電車きついよね。私も今日、片足浮いてたわ」
私はそう言って笑顔を作ったものの、朝の満員電車が再び頭の中によみがえり、げんなりとした気持ちになった。
その日から、奈々恵はしょっちゅう話しかけてくるようになり、いつも自然と一緒にいるようになった。私は昔から、誰とでも仲良くなれた。だから、今まで友達を作ろうと思ったこともなく、気づいたら自然と周りには人がいた。だから、自分から友達を増やそうともせずに、なんとなく奈々恵と関わるようになっていた。そうして、慣れない緊張感の中で、一日一日と過ぎていった。
「高校入ったし、彼氏欲しいよね~」
後ろを向きながら、奈々恵が話しかけてくる。
「そうだね~。憧れるわ~」
そう言って、話を合わせてみた。正直、私は人をいいなと思うことはあっても、彼氏にしたいという感覚がよくわからなかった。そもそも、彼氏になると、何が変わるんだろう。
最近は受験勉強が忙しかったし、昔から習い事も多かった。小学校の高学年くらいからは、遊ぶ時間というものをあまり持てたことがない。家では、テレビはいつもお母さんが独占しているから、恋愛というものも、いまいちわからない。
「私が良いなと思っているのは、三年の勇人先輩なんだ」
奈々恵はそう言って手に顎を乗せて、首をかしげてうっとりした表情を見せる。色々と疎い私でも、勇人先輩の名前だけは聞いたことがあった。バスケ部の三年のエースで、かっこいい、頭も良い、背が高く筋肉質、何より、誰にでも笑顔で優しい。そんな人らしい。入学式に、新入生へのスピーチで勇人先輩が壇上に出たときには、体育館中が黄色い歓声で沸いた。なるほど。あの方を好きになるとは、なかなか大変そうだな。
「勇人先輩、彼女いないんだって」
そう言った奈々恵に、
「へえ、そうなんだ」
と返した。正直、これ以上、なんて言ったらいいのかわからない。
「いいね」
何がいいのかわからないけど、とりあえず話を合わせてそう言ってみた。
「美羽は、いいなと思う人とかいないの?」
「うーん」
特にいなかったが、何か話を合わせた方がいいんだろうかと思って、ふっと教室を眺めた。視線の先には、わいわいと何人かで話している、綺麗な横顔が見えた。
昔は顔っていうのは企業のロゴマークみたいに、人を識別するための記号くらいにしか思っていなかった。でも最近は、なぜか鷲鼻の異性の顔を、綺麗だと脳が認識するようになった。自分でも理由がわからなくて、謎だ。
「斉郷君とかかな」
(顔がね)
と言いたかったが、それをつけ足すことは失礼なんじゃないかと思って、言うのをやめた。
「斉郷君かっこいいよね。応援する」
そういわれたが、正直、斉郷君のことは、明るそうで、顔が綺麗なこと以外全く知らなかったし、特に知りたいとも思わなかった。でも、あれこれ説明するのがめんどくさいので、
「ありがとう」
そう言っておいた。
あ~今日も疲れた~。家に帰ると、部屋着に着替えて、思わずベッドに横たわった。高校から電車通学になったからか、中学の時よりも疲れを感じる。
「ご飯できてるわよ」
お母さんの声が聞こえる。
「はーい」
そう言いながら、食べるのが大好きな私は、今日の献立を妄想しながら階段を下りていく。よっしゃっ。今日は白身魚フライだ。トマトもある。トマト大好きなんだよね。お味噌汁もじゃがいもだし、最高だわ。
「いっただっきまーーす!」
そう言いながら熱々ツヤツヤのご飯を頬張ると、今日の疲れが吹っ飛ぶ気がする。
「そういえば、今日川沿いを歩いたんだけど、桜が綺麗だったよ。美羽の学校も咲いてる?」
そう言ってお母さんが私に顔を向けた。すると、
「あれ? 美羽、葉っぱがついてるわよ」
そう言って、隣に座っていたお母さんが、私の髪に触れる。
「え? どこでついたんだろう」
ごろごろと森の中を転がっていたわけもなかったので、葉っぱが付く状況が思い当たらず、思いを巡らせていた時に急に激痛が走った。
「痛っ。おかあさん髪の毛まで、一気にたくさん抜かないでよ」
あまりの痛さにのけぞった。
「え、髪の毛抜いてないけど。ほら、葉っぱ取ろうとしたんだけど、ツルも付いてたから、ツルごと引っ張っただけだよ」
そう言って、お母さんは、葉っぱとツルを見せた。
(え? すごい痛かったんだけど、なんだろう。)
そう思いながらも、
「取ってくれてありがとう」
そう言い直して、受け取ったツルをごみ箱に捨てた。
白髪を抜くと増える。この話は本当なのかもしれない。
「いってきまーーす」
お父さんが家を出ていく声がする。
「美羽、そろそろ起きないと、遅刻するわよ」
目覚まし時計は、何度鳴っても無意識に止めてしまう。アラームでは全く起きられず、結局お母さんの一声で、なんとかだるい体をベッドから這い出す。寝ても寝ても、疲れが取れない。朝からぐったりとしたままリビングへ降りていくと、
「美羽それどうしたの?!」
というお母さんの驚いた表情で、ようやく目が覚める。
「え?」
「また頭に葉っぱつけて、何してるの? ハロウィーンでもないんだから」
そう言っていたが、正直何を言っているのかわからない。でも、頭から何か独特な香りがする。とりあえず、鏡を見に洗面所に行ったところで
「えーーーー」
そう叫んでしまった。頭に葉っぱがいくつかついていた。ツルも二本もあり、昨日よりも増えている。リビングにダッシュして
「おかあさん、私何にもしてないんだけど」
そう言うのがやっとだった。
ナニガ、オキテイルンダロウ……。
昨日抜いた際に激痛が走ったのと、とにかくいつもより十分も遅れていたから、どうしたらいいのかわからず、その日はそのまま登校した。
道を歩く人が、私をジロジロと、遠慮のない目で見てくる。中には、すれ違いざまに、キモッとか、クサっとか、独り言のように言ってくる人もいる。突然のことに混乱しながらも、一つ一つの言葉や視線が、普段悪口を言われ慣れてない無防備な私の心を、何の躊躇もなくえぐってくる。
そんな状況は、電車内でも続いた。中には、私を露骨に避けようとする人もいた。急な出来事に、気持ちが追いつかなかった。私自身は今までと何も変わっていないはずなのに、私の周りは昨日までとは百八十度変わってしまった。
どうしていいかわからないまま、どんよりした気持ちで教室のドアを開ける。
「美羽、おはよーー」
そう言って、奈々恵が話しかけてくる。
「え? なにその頭? どしたの? っていうかにおいキツッ」
「なんでかわからないんだけど、今朝起きたら頭から生えてきたんだよね」
へらへらと笑ってそう言った。
「え? やばくない? どういうこと?」
そう言いながら、私の頭を見て、口を覆うように顔を背ける。
「ごめん。私ちょっと気分が悪くなってきたから、お手洗い行ってくるわ」
そう言って、奈々恵は急いで席を立ち、授業の開始ギリギリまで帰ってこなかった。それ以来、奈々恵は私が話しかけようとしても、ごめんと言って別の場所に行ってしまい、あからさまに私を避けるようになった。
新しく入った高校では、入学式に話しかけてきてくれた奈々恵しか友達がいなかったから、こうして私はひとりぼっちになった。
時折、嫌な悪口が聞こえてくる。
「え? 何あの頭?」
「てか臭いやばくない?」
「普通に吐きそうなんだけど」
「見た目も、マジでキモくない?」
「ていうか、頭から葉っぱ生えてくるとか、人間じゃなくて、ほんとは妖怪とかなんじゃない?」
「やばっ。ありえるーー。」
「っていうか、妖怪が同じ教室にいるとか、ありえないんですけど」
「どうする? こっちまで草が伸びてきて絡みついてきたら?」
「キャー、ホラーじゃん。マジ無理」
葉が生えるようになった翌日、お母さんと大学病院に行ったが、結局原因はわからなかった。世界初の症例ですねと、うつろな目をしたお医者さんに言われた。その後、病院で頭の葉っぱを採取され、研究室に回された。解析結果から、頭から生え始めたのはドクダミだったということが後日わかった。そして、それだけしかわからなかった。
私はあの日を境に、人として扱われなくなった。虫はいつもこんな気持ちで生きているんだろうか。別に、私自身は何も悪いことをしてないのに、攻撃の嵐は、それからの日々もやむことはなかった。
人が怖くなった。それからは、グッと息を殺すようにして、日々を過ごした。
(怖い、怖い、怖い。)
なんでこんなことを言われなきゃいけないんだろう。そう思って心から滲み出そうなほどの辛さが溢れてくる。でも、どうしたらいいのかもわからない。逃げ場のない苦しみが、どこからともなくやってきて、私の身体中を灰色のモヤで覆いつくし、それに締め付けられるようだった。私の世界が、騒音で埋め尽くされるようになった。
私のせいじゃないのに……。でも、そんなこと、誰も知ったこっちゃない。嫌なことに対しては、酷いことを言って良い。これは、この世の文化だったのかもしれない。
矢のように突き刺さった言葉の一つ一つを、取り除くすべなんてわからないまま、無感情なロボットのように、ただ生きる。
私が何をしたと言うんだろう……。
そうして、私の周りからは、家族以外の人が消えた。
それでも、私は学校を休めなかった。家に帰ればお母さんがおかえりと笑顔で言ってくれて、温かくて美味しいご飯が用意されていた。そんな時間が、私の唯一の救いだった。だからこそ、親には心配をかけたくない。私は何も問題が起きてないふりをして、毎日学校に向かった。お母さんを悲しませたくなかった。
家に帰ってからは、同じ症状の人はいないのか、ネットサーフィンばかりするようになった。でもこの病気の人なんて、どれだけ探しても見つからなかった。
もう限界だ……。そう思いながらも、私は生きなければいけない。親を悲しませないために。それに、ネットサーフィンをしていた時に、気になる話を見たのも、理由の一つかもしれない。
自分で人生をリタイアさせると、もう一度、今と同じ人生を生まれた瞬間からやり直すことになる。さらに、自分でリタイアした場合、同じ人生でありながら、今よりももっと過酷なものになる、とそこには書かれていた。
別に、本当に自らリタイアしようなんて思ってはいなかったし、もしそれができるなら楽なのにって頭をよぎる程度ではあった。でも、本当か嘘かはわからないけど、その話を見て、もし本当だったら最悪すぎると思った。今まで乗り越えた辛いこともまた乗り越えないといけなくて、なんなら今より劣悪な状況で生きることになるとか……。考えただけでもゾッとする。私は生きることを諦めないけど、だからといって今の状況をどうしたらいいのかもわからなかった。
とにかく日々を耐え続けていたら、時々、酷い体調不良が襲ってくるようになった。転げ回るほどの酷い腹痛で、動けなることもあった。もう限界だ……。
どうすればいいか考え抜いた結果、せめてクラスに行かなくてよくなれば、気持ち的にだいぶ楽になるだろうと思った。そこで、別の部屋で一人で勉強させてもらえないか、勇気を振り絞って担任の先生に相談しに行った。
「私、これから別教室で勉強させてもらえませんか。病気のことで、普通のクラスで勉強するのが辛くて……。体調不良になることも増えてきて……」
先生は、私と少し距離を取りながら、考えるそぶりを見せた。
「そうか。保健室で勉強してる生徒もいるし、私の一存では決められないけれど、教員会議にはかってみるよ」
そう言って、ひとまず普段の教室の上の階にあった空き教室に、私を待機させてくれた。緊急性を感じたのか、その日のお昼には先生がやってきて、
「ここで、自習という形で勉強することが認められたぞ」
そう言ってくれた。
「授業で配布される必要なプリントは、誰かに届けてもらうから」
そう言って先生は去っていった。
ひとまず私は、あの空間からは出られることになった。それでも、根本の原因が解決したわけではない。
本当に、全てが変わってしまった……。
≪三浦優斗: 上陸≫
「お前たちに伝えなければならないことがある。徳田は、ドクダミ病という、新種の病気に罹ったと診断された。それで、これから徳田は体調の関係から、別教室で勉強をすることになった。そこでだ。誰か授業で使うプリントを、徳田に届けてくれる人はいないか」
ホームルームの開始早々、担任はそう言って教室を見渡した。教室内がざわめきだす。ビニール袋がこすれるような嫌な音が、あちこちでする。見渡すと、みんな眉をひそめたり、ひそひそ話したり、当たらないように顔を伏せたりしている。そういや、斜め前のやつ、隣の席の人と仲良かったよな。そう思って斜め前をちらっと見ると、
「あんな吐きそうな臭いで、葉っぱが生えてくるとか意味わからなくて気持ち悪い人に、プリント届けるとかまじむりだわ」
そう隣の人に話しているのが聞こえた。え? あんなに仲良さそうに喋ってたのに、そんなこと言うのかよ。自分には全く関係のないことなのに、自分の中でカチッと、何かのスイッチが入った音がした。
みんな嫌がって、誰も何も言わないまま時間だけが過ぎていった。不意に、俺は過去がフラッシュバックしてきて、どうにもいたたまれなくなった。
「俺、隣の席なんで、届けます」
頭の中で十回くらいこの一文を反芻してから、オドオドと肘を曲げて手を上げて声に出した。一つも波紋が起きない湖のように、一度シーンと静まり返った後に教室内がざわめきだした。
「ありがとな。それじゃあよろしく」
という担任の声を合図に、教室内はまるで全てがなかったかのように、それぞれ別の会話へと移っていった。
思わず余計なことをしてしまった……。そう思いながらも、過去の記憶がよみがえってきて、気持ちが悪い。注目されたことへの、緊張と冷や汗も止まらない。同情……か。俺の中に、まだ人の心を持っている自分がいたことに少し驚きながらも、倒れそうになる自分をなんとかこの空間に押し留めようとした。
≪美羽:プリント≫
突然、うつむいて目を合わせない人が、私だけがいる教室にやってきた。その人は、プリントを私の机に置いた後、
「はいこれ。先生から」
とだけ言って、そそくさと教室を出ていった。
勉強に必要なプリントをもらえてよかったけど、私はもう人から目も合わせてもらえない人生になったんだ。そう思うと、とたんに涙が出てくる。なんでこんなことになったんだろう……。もう疲れた……。
この教室には誰もいなくて、誰からも見られていないから気が緩んだのか、涙が止まらなくなった。鼻水も止まらない。持ち合わせのポケットティッシュは使い切ってしまった。どのくらいそうしていただろう。気づけば、授業終了のチャイムが鳴っていた。
ずびずび鼻をすすっていると、またプリントを持った人が、教室に入って来た。泣いているのがばれないように、必死で止めようとするけど、鼻をすするのは止められない。
その人は、教室に一度入ってきて、少し止まった後に、無言でまた教室を出て行ってしまった。プリントは渡されなかった。もうプリントを渡すことも、この部屋にいることも耐えられないんだろうか。そう思っていると、パタパタという足音とともに、その人は再度教室に入ってきた。
「はい」
そう言って、その人は箱ティッシュを差し出してきた。
「花粉きついよな。それあげる」
そう言いながら、やっぱり目は合わせないけど、ティッシュとプリントを置いて、去っていった。
何が起こったのか、少しの間理解できなかったけど、鼻が限界だったので、ありがたく使わせてもらった。その日は、これ以上学校にいることは無理だと判断して、体調不良だと先生に言って、早退した。
帰ってからは部屋に引きこもったが、親には心配をかけたくなかったから、明日からもちゃんと学校に行こう。そう、ぐったりとした心にの中で、沈むように思った。
翌日教室に行くと、昨日配布されたと思われる各教科のプリントが、机の上に置いてあった。私が早退した後も、必要なものを届けてくれていたようだ。
昨日プリントを届けてくれた人は、休み時間になると、また必要なプリントを持ってきてくれた。
怖くても、ちゃんと言わなきゃ……。
「あの、昨日はごめん。ティッシュの箱貰ったから、返そうと思って」
そう言って私は自分のカバンから、新品の箱ティッシュを取り出す。
「いや、いいよ」
そう言って、必要なプリントだけ渡して、その人はまた去っていった。私から物をもらうとか、そりゃーー、嫌だよね。朝からふうっと落ち込みながらも、貰ったプリントに目を通した。プリントがあると、教科書以外にどんな感じで進んだのか見当がつくからありがたかった。でも、やっぱり授業を受けていないと、勉強がわかりづらい。今までは、授業がらみの雑談とかに頼って覚えていたところがあったもんな。これからどうしよう。また深いため息をついて、ふと窓越しに空を眺める。
何日か経っても、プリントを届けてくれる人が、決して私の目を見ることはなかった。それでも、毎回同じ人がきちんと届けに来てくれた。おとなしそうな人だし、先生から厄介ごとを頼まれて、断れなかったんだろうな。かわいそうだなと、自分が迷惑をかけている張本人にもかかわらず、そう思い始めた。
「あのさ、この病気、気持ち悪いよね。無理に私の机まで持ってこなくていいよ。ドアの入り口のところに机を置いておくから、そこに置いてもらうので大丈夫だから」
ある日、私がそう言うと、初めてその人はこちらを見た……ような気がした。ような気がしたというのは、前髪が長すぎて、その人の目がはっきり見えなかったからだ。でも、確かに視線が合ったような気がした。
少し沈黙があった後に、その人は、ぼそぼそと話し始めた。
「別に平気だよ。俺、別に見た目とかそんな気にしないし、ドクダミの香り嫌いじゃないし。むしろ、柔軟剤とか、消臭剤とか、香水とか、そういう人工香料の方が、気分が悪くなるから苦手」
プリントを渡しながら、その人はそう言った。いつもは机に置いてくれるけど、話しながらだから、何となく差し出されたそのプリントを、私は手渡しで受け取った。
確かにうちは、洗剤からシャンプーまで、洗うものは全て天然素材のものを使っているけど、でもそんな単純な話ではないだろう。病気ならではの不気味さもあるだろうし、気を使ってくれたんだろうな。親切な人なんだな、と思った。
それから、私たちは、少しだけ話すようになった。
「今日もわざわざごめんね。ありがとう」
その程度の会話だったけど、家族以外と会話ができる環境になって、少しでも人と話せることに、私は救いを感じていた。
そうこうしているうちに、だんだん勉強の方が分からなくなってきた。やっぱり、授業を受けていないと理解しづらいことが多い。どうしよう……。悩んだ末に、いつもプリントを持ってきてくれる人に、勇気を出して聞いてみた。
「あのさ、こんなこと言っていいかわからないし、本当に申し訳ないんだけど、ノートを貸してもらえたりしないかな。プリントを貰えて、凄い助かっているんだけど、正直よく理解できないところとかも増えてきて……」
プリントを届けてくれる人は、押し黙った後に、
「そうしたら、放課後に見せようか?」
と提案してくれた。
仮にノートを貸してもらえることになっても、持って帰ったらあの人は勉強できないだろうし、コピーさせてもらうにも、図書館に行ける気がしないかったから、その申し出がありがたかった。
「ほんとごめんね。よろしくお願いいたします」
≪優斗:ノート≫
プリントを最初に届けに行った日に、徳田さんが泣いているのを見てしまい、正直どうすればいいかわからなかった。とりあえず鼻が辛そうだったから、花粉対策で常備していたティッシュを渡した。女子にティッシュをあげるのが失礼になるのかわからなかったけど、さすがにきつそうだったから渡した。
それから、徳田さんとは少しずつ会話をするようになった。と言っても、一言会話するくらいだけど。そんな時に、ノートを貸してほしいと頼まれた。ノートを貸すのは全然問題ないけど、正直、俺はすごく字が汚い。とにかく先生が言ったことを片っ端から書いていくから、情報量は多いけど、他の人には到底読めなさそうな文字になってしまう。
読めないものを渡されても、字が読めなかったとか言えないよな。そう思って、放課後にノートを見せる提案をした。そうすれば、読めないところも口頭で伝えられるだろう。
頼まれた日の放課後、その日のノートを持って、俺は徳田さんのいる教室に向かった。
「よろしくお願いします」
申し訳なさそうに、徳田さんが頭を下げる。
「いや、気にしなくていいから」
そう言って、準備しておいてくれたような、少し離れた位置にある椅子に座る。
「はい」
そう言って、ノート全冊を徳田さんの机に持って行った。徳田さんは、それをペラペラとめくりながら、
「え? すごい。これ、黒板の板書以外に、先生が言ったことを右側に書いてるの?」
そう言って驚いていた。
「意外と先生の雑談とかあった方が、覚えやすいんだよね」
俺が言うと
「それ、すごくわかる」
徳田さんはそう言った。
「急いで書いてて、多分字が読めないと思うから、気になるところとか、わからないところがあったら聞いて」
俺がそう言うと、
「今日のプリントで、ここがよくわからなかったんだけど……」
そう質問し始めた徳田さんに、先生が説明していた内容を、口頭で伝えていった。
全部口頭で説明するわけにもいかないし、徳田さんも遠慮して聞けなかったりするかもだよな。家に帰りながら、ノートのことが気になった。意外とわからないところだけじゃなくて、それ以外のところでも重要な説明とか、あった方が理解しやすいところもあるよな。時間をかければ、読める程度の字は書けるようになるけど……。
悩んだ末、その週末に、全ての授業のノートを新たに書き直して、まとめノートを作った。どうせまとめノートを作るならと思って、暗記科目は、テストに出そうな文字を赤シートで消えるペンで書いて作った。
作ったまとめノートをコピーして、月曜日の放課後に徳田さんに渡したら、
「え、嘘? 神!!!」
と、すごく喜んでもらえた。徳田さんが嬉しそうなのを、初めて見た。それに、神、と人から呼ばれたのは、初めてだった。
正直、中学であの事件が起きるまでは、昔からイケメンとかかっこいいとか、生まれつきのことばかり言われて、
「でもあいつ、――じゃね?」
「でも、――だよね。」
とか何かで下げる言葉を言われるのがほとんどだった。だから、自分でしたことで神と言われたことで、なんだか自分の内面を肯定されたような気になってしまった。
すごい。うんうん。と感心したように読み続けるだけで、その日はどれだけ待っても、徳田さんの口から
「でも……」
の言葉を聞くことはなかった。
趣味の読書の時間が減るのは惜しいが、自分が何かしたことが人から喜ばれると、悪い気はしない。それに、毎週まとめておけば試験前に暗記用のまとめノートを作る必要がなくなるから、案外楽かもしれない。
神と呼ばれた俺は、まとめノートを作り続け、コピーを徳田さんに渡し続けた。その後、実際に勉強では神がかっていき、ぎりぎり補欠で入学できた高校だったのに気づけば学年トップ十位以内に入ることとなっていく。たなぼたとは、こういうことを言うんだろうか。
それからというもの、俺たちは何となく、放課後一緒に勉強するようになっていった。ノートを渡しつつ、放課後にわからないところを質問されて教えるようになり、時々雑談もするようになった。
少し経った後に、いつものように放課後教室に行くと、徳田さんが窓から、切なそうに外を見ていた。後ろからのぞき込むと、その先には、沢山の人が行きかうグラウンドが見えた。
俺の存在に気づいた徳田さんが、普段とは違った暗い声で、
「私、いつになったらここから出られるんだろう」
そう、うつろな目でボソッとつぶやいた。
「なんて、ごめんごめん。暗いこと言うつもりじゃなかった。ちょっと今日は疲れてるのかも。先に帰るね。プリントありがとう」
直前の雰囲気とは裏腹に、やけに明るくそう言って、徳田さんはすぐに帰ってしまった。無理やり笑っていたな。あれは、即席の、インスタントスマイルというのか、それとも、ファーストフード的に、ファーストスマイルというのか。なんて一瞬くだらないことを考えながらも、いや、そこじゃないだろ。と思いなおし、明らかに落ち込んでたことに思いを巡らした。
俺は、他人がいる空間に一人でいる時より、一人の空間に一人でいる方が孤独を感じないと思っていた。でも、それは思い違いなんだろう。俺にはわからない感情を、徳田さんは抱えている……。今日は華の金曜日で、やっと土日だというのに、あの寂しそうな徳田さんの顔がなぜか頭をよぎる。徳田さんは、あの場所から出たいのか……。
正直、入学当初、徳田さんは隣の席で、明るくてよく笑ってるけどうるさくて、時々耳に入ってくる会話は中身のないことを話してる子だなと思っていた。でも今は、うるさいだけの人ではないんだろうな、とも思えた。
同じ目にあった人しか、その人の本当の気持ちなんてわからない。いや、同じ目にあったとしても、人それぞれ物事に対してどう感じるかは違うから、本当の意味で人の気持ちをわかることはできないだろう。それでも、徳田さんがどうしたら少しでも心が軽くなるのか……。その問いが、ぐるぐると頭を巡る。
俺は今まで自分の気持ちからも色んなことからも逃げてきたのもあってか、徳田さんの気持ちはわからない。でも気になってしまうのは、辛かった頃の自分と重ね合わせているんだろう。あの時、誰かが手を差し伸べてくれてたら、俺の人生は違ったんだろうか……。
過去の記憶がフラッシュバックする。
正直、俺は昔からかなりモテた。イケメンとか、かっこいいとか言われることはしょっちゅうだった。
中学の時に、クラスで一番目立つ男が好きだった女の子が、俺を好きなことが判明した。それが発端で、事件は起きた。その男が好きな女の子が、俺を好きだったから。たったそれだけの理由で、俺の荷物の中に、他人のお財布を勝手に入れられてしまった。無実なのに、俺が人の財布を自分のカバンに入れてるのを見たという、目立つ男の取り巻きの一声で、俺の刑が確定した。といっても、実際捕まるとかではなくて、人からどろぼーと言われるようになっただけだけど。そこから、干潮で浜から波が引いていくように、周りから人が去っていった。俺は元々寡黙だから、うまく弁明もできなかった。
不幸中の幸いというか、それ以降、俺は嫌がらせを受けなくなった。クラス一目立つ男が、俺のことが好きだった女と付き合ったということは、教室の騒ぎ声で知った。そのはしゃぐ声が、じっとりと音のない世界で微かに聞こえる。
「でも、優斗君のことが好きだったんじゃないの?」
誰かがその女に聞く。
「いや、普通にドロボーとかありえないでしょ。それより、今の彼氏は男気があってグイグイ引っ張っていってくれるし、告られてよかったわ」
そう話しているのが聞こえた。
人間なんてそんなものだ。真実なんて関係ない。こうして俺は、教室の空気になった。
それからの俺は、できるだけ目立たないように、息をひそめて暮らすようになった。前髪を伸ばして、伊達メガネをかけて。俺の存在が、丸々地球から消えてしまったような、同時にそれをどこか自分でも望んでいるかのような、静かな日々を送っていた。時々、今でもあの事件の映像が蘇って、心が苦しくなる時がある。
徳田さんも、あの部屋にいると、自分が地球から消えてしまったような気持ちになるんだろうか……。
≪美羽:やりきれない≫
あれから、髪に生えるドクダミは、増えることはあっても、決して減ることはなかった。時間をかけて、自分なりにドクダミ病を観察した結果、いくつかのことがわかってきた。ツルは抜くと激痛を伴い、ツル自体が増える。でも、はさみで切れば痛くはないし、ツルは増えない。でも、はさみで根元を切ったとしても、一時間で他の髪と同じ長さにまで伸びて、葉もついてしまう。しかも、ツルを切る回数が多くなるほどに、付く葉の量が増え、香りも強くなることがわかった。
つまり、私はこの状況から、どうあがいても逃げ出すことはできない。一時間のために、その後の苦しみが増すカットを選ぶか、今のまま、我慢するか。選択肢があるとしたらこれくらいだろう。いずれにしても、私の地獄に終わりは見えない。
今日、ふと、グランドで楽しそうにはしゃぐ人たちを見て、言葉にできない苦しい思いがぐっとこみあげてきた。だからと言って、私には何もできない。
≪優斗:森≫
俺は校舎屋外の非常階段とか、学校にある小さな森の階段とかに、座ったり寝そべったりして過ごすのが好きだった。森の中だと息が詰まる感じがしないし、心地よい風や木々のそよめきが、ふっと心を緩めてくれる。
「今日の放課後、森に行ってみる?」
週明けの不意な提案に、徳田さんは驚いたような顔をした。
「この間、外に出たいって言ってたでしょ?俺は落ち着きたい時に、よく校舎の森に行くから、そこで今日は復習をするのもありかなって。そこなら、そんなに気にならないでしょ」
そんなに気にならないとは、徳田さんの病気のことを暗に意味することであり、何気なく言ったことが傷つけてしまったかな、と一瞬不安になったが、徳田さんの顔からは少し暗さが引いたような気がした。
結局、その日の放課後は、一緒に森に行った。
「久しぶりに、開放感を感じられたかも」
そう言って、木々の中を歩きながら、徳田さんは笑った。初めて見る清々しい笑顔を、ふと綺麗だなと思った。
「来れてよかった。ありがとう。そういえば、なんて呼んだらいいかな? 私のことは美羽でいいよ」
「うーーん、三浦でも、優斗でもなんでもいいよ」
「じゃあ、優斗君でもいい?」
「ああ。そしたら美羽さんって呼べばいい?」
「うーーん、それだと堅苦しいかも。そうしたら呼びやすいからお互い、美羽と優斗でもいいかな」
美羽は俺の名前をそもそも知っていたかわからなかったが、ひとまず名前を認識してもらえてよかったと思った。
それからというもの、俺たちは、雨の日以外はほとんど森で勉強するようになった。美羽は、前よりも笑うようになった。
美羽と森に行くと、なぜかしょっちゅう鳥が来た。鳥たちはとても綺麗な声で鳴きながら、二人の時間を遮るように、近くに居座る。そんな鳥たちを、美羽は可愛いと言い、鳥たちもまた美羽を好きそうであった。賑やかなのもまあいいか。そんなふうに思えたのは、いつぶりだろう。
≪美羽:惹かれてはダメだ≫
優斗は優しい。一見ぶっきらぼうで、目も合わせないことも多くて優しそうに見えないのに、言葉の選択が、紡いだ行動が、いつだって優しい感じがする。
時々優斗といると、普通の女の子だった時のように、病気のことを忘れてしまいそうになることがある。それでも電車に乗って道を歩けば、嫌というほどの悪意にさらされて、現実を思い知らされる。キモっ。吐き気がするんだけど。臭い。そんな言葉に、私は慣れていかなければいけない。
優斗は優しいからこそ、迷惑をかけたくない。こんな私は、優斗に惹かれてはてはいけないんだ。絶対に……。
≪優斗:未知の音≫
勉強するときに、美羽はよく片耳にイヤホンを付けていた。いったいその機械から美羽がどんな世界を見ているのか、優斗は気になっていた。
「いつも何聴いてるの?」
ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「ん?」
「それ」
片耳だけはめていたイヤホンを指さした。
「ああ。最近は尾崎豊にハマって、卒業とか聴いてる。名前からして、まだまだ私にしては早すぎるけどね」
イヤホンを耳から外して、美羽はそう話した。
「尾崎豊?知らないな」
「うん、私も知らなかったんだけど、倫理の教科書に出てて、あまりにもイケメンだったから、気になって聴いてみたら良かった」
「ふーん」
早速スマホで調べると、かなり昔に亡くなってる人だった。
「なんか、真っ直ぐでスカッとする感じがいいんだよね」
そう話しながら、渡したまとめノートの重要箇所を、赤い下書きで黒くなる、太ペンを使って塗りつぶしている。
「ちなみに、私がずっと好きなのは、バンプとスピッツかな。バンプは、バンプオブチキンね」
知らない名前ばかりだった。わからないからこそ、その言葉の指しているものが、ものすごいもので、とてつもなく価値のあるもののように感じた。
「私、この二つのバンドは好きすぎて、ほんとずっと聴いてる」
「特にどの曲が好きなの?」
もっと知りたくて聞いてみた。
「うーんそうだなー。スピッツなら、最近だと楓かな。
『他人と同じような幸せを、信じていたのに』
ってところにグッときちゃうから……」
沈黙が流れた。俺はなんで返せばいいのかわからなかった。
「ごめんごめん。暗かったよね。変なこと言っちゃった。忘れて」
美羽は少し寂しそうに笑ってから、空を見上げた。
家に帰ってから、尾崎豊の卒業と、スピッツの楓を聞いてみた。どちらも、心が綺麗な人が歌っているような、心が洗われるような、それでいて心にグッとくるものを感じた。そして、どちらも美羽の暮らしの、縛られてどこに出ればいいのかわからない状況や、抱えているであろう喪失感とリンクしているようで、少し切なかった。
マジックなら、パチッと指を鳴らせば、ジャラジャラと重たい鎖が張り巡らされた木箱の上に、パッと一瞬で出ることができるのに……。そう思いながらも、俺はマジックのやり方を知らない。
それにしても、尾崎豊の卒業を聞いて、人はいつ、支配からの卒業を迎えるんだろう、とぼんやりと考えてしまった。
従妹のことが、ふと脳裏に浮かんだ。従妹はもう就職したけど、文系だと、大学を卒業して就活となった時に、営業か事務か接客くらいしか、仕事はなかったと言っていた。そのことを全く知らなかったから、詰んだ、とも言っていた。結局、家系的に容姿に恵まれていたこともあって、従妹は営業職に就いた。でも優しすぎる人だったから、欲しくもない人に無理矢理必要のない物を買ってもらうような、人が嫌がることをすることがきつかったらしく、体調を崩して休職していた。
たとえ学生を卒業しても、今度は大人になれば、何でも自分でお金を払わないといけないという新たな呪縛が発生する。
本当に卒業することなんて、生きてる間にできるんだろうか。俺は大人になれば自由になれるとは思っていないから、支配からの卒業の卒業は、いつのことを指してるのかわからない。でも声質はどこか甘く、そして温かった。自分が包まれるような感覚になって、なんだか癒された。
卒業の後に、今度はスピッツの楓を聞いてみた。こっちもいい曲だった。本しか読んでこなかったけど、俺もCD買おうかな。
それにしても、他人と同じような幸せを、信じてたのに、か……。
翌日の放課後、俺は美羽に教えてもらった曲を聞いてみたと言ったら、思いの外嬉しそうに、
「どうだった?」
と聞いてきた。
「うん、すごいよかったよ。どっちも心が洗われる感じの声だったし」
「うんうん、いいよね〜」
ここで、会話をやめておくべきなのか。元の俺なら、絶対に人と深い話なんてしようと思わなかったけど、なぜか嬉しそうに聞いてくれるから、自分が思ったことを話してみたくなった。
「歌を聞いて、色々考えちゃってさ。支配からの卒業ってさ、そもそも大人になったら卒業できるものなのかね」
「そうじゃない? だって、同じ服を着て、同じことを勉強して、先生に指示されて、とかないし」
「でもさ、大人になっても、同じようにスーツを着て、同じように時間通りに働いて、会社に命令されて暮らすでしょ」
「確かに……」
「従妹の兄ちゃんが、文系だと、就職の時は営業か、事務か、接客くらいしかなかったって言ってた」
「え? そうなの? そんなこと全然知らなかった」
「知らないよな。結局、営業になったけど、人が嫌がることをし続けるプレッシャーに耐えられなくて、従妹は今仕事を休んでるし…」
みるみる美羽の顔が暗くなってくる。やばい。こんな話するんじゃなかった。
「って余計なことを言っちゃったけど、どっちもすごくいい曲だったし、こんな良い曲が世の中にあるなんて知らなかったし、聞けて本当に良かったよ。CD買おうか迷ってる。他の曲も色々と聴いてみるつもり」
「それならよかった」
そう言って、美羽は少し考えるようにしてから、
「文系を卒業した後の就職のこととかわかってなかったから、教えてくれてありがとう」
と言った。
「そうしたら、文系じゃなくて理系にしておけば、それ以外の選択肢の幅も広がるってことだよね。そもそも私は、自分の病気の原因とか、対応方法とかが気になるから、そういう研究の道に進もうかな。教えてもらえてなかったら、あまり考えずに勉強しやすそうな文系を選んでたかもしれなかったから、ほんとありがとう」
ああ。自分で思ったことを話してもいいんだ。イケメンなのにネガティブとか、話面白くないとか、変わってるとか、そんなこと言われないこともあるんだ。自分が思ったことを話して、否定されずに聞いてもらえるってこんなに安心するものなんだな。
「いや、別に。あとさ」
話しても大丈夫だと思うと、止まらなくなった。
「昨日、楓の、人と同じような幸せを信じていたのにって歌詞の話をしてたじゃん?あれって俺、わかるようでわからないんだよね」
「ん?」
「だってさ、誰が幸せかなんて誰にもわからないじゃん。どの人と同じ幸せなのかなって」
「んー。どういうこと?」
「だからさ、例えばだよ。家がお金持ちで、そこの息子がすごく頭が良くて、大人になって超エリートって言われる会社に入って、綺麗な奥さんと結婚して、子どもがいたとするじゃん。それが一見、外から見たら幸せって思われるかもしれないよね。
でも、例えばその人は、昔は勉強、大人になったら仕事とかでストレスが半端なくて、毎日イライラしたり、怒ったりしているかもじゃん。一見綺麗な奥さんも、自分のことしか考えない人で、その夫婦はお互いに性格も合わなくて、口を開けば喧嘩ばかりで、喧嘩のたびに家の中にワインの瓶が飛び交ってるかもしれないじゃん?」
「さすがに極端では……?」
そう美羽が返すけど、止まらない。
「それでさ、子どももそんな環境だから、思ったことを言えなくて我慢するようになって。気づけば仮面夫婦、家中が仮面家族になって、みんながみんな、お互いが空気であるかのように暮らしているかもしれないじゃん?」
「うん」
「でもそんなんでも、家の中っていう区切られた箱の中で起きていることは、外からは誰も見えないよね。外では、美男美女でお似合い夫婦とか、子どもは恵まれているとか言われるかもで。
都会だと、沢山の建物があって、夜は沢山の明かりが見えるけど、その中のどの明かりが幸せな明かりで、どの明かりが不幸の明かりなんだろうかって、時々考える。結局、外から見ただけじゃ誰にもわからないんだよね」
「うん」
「だからさ、他人と同じような幸せって、あるような気もするけど、これってものはないんじゃないかな、って思っちゃうんだよね」
「うーーん」
そう言いながら、美羽は押し黙ってしまう。言いすぎた。明らかに言いすぎた。しかもネガティブすぎる発言だし。
少しの沈黙の後、
「私、歌詞を聞いて、私も他人と同じような幸せが欲しいのにって思ったりしてたけど、そもそも他人と同じような幸せって何だってことだよね。考えたことなかったな。そんな深く考えられるのはすごいね。私も少し考えてみるよ」
「いや別に、すごいとかじゃなくて、そういう家で暮らしてる人もいるから」
「そうか……」
少し美羽は考えるようにしてから、
「優斗は、家がきつい?」
そう聞いた。
「きついかな」
「そうか……」
その後、言ってしまったことを消し去りたいような気もしてきて、俺は無言で問題集を解き続けた。
「じゃあさ、その人が幸せって思えたら幸せなのかな」
え? だいぶ長い間、数字とにらめっこしていたから、急に発された言葉に驚いた。
「そうだね。そうなんじゃないかな。一般的に、特定の名詞が指す状況、環境に当てはまるかで幸せは決まる物じゃなくて、その人が幸せを感じた時に、幸せはそこにあるんじゃないかな」
今まで、変わってるって言われることも多くて、何か人に言っても伝わらないことが多かった。だから、本心を話すなんて、無意味なことだと思って、いつからか本心を人に話すことを、諦めてしまってた。でも、自分が思ったことを話して、それを聞いてくれて、そういうのってなんだかいいなと思った。
≪優斗:本の虫≫
その日は、図書館に寄ってから森に向かった。たまには勉強じゃなくて本を読もうと思って、借りた本の中から一番面白そうなものを取り出した。
「よく本読んでるけど、本が好きなの?」
美羽がそう尋ねる。
「うん。自分の知らないことを知ることが好きなんだと思う。あとは、本の中に逃げ込む時もあるかな。読むことで、心が軽くなることもある。」
「そうなんだ。私、本をあまり読まないんだよね。おすすめとかある?」
「うーん、ありすぎて選べないけど、普段本とか読まないなら詩とかも読みやすくていいかもね。詩だったら、宮沢賢治の雨にも負けずが好きなんだよね」
「どんな詩?」
好きすぎて、これは朗読できる。
「雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち
欲はなく
決していからず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きしわかり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さなかやぶきの小屋にいて
東に病気の子どもあれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼうと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういう者に
私はなりたい」
言い終わった後に、美羽はふっと笑った。え? こんな朗読できるとか、変なやつって馬鹿にされてる?
「笑うことないじゃん……」
不機嫌そうに言うと、
「いや、ごめんごめん。馬鹿にしたわけじゃなくて、すごく優斗っぽいなと思って。ほら、私のプリントも届けてくれて、困ってたらノートもまとめたのをくれて、なんか空気感が似てるなって」
思いがけない言葉が返ってきて、なんだか急に恥ずかしくなった。今までずっと見た目は褒められてきたけど、昔からほとんど話したこともないのに突然言い寄られたり、イメージと違ったと言われたり、イケメンなのに〇〇だよねって悪いところを探されることとかも多かった。そんな風に内面について言われたことがなかったから、気恥ずかしかった。
何と言っていいかわからずにいると、
「私も精進しないと!」
そう言って、美羽が謎の気合を入れていていた。
≪優斗:移り変わり≫
もう、どのくらい森に来ただろうか。最初は、少しよそよそしい感じがした森も、今はすっかり俺を受け入れてくれているような、そんな優しい感じがする。最近は雨が続いていたから、放課後は教室にいることが多かった。今日は久々に晴れたので、放課後の勉強会は森ですることになった。
美羽は、初めて会った時よりも、だいぶ暗さが減ってきた。
「ここに来ると、色んなことが忘れられて、すごく癒されるんだ。こんないい場所を教えてくれて、連れてきてくれてありがとうね」
久々の森だったからか、不意に美羽がそう言ってきた。
「いや、別に。俺が好きなだけだし」
この場所が、って言い忘れたから付け足したほうがいいかなと思ったけど、わざわざ付け足すと、逆に好きというのが、美羽に対して言ってるように思ったみたいじゃないか……。なんて余計なことを考えてしまった。どうしようかと考えながら横を見たが、美羽は笑顔で、
「うん、いい場所で好きなのすごくわかるわ。私も好きだなぁ。ありがとう」
「う、うん」
どうやら、俺だけが無駄に言葉を意識してしまったようだ。私も好きだなぁは、別に俺に対して言ってるわけではないのに、さっきは勘違いを起こしそうな言い方をしたんじゃないかとか考えていたこともあって、色々と自分が恥ずかしくなり、鳥を見るふりをして反対側を見た。
≪美羽:第二の犠牲者、現る。≫
ガラガラっと音がして、前の扉が開く。見てみると、そこには見知らぬ男子生徒が立っていた。
「こんにちは。久田美徳良です」
そう言って、その人はニコッと笑った。切れ長の目をした、爽やかな人だった。サラサラの黒い前髪が、白い肌をより白く見せていた。同時に、森で遊んでたらつけてしまったかのようなツルと葉が、サラサラの髪の中で不釣り合いなほど主張をしていた。見ていいものかわからず、ふっと頭から目を逸らした。背の高さとは裏腹に、物腰柔らかい話し方は、性別を感じさせない不思議さを含んでいた。
「こ、こんにちは」
不意な出来事に驚いて、少しどもってしまう。優斗以外と話すのは久しぶりだから、緊張する。
「今日からこちらでお世話になります。よろしくお願いします」
私から葉のことを切り出して良いのかわからず、
「こちらこそよろしくお願いします」
という挨拶にとどめた。
「先輩はいつからなんですか?」
私の気づかいとは裏腹に、その人は屈託のない感じで聞いてくる。
「先輩って、中学生じゃないよね?」
私がそう答えると
「はい! でも、俺より発症が早かったから、先輩かなって」
さも当たり前のことのようにその人は言った。病気のことを、こうもストレートに話すことに驚きつつも、病気に先輩後輩とかあるんだと、その発想にちょっと吹き出してしまった。
「先輩はこれ、いつからなんですか?」
そう言って徳良は、自分自身の頭の葉っぱを触りながら眺める。
「私は四月からかな」
「うわっ。四月とか、伸びるの早そうじゃないですか。切るの大変そう」
「そう思うじゃん? でも意外と髪の長さになるとこれ止まるんだよね。それよりも、実験してみたんだけど、これ切ると増えるよ。しかも抜くと、超増えるよ」
「まじっすか。全然知らなかった。先輩! 教えてくれてあざっす」
「といっても、謎なことばかりで、今わかっていることも、人体実験の結果なんだけどね」
私がそう返すと、
「人体実験とか、なんかワードが怖いんですけど……」
そう言われて、お互い笑った。
正直、こんな話ができる時が来るなんて思わなかった。私ばっかり病気を重く考えてるみたいで、会話の軽さで気が楽になる。
「色々わからないこととか教えてください! よろしくお願いします! あ、俺のことは徳良って呼んでもらっていいんで」
そう言ってぺこりとおじきをした。
「わかった! 私も美羽でいいよ」
丁寧なのかフランクなのか、よくわからない人だった。でも、話していて嫌な感じはしない。弟がいたこともないし、犬を飼ったこともないけど、きっといたらこんな感じなんだろうなと思わせる人懐っこさが、徳良にはあった。
その日の休み時間、徳良の元にプリントを届けにきたのは、華やかという言葉がぴったりの女子生徒だった。
「一緒の部屋の子って、女の子だったんだ」
その子はそういうと、
「私、萩原波瑠。波瑠って呼んで! よろしくね!」
そう私に笑いかけた。かっ、かわいい。キラッと光る目を持った、美人な子だった。元気で少し意思が強そうな感じだけど、その笑顔に嫌な感じや、裏がある感じは全くしなかった。
「私は美羽。美羽って読んでもらえたら嬉しいな。よろしくね」
そんなやり取りをして、波瑠は自分の教室に帰っていった。
その放課後、波瑠はまた来て、徳良に必要な荷物を届けて、宿題の説明もしていった。
「じゃっ、私部活だから、またね!」
そう言って、春風のように去っていった。
「波瑠ちゃん可愛い子だったね〜」
キラキラとした華やかさが、人の心を明るくしてくれる雰囲気を持っていた。
「え? そう?」
優斗のそっけないリアクションに、この人はあまり人に興味がないのかもしれない、と思った。あの子を見て、華やがない人はいない。うん。
「波瑠の良さは、俺だけがわかっていればいいんだ。」
なぜか徳良が得意げに言う。
いや、誰がどう見ても可愛いし、綺麗だと思うけど……。そう思いつつ、あえて口に出すのは、徳良に酷かと思ってやめておいた。
「徳良は、波瑠と付き合ってるの?」
そう私が徳良に聞くと、徳良は飲んでいた水を吹き出して、むせていた。タイミングが悪い時に言ってしまった。
「つ、きあってるとか、そんなんじゃないよ……」
小さくなってくる声に、微笑ましさを感じた。
「ねぇ。手が進んでないんだけど」
鬼コーチか! と思える優斗の言葉に突然遮られて、
「もう、わかってるよ」
と問題を解きにかかる。
なぜか優斗の視線を感じる気がして、真面目に、ちゃんと勉強しないと、と思った。
≪優斗:沼る≫
家に帰ってから、今日起きたことを、嫌でも思い出してしまった。
朝、プリントを渡しに美羽の教室に向かっていたら、美羽が知らない男と話しているのが廊下から見えた。そいつにも葉っぱがついていたし、美羽と同じ病気のようだった。葉っぱは切らない方がいいとか、俺とはすることのない話を、自然体で楽しそうに話してた。なんか、モヤモヤする。しかも、早々に徳良が付き合っているのか聞くなんて、美羽はあいつに付き合っている人がいるのか、そんなに知りたいのかよ。しかも、しょっぱなから名前の呼び捨てで呼んでるし……。俺なんか、そもそも名前を認識されたこと自体、だいぶ後だったんじゃないか……。言葉にできない感情が、ぐるぐると駆け巡る。
徳良は、ニコニコしていて優しい感じがするし、背が高くて爽やかな感じで、いいやつそうで、俺みたいなのにもフレンドリーに接してくれる。こんな人と二人でずっと同じ部屋にいたら、いいなって思うようになるんじゃないか。
「あーーーー」
思わずそう声に出て、ベッドに倒れ込む。
俺は、ずっと色んなことを諦めてきた。家族のこと、学校のこと。見ないように、考えないように、感じないようにして。でも一番無視してきたのは、自分の心だったのかもしれない。何かをしていれば、気は紛れるから、ずっと何かに逃げ込んで。今までは、そうやってただ季節が変わるのを、息をするように過ごしていただけだった。なのに、なんで……。
≪美羽:たぬきの贈り物≫
それから波瑠は、部活がない日は放課後にやってきて、徳良と勉強したり、絵を描いたりして過ごしていた。波瑠が部活のない日には、徳良は放課後に残っていて、それ以外の日は早く帰って行った。徳良がやってきてからも、優斗とは放課後は頻繁に森に出かけた。
この日は、思わぬ生き物に出くわした。普通に歩いていたら、猫みたいな生き物とすれ違ったけど、よく見たらどうも猫じゃない。
「あ、たぬきだ!」
驚きのあまり、大きな声を出してしまった。
「え? たぬきなんて、こんな都会のど真ん中にいるわけないでしょ?」
そう優斗に言われたが、あれはたぬきに違いない。
「待って!」
そう言いながら、捕まえたいわけでもないのに、よく見たくて走り出す。全力疾走していたら、ずるっと斜面になっていたところで、盛大に転けてしまった。
「痛たたた」
「なにやってんの」
追いかけてきた優斗はそう言って、大笑いしている。優斗がそんなに笑った顔を見るのは、初めてだった。強い風が吹いていて、全てを覆い隠すような前髪がふわっと風に流されて、優しそうな目が見え隠れする。
「ははは」
「そんな笑うことないじゃん」
キュン……? 不覚にも、反論しないと高鳴る心に飲まれてしまいそうだった。
「ごめんごめん」
そう言いながらも、優斗の笑いは止まることなく、しまいには目じりをぬぐっている。
その後、優斗は転んだままの私を引っ張り起こしてくれた。でも、それからはなぜか急にそっけない態度に変わって、よそよそしくなった。結局その後、すぐに優斗は家に帰ってしまった。
なんでかははっきりしないけど、大体の察しはつく。こんな病気を持ってる人に、しかたなくでも触れるとか、ほんと嫌だったんだろうな。ついつい優斗といると、病気のことを忘れがちになってしまうことが多い。改めて、本当に申し訳ないという気持ちが強くなる。一応、親にも影響出てないし、移るものではないと思うんだけど、迷惑をかけないようにちゃんと距離を取るように気をつけないと。優斗の笑顔にちょっと浮かれてしまった自分が心底恥ずかしくなって、改めて自分を戒めた。
≪優斗:たぬきドン≫
その日の放課後も森に行ったところ、美羽がなぜか、都会のど真ん中の森なのにタヌキを見つけたと言い張って、大はしゃぎで全力疾走し始めた。たぬきだと指している方向を見ると、明らかに猫とは違う、たぬきにそっくりな生き物が走っていた。
まじか。そう思いながらも俺も走り出す。
たぬきばかり見ていたんだろう。斜面になっているところで、美羽は派手に転んでいた。それを見たら、かわいそうなはずなのに、なぜかわからないけどたぬきのくだりから面白すぎたからか、笑いが止まらなくなってしまった。こんな笑ったのは、いつぶりだろうか。
ようやく落ち着いてから、俺は両手を差し出して、美羽を起こした。散々笑って、気が緩んでいたのか、引き上げる時に見た、吸い込まれるようなその大きな瞳から、なぜか俺は目が離せなくなった。ビー玉みたいに綺麗な目だった。初めて触れた肌は、とても白くて、シリコンのようにスベスベとしていた。
ドキッ。うわ……俺、何を考えてるんだ。
ドッドッドッ。
鼓動の音が、どうしようもなくうるさい。
「ありがとう。」
美羽が恥ずかしそうにしながらも笑った時に、美羽の周りに花が飛んで、それらはキラッと光った。幻覚まで見えるようになって、どうやら俺は頭がおかしくなってしまったようだ。俺は……どうしたらいい……。
「いや別に」
そう言って、ぶっきらぼうに、顔を背ける。
「悪い、今日は用事があったから、先帰るわ」
そう言って、慌ててその場を去った。
≪美羽:徳良の噴火≫
波瑠はあまり勉強が得意ではないようで、放課後に来ては、徳良に話しかけたり、絵を描いたりしながら、時々私にも話しかけてくれた。波瑠の描く絵を見てみたら、すごく上手なアニメ系の絵で、その色彩の繊細さは、今までに見たことのあるどの絵とも違う気がした。
「うまいね〜!」
そう話しかけると、
「私なんて、まだまだだよ。でもありがとう」
と言ってニコッと笑った。
「私、漫画を描くのが夢なんだ〜」
そう波瑠が言った。
「すごい! 波瑠なら、きっとすごい漫画家さんになると思うよ!」
「へへ」
照れながら、新しい絵を描き始める。新しい絵は、徳良によく似た人だった。
波瑠の話を聞いて、ぼんやりと考えてしまった。私は小さい頃から、色んな習い事をさせられていた。特に考えることもなく、朝から晩まで勉強やら習い事で、自分が何が好きかなんて考えたこともなかった。自分の好きなものがわかっていて、その好きなことをしている波瑠を見て、それってなんかかっこいいし、どこか羨ましいなとも思った。私の未来がどれくらい暗そうでも、それを理由に全て諦めるんじゃなくて、私も少しずつ、何が好きなのか探していきたいな、とも思った。
教室をひとたび出れば、冷ややかな視線や悪意、突き刺さるような言葉を投げかけられながらも、安心できる場所がある中で日々が過ぎて行った。
そんな中、なんとはなしに波瑠が言った一言で、事件が起きた。
「あーー、毎日こう教室の中で勉強だけとか、息が詰まるわ〜。みんなでどっか遊びに行こうよ〜。プールとか行こうよ〜」
波瑠の言葉に、いつもなら、すぐにニコニコしながらいいね、とか言い返す徳良が、その時は何も言わなかったのでシーンと静けさが漂った。その後、ドンというすごい音がした。何が起こったかわからなくて、ふと音の方を見ると、徳良が机を叩いたようだった。
「そんなに息が詰まるなら、来なければいい」
絞り出したような低い声だった。みんなの視線が徳良に集まる。張り詰めるような空気が、呼吸音さえも出してはいけないような気持ちにさせる。
「誰でも好きに誘って、遊びにいけばいいじゃん。そう言えば前に、クラスの男どもがお前と遊びに行きたいって言ってたよ。行ってくればいいじゃん。
どうせ俺のこと可哀想だとか、気持ち悪いとか思ってんだろ? ここにくるのがめんどくさいとか思ってんだろ? 言えよ」
徳良が波瑠に詰め寄る。波瑠が泣きそうになっている。
「やめろって」
優斗が間に入る。いつもは誰よりも温厚な徳良が、こんなに怒るのを初めて見た。
「お前らはいいよな。当たり前のように、普通の体で生きられて」
「徳良、やめて」
そう私が叫ぶ。
徳良は、いつも優しそうなお母さんが、車で学校まで送り迎えしてくれていて、いつも美味しそうなお弁当を持っている。だけど、優斗がそのどれも持っていなさそうだということを、私は知っている。
そして、徳良の、逃げたくても逃げる場所もない、行きたい場所に普通に行くこともできない。人からは酷い言葉を浴び続けさせられ、心はえぐられ続け、どうなれるのかの先も見えない。いっそ全てを終わらせてしまいたいと思ってしまうくらい、やり場のない苦しみも、私は知っている。
「俺の気持ちなんて、わかるわけないんだよ。もう放っておいてくれ」
そう言い捨てて、徳良が教室を飛び出していく。
どうして私たちは、見なくていいものばかり見てしまうんだろう……。
翌日、徳良にプリントを届けに来たのは、徳良のクラスの担任の先生だった。波瑠がやってきたのは、その日の放課後になってからだった。波瑠が教室に入ってきたのを見て、ここに私がいるべきか、出るべきか迷った。けど、徳良からは昨日のような殺気は感じなかったから、
「私お手洗い」
言ってとっさに荷物を持って席を立ち、廊下でこっそりと控えていた。
「昨日は、あんなこと言うつもりなかった。本当にごめん……」
そう徳良が謝っていた。
「私こそ、無神経な発言をしてごめん」
そう波瑠の声が聞こえた。
「波瑠は悪くない。わざと言ったわけでもないことはわかってる。わかってるけど……俺はこの病気になって、本当にどうしたらいいのかわからない」
そう言って徳良が泣いてる。
徳良は、この教室に来た頃から、いつもニコニコしていて、元気そうにしていたから全然気づかなかった。でも、きっとこの部屋の外では、私と同じような扱いを受けているはずで、拭い去ることができないけれど押しつぶされそうな重圧に、ずっと耐えていたんだろう。そして、これからも耐え続けなければならないことに、やり場のない感情が爆発してしまったのだろう。
「うん、うん。私は、徳良がいればそれでいいから」
波瑠はそれ以上何も言わず、泣くのが止まらない徳良を、ただただそっと抱きしめていた。
ハラハラしながらこっそり教室の外から見ていたけど、問題なさそうだしかえって邪魔になりそうなので、優斗に連絡して、その日は森に集合した。
≪美羽:このままじゃ終われない≫
この病気になって、初めは生きててもしょうがないって絶望してたのに、今はこうして笑っていられる場所があって、それって本当にみんなのおかげなんだよな。とこの間の騒動をきっかけに、改めてそのありがたさを実感した。
私がみんなにできることって、なんなんだろう。波瑠は外に出て遊びたがってたし、机の上で遊ぶゲームとかじゃなさそうだよね……。かといって、私とか徳良が、普通に外で遊ぶことは難しいわけで……。そうだ! そしたらこれはどうだろう。今まで小さい頃から貯めてきたお小遣いもあるし、これを使えば……。
翌日の放課後、みんなが集まった時にお願いをしてみた。
「もしよければ、みんなの家にあるもので、自分が好きなものだけどあげてもいいかなってものを一つ持ってきてくれないかな?」
その後に、不自然にならないように、
「ちょっと寄付をしたくて」
その一言を付け加えてみた。
「えー、なになに? ボランティア? いいよ!」
乗り気な波瑠は、すぐに賛成してくれた。
「いいよ」
「わかった」
優斗と徳良も、それぞれ賛同してくれた。
「そしたら、この日に持ってきてもらえるかな?」
「了解!」
無事に物はゲットできそうだ。よしっ。あとは、必要なものをネットで買い集めて……。
決行日の放課後、みんなには森で時間を潰して欲しいと頼んだ。
「え、俺の秘密の場所なのに……」
と優斗は渋ってたけど、
「お願い〜」
と言ったら、そっぽをむきながら、まぁいいけどって了承してくれた。
家である程度は準備してきたし、あとは最終仕上げだから、今から一時間もあれば終わるかな。着々と作業を進め、結局一時間も経たずに、意外と早く準備が終わった。よし! できた! それから早速、みんなに教室に戻ってきてもらえるように連絡をした。
ガラッとドアが開くと同時に、私が持っていたクラッカーを鳴らす。
パァァン!
「縁日へようこそ〜!」
そう言って、私はみんなを迎え入れる。
驚きで、みんなが一瞬ポカンとした後に、
「えーすごい」
って波瑠がはしゃいでくれた。男子陣も、
「すごいじゃん、なにこれ」
とか言いながら喜んでる。
「ささやかながら、ここで夏祭りができたらなって!」
「これ一人で作ったの?」
優斗が聞いてくる。
「そう! サプラーイズ! ザ、夏って感じがしていいでしょ?」
そうノリノリで返した。
早速、私は自動かき氷に氷をセットして、
「ちょっと待っててね」
そう言いながらガリガリと削られてくる氷を、お椀を回しながら盛り付ける。
「できたよ、はい!」
一人一人に手渡してから、私も口に頬張る。
「うわー美味しい~! これぞ夏って感じで最高だわ。」
波瑠がうっとりしている。
「うん、美味しい。」
徳良も、目を見開いて驚きながらも喜んでる。
「うまい」
優斗も気に入ったようで、シロップのカルピスを追加でかけている。
「えっへん」
そう言って、ちょっと偉そうに自慢げにしてみる。
「私の実力、舐めてもらっちゃ困りますね」
そう言うと、ぷっとみんなが吹き出した。よかった。みんなに、自然な笑顔が戻っている。
「食べ終わったら、まずはヨーヨー釣り対決かな?」
そう言って、ヨーヨー釣りを指さす。これは、折りたたみ式の小さな子供用のビニールプールにお水を張って、家で膨らませておいた水風船を浮かべて作った。今はネット社会でなんでも買えて、便利だった。
「えー! ヨーヨー釣りとか、久しぶりすぎる! 早くやろうよ!」
波瑠はノリノリだ。かき氷も食べ終わり、早速ヨーヨー釣りを始める。
「うわっ。波瑠、もうちぎれたの? 下手すぎる」
そう言いながら、徳良の顔に笑顔が浮かんでる。
「俺、こういうの初めだから楽しいわ」
そう言いながら、優斗も楽しんでるようだ。
「いっぱい取れた人が、ここのゲームでの勝ちね!」
切れないように掬うのが、意外と難しい。終わってからは、取れたヨーヨーを指にはめて、それぞれパシャパシャとはたいて遊んでいる。
「次は輪投げだよ~! 男子は背が高いから、ハンデ有りで」
そう言って、女子グループは近場でちゃっかりと点を取る。
「ずるい」
そう言いながらも、みんな全力で高得点を狙ってく。輪投げって簡単に作れるのに、競うとなると意外と面白い。
「最後は射的だよ! 段ボールに並べた缶を、たくさん倒せた人が勝ちね」
みんな子どものようにムキになりつつ、はしゃいでる。
「やばい。楽しい」
優斗が、本気を出しながらそう言っている。
「こんなにはしゃいだの、久しぶりだよ。美羽最高! ありがとう!」
そう波瑠が言ってくれる。
こうして、ヨーヨー釣り、輪投げ、射的が無事終わった。それから、全ての遊びが終わったように見せかけて、
「まだまだここでは終わりませんよ。ジャジャーン」
そう言いながら、私はあらかじめ集めておいた袋を机に並べる。
「あ! これって!」
さすが、波瑠は鋭い。
「そう! あらかじめみんなから集めておいて、私が紙袋に入れておいた物だよ! 今回のゲームで勝った順に、好きな袋を選んでいってね!」
徳良、優斗、波瑠、私の順に選んでいく。私は、別に弱くて負けたんじゃなくて、みんなに花を持たせようとビリになっただけだから……ということにしておこう。それぞれが選んでいって、私は最後に残った袋から、中身を取り出した。
おっ! これは、本だ! なになに? 宮沢賢治じゃん!
優斗のならいいなと思ってたところに、まさかの明らかに優斗だろうという本が当たって、嬉しくてニヤニヤしてしまった。
「俺はイヤリングだ」
徳良がそう言った。
「あ、それ私の! シルバーメインでできてて、ただのリングだから、男女選ばずにいいかなと思って。シルバーのアクセサリーが好きで、昔から集めてるから」
そう説明した。優斗には、波瑠の人形が当たった。
「私はクッキーだ! 超入ってる!」
と波瑠は喜んでいた。
「ダイエットは来月からぁ〜」
そう楽しそうに、謎の歌を口ずさんでる。
「徳良、変えて」
普段自己主張をすることがあまりない優斗がそう言ったから、驚いた。
「ぬいぐるみはさすがに嫌だったよね〜。ごめんね〜」
波瑠は申し訳なさそうに言ったが、
「そうじゃなくて、俺イヤリング欲しかったから」
そう優斗は返した。へー。優斗は意外とアクセサリーとか好きなんだな、と思った。結局、徳良は、波瑠の物を貰えるなら何でも嬉しいらしく、
「いいよ!」
とむしろ嬉しそうに言って、プレゼントは無事交換された。楽しい祭りは、こうして無事終わった。
各々が片付けをしつつ、私と優斗はヨーヨー釣りの前でしゃがんでいた。
「それにしても、この水どーするよ?」
優斗が聞いてくる。
「確かに、運ぶ時は水道からバケツに入れて運んできたけど、返す時のことまで考えてなかった。バケツだと掬いずらいし、どうしようかな~」
そう言った後に、不意に優斗がこちらを向いて、
「ねぇ」
と言った。なぜか顔が近い。
「これ付けて」
そう言いながらイヤリングを差し出して、左耳を掻き上げた。
「え?」
「自分だと見えなくて付けづらいから」
そう優斗が言う。
「あ、そうだよね」
優斗にとっては、きっとなんでもないことなんだろうけど、私はこの上なくドギマギしてしまう。普段はあり得ない近さで、私の心臓の音が、指先を伝って優斗に聞こえないだろうかと思えるほど、激しく鳴っている。緊張でどうにかなりそうだったけど、痛くないように、慎重にそっと取り付けた。
こほん。
優斗が咳払いをする。あ、さすがに近くで、ドクダミはきついよな。ごめんと思って、
「私、向こう手伝ってくる」
そう言って、私はその場を後にした。いろんな感情が渦巻いて、この熱さをどう落ち着かせたらいいのかわからなかった。
片付けがすべて終わった後に、
「あのさ、この間は悪かったなと思って、みんなにお詫びに……」
そう言って、徳良はみんなに、袋に包まれたクッキーを渡した。
「俺、本当に自分のことしか見えてなくて、この病気になってから、人に言えない苦しさとかどうしようもない気持ちがずっと溜まっていってて、この間爆発しちゃって。八つ当たりとか最悪だと思うし、どこかで波瑠には許してもらえるっていう甘えが、自分の中にあったのかも。だからほんとごめん」
そう言ってみんなに頭を下げる。
「大丈夫だよ」
波瑠は、全てを包み込むような優しい声で、そう言った。
「辛い時は頼ってよ。その代わり、私も頼っちゃうからっ」
そう波瑠が明るく言ったことで、徳良が若干泣きそうになっている。
「そうだよ、そんな時もあるよ」
「大丈夫だって、気にすんな」
私と優斗もそれぞれ声をかける。
「これ、徳良が作ったの? 徳良って料理できたっけ?」
波瑠が不思議そうに言う。
「なんか、このままじゃいけないなと思って。俺結構アウトドア派だったから、家の中でもできる何かにチャレンジしてみようかなって。たまたま家に料理本があったし、甘いものは好きだったから、お菓子作りでもしてみようかなって作ってみた。実際作ってみたらさ、なんか無心になれると言うか、そういうのも心地よくて、ハマっちゃったんだよね」
「そうなんだ!」
波瑠が答える。スルッとリボンをほどいて、優斗が一つ口に入れる。
「んんまっ。」
優斗がそう言うと、
「国産小麦とか、バターとか、材料にこだわってるからかな?」
と照れたように、徳良が説明する。
続いて、私も波瑠も食べる。
「ほんと美味しい! お店のより美味しいんだけど!」
思わずそうコメントしてしまうほど、本当においしすぎた。
「これ何杯でもいけるわ!」
そう言った波瑠に、
「何杯ってご飯じゃないんだから」
そうつっこみながらも、徳良が嬉しそうに眺めている。
あぁ。良かった。
こうして、楽しい縁日は、ホクホクした感じで幕を閉じた。
気づけば、外は真っ暗だった。校内は意外と街灯が少なくて、道も暗さでわかりづらい。
「さすがに遅いし、今日は駅まで送ってくよ」
普段は正反対にある駅を使っている優斗が、そう言ってくれた。
「じゃっ、私たちはこっちだからまたね〜!」
「今日はありがとう〜!」
波瑠と徳良がそう言って、2人とは解散した。
少し寒さが出始めるこの時期は、私はあまり得意ではない。昔から寒くなり始めは、なぜか心がキュッと寂しいような、そんな感覚に囚われるから。だからこんな季節に一人で歩かなくていいのは救いだった。それに、今日はあまりにも楽しかったから、いつも感じる寂しさもなくて、心が温かく満たされている感じがした。少し涼しい空気は呼吸がしやすくて、夜の濃度が濃い気がする。
「あーー楽しかった。みんなで楽しめたらいいなと思ってたけど、結局私が楽しかったわ」
そう私が言うと、
「月がとっても青いなあ」
突然、空を見上げて優斗がそう言った。
「え?」
私は見上げるけど、その満月は、全く青くなかった。もしかして、優斗は視覚に異常があるのだろうか。
「月のオーラが青いとか、そういうこと?」
「いや、俺オーラとか見えないし。でもオーラが見えたとしたら、美羽は純白だな」
「え?」
白じゃなくて、純白という言葉遣いに、少しドギマギしてしまう。
「じゃぁ優斗は?」
「んー黒かな」
「そしたら、二人足して割ったらパンダになるね!」
なんとなくそう言って、二人を足すっていう言葉を耳から聞いた時に、足すとか何か足されたいみたいじゃん。なんて思って、慌てて、
「今日は数学で、計算ばっかりしてたから」
なんて、さらに追い打ちをかけるように、足すという文字を意識しているような言葉を付け加えてしまった……。私何をしているんだ……。
「それにしてもパンダって、可愛くて強そうだから最強だよね」
と全然違う話に持っていって
「そうだね」
と優斗が言った後、沈黙が流れた。
あまりにも長い沈黙に、美羽は耐えきれなくなりそうになりながらも、やっぱりこの森の道は、いつ通っても癒されるなと感じていた。
「月がとっても青いなあ」
もう一度優斗がそう言う。
「ん〜。ちょっとよくわからないなぁ」
そう言いながら、優斗の視覚の問題を、本気で心配する美羽であった。
≪優斗:優斗節、炸裂!≫
思いがけないことが起こりすぎた日だったからか、時々タガが外れてしまった。普段はあまり自分から主張することはないのに、美羽のイヤリングを徳良がもらっているのを見たら、どうしても欲しくなってしまった。
しかも、その後、イヤリングつけてとか言っちゃったんだよなぁ……。俺、ほんと何言ってんだよ……と思い出して、恥ずかしさでうずくまりそうになる。美羽にイヤリングつけてもらえるとか至福の喜びすぎるけど、きもいと思われたらいやだな、と思って全力で隠そうと努めた。でも、付けた後に美羽がすぐ逃げちゃったから、ドン引かれたのかもしれない。正直、嬉しすぎて、もうこれ一生外せないわとか思ってたけど、調べたらシルバーは水に弱く、錆びるとか書かれていた。シルバーのアホーー。いや、シルバーが存在してくれてなかったら、付けてすらもらえなかったけど……。複雑だわ。仕方なく、水を使う時は脱着することにした。残念無念。
自分の行動に、キモがられてたらやだなと思いつつ、帰りに話していた時の美羽は普通そうだったからよかった。美羽がみんなを喜ばせながら、
「結局私が楽しかったわ」
と笑顔でそう言っていたのが、俺にはとても眩しく見えた。二人足してパンダとか言われたときには、俺変なこと考えるなよ……。と全力で理性を強めた。それにしても、パンダ耳とか美羽が付けたら似合いそう。可愛いだろうな。って、ダメだ。最近、完全に思考回路がおかしくなってる……。
美羽はやっぱり夏目漱石には詳しくないか。というか、回りくどすぎる言い方をしたから、わかるものもわからないか。月が綺麗ですねって言って、今までの関係性がもし壊れることになったら……そう思うと、その言葉はどうしても言えなかった。だから、月がとっても青いなあ、が今の俺に言える最大限だった。まぁ、別に焦って今言うことでもないし。それに、ただ純粋に親切にしてくれてると思われてるのに、今は別の感情があることを知られたら、嫌われるかもしれないし。確かに最初は親切心というか、過去のフラッシュバックから自分に何かできないだろうか、という気持ちだけだったけど。回りくどい言い方をしたけど、ちょっとでも伝わればいいなぁ。
≪優斗:耳障りな音≫
世の中に不穏な足音が聞こえ始めたのは、凍えるような寒さを感じるようになってからだった。
それは、ヒッチコックの映画で、バイオリンがキッキッキッキッと、神経を逆撫でる音にとてもよく似ていた。どこからともなく響くその音は、じわじわと染み出して世の中を覆っていった。
突然、謎の呼吸器病が流行るようになった。それは、三週間くらい夜もぐっすり眠れないほど酷い咳がでて、さらに完治しても十歳くらい見た目が老けてしまうという新種の病気だった。感染するとどんな症状が出るかはわかってはいたが、対処法がはわからず、世の中は一気にパニックへと陥った。
謎の流行り病が発見されてから一か月程たったある日、
「ドクダミの香りが、この病気の菌を殺す効果があることがわかりました」
というニュースが流れた。ただし、生きたドクダミ、もしくはかなり新鮮なものでないと、菌を殺す成分が葉から出ないので、実際にドクダミを使用した治療は、現段階では困難と思われます、とのことだった。
この発表を機に、ドクダミの葉っぱが物凄い高値で取引されるようになったが、ドクダミは切り取ってから二日間しか有効ではなかった。
このニュースが出てから、今までは、存在そのものを記憶から抹消していた美羽のことを、クラスメイトが思い出すようになった。
「そういえば、昔、美羽って、斉郷が好きとか言ってたよね。斉郷がクラスに戻ってきてとか言ったら、戻ってきてくれるんじゃない?」
奈々恵と呼ばれているその女は、大きな声で話していた。
たまたま耳に入ったその言葉で、心がズキっとした。美羽は、斉郷とかああいうのが好きなのか。明るくて、周りに人がたくさんいて、俺とは正反対の人種だ。
もやもやを抱えながらも、翌日の放課後、図書室に本を返してから、美羽の教室に向かったら、ちょうど、誰かが教室に入っていくのが見えた。
徳良かなと思ったが、それは斉郷だった。
「俺、前から徳田さんのこといいなって思ってたんだけど、色々急なことがあって、別の教室で勉強するようになって、あんまり関わることがなくなってたんだけど、改めて徳田さんのことが好きだから、俺と付き合ってくれませんか?」
斉郷がそう言っている声が聞こえた。
これ以上、聞きたくなかった。俺はぎゅっと苦しくなる心を打ち消すように、その場から全力で走り去った。
≪美羽:青天の霹靂≫
その日の放課後、珍しく徳良は図書室にいくから、と言って早々に教室を出て行った。お菓子作りが順調らしく、家にないレシピも調べたいから、学内の本を探してみると言っていた。
その後ドアが開いたので、優斗が来たかなと思って目をやると、そこにはなぜか斉郷君が立っていた。
「久しぶりだね」
そう言って、少しだけ教室の中に入ってきた。それでも、すごく距離のある場所に立っている。なんだろう。怖い。斉郷君の言葉に、返事ができなかった。
「俺さ、前から徳田さんのこといいなって思ってたんだけど、色々急なことがあって、別の教室で勉強するようになって、あんまり関わることがなくなってたんだけど、改めて徳田さんのことが好きだから、俺と付き合ってくれませんか?」
何の前触れもなくそう言われて、頭の中が真っ白になった。え? 何が起こっているのかわからなかった。そもそも、私はこの人とほとんど話したことがない。ふいに優斗のことが頭に浮かんで、打ち消した。気になる人に思いが届くわけないけど、だからと言って、好きでもない人と付き合おうとなんて思えなかった。
「ごめんなさい。付き合えないです」
一生懸命、声を絞り出した。
「チッ」
大きな舌打ちが聞こえた。聞き違いかと思ったけど、斉郷君の綺麗な顔は、醜く歪んでいた。
「あのさぁ、俺が本気でお前みたいなバケモン、好きになるとでも思ったの?」
私から二メートルくらい離れたところにいるのに、怒鳴った声が大きくて、足がすくむ。
「この俺が告ってるのに、何様なの? あーイライラする」
こんな斉郷君を見たことがなかった。綺麗な鷲鼻で、ノリが良くて楽しそうにしているのしか見たことがなかった。少しずつ近づいてくる引き締まった大きな図体が、何か別の生き物のような不気味さを漂わせてる。怖い。
「お前みたいなのと付き合ってくれるの、俺くらいしかいないだろ。みんな世の中が困ってるときに、自分の持ってるもの出し惜しみして、なんなんだよ。ただの迷惑な奴でしかないじゃん」
ああ。その言葉を聞いて、ドクダミのことで近寄ろうとしてきたことがわかった。突然髪の毛をガッとつきまれて、ドクダミのツルを引き抜こうとされたところで、後ろのドアがガラッと開いた。振り返ると、波瑠が立っていた。
「やめなよ、そういうの」
教室が静まり返る。波瑠の足は、小刻みに震えていた。
「うるせー、お前には関係ないだろ」
そう言いながらも、斉郷君は私から手を離した。
「私、録画しといたから。出るとこ出てもいいんだよ。」
そう強い声で波瑠が言うと、急に斉郷君の顔がひきつった。
「もういいわ」
そう言って、斉郷君は前のドアから走り去っていった。
私はその場にヘナヘナと座り込む。涙が止まらなかった。酷いことを言われて、でも言われた酷い言葉もきっと本当のことなんだろうと思えて、そのことも辛かった。なにより、ただただ怖かった。そんな私のところに波瑠は走ってきて、何も言わずに抱きしめてくれた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
「あれ? 二人ともどうしたの?」
のんびりとした声でそう言いながら、徳良が教室に入ってきた。
「ううん。何でもない」
と私がいう。波瑠は
「ちょっと、美羽が体調悪いみたいで」
そう言ってくれた。
「相当悪そうだね」
徳良が言う。
「今日は、私、美羽に付き添うよ」
そう言った波瑠に、
「俺もカバンくらいなら持てるから、一緒に駅まで行こうか」
そう言って、徳良は私のカバンを持ってくれた。
帰り道は、始終無言だったけど、気遣ってくれているのを感じた。ただそこにいてくれている温かさが心地よくて、私はまた泣きそうになった。
翌朝、目覚めても学校に行く気が起きなかった。何もする気が起きない。体調が悪いからと、学校への休みの連絡をお母さんにお願いした。ベッドの中で、声を押し殺して泣いた。気づけば疲れ果てて寝てしまい、今が昼なのか夜なのかもわからなかった。でも、お腹だけはすいたから、お母さんがドアの前に置いておいてくれていたおかゆを食べた。
波瑠からは連絡が来たけど、スタンプしか返せていない。
≪優斗:撤回しろ≫
プリントを渡さないで帰ってきてしまったな……。
正直、自分がここまで動揺するなんて思ってなかった。徳良が来て、美羽が徳良と楽しそうに話している時はちょっと複雑な気持ちになったこともあったけど、今回は、ズーンと持ち上げられない石が心の中に沈み込むようだった。
美羽が好きな人が、美羽を好きなんて……。美羽が自分の世界からいなくなるなんて、今まで考えてもみなかった。もしもそうなったら……そう考えると、苦しくて仕方がなかった。毎日会って話して。それが当たり前になっていたから、それがなくなる時が来るなんて、想像もしていなかった……。
全然眠れない夜を過ごし、翌日プリントを一時間目に届けにいったが、そこに美羽の姿はなかった。体調が悪いのだろうか。そう気になってた時に、自分の教室内で耳をつんざくような、音を聞いた。
「おまえ、昨日、徳田に告りに行ったんじゃなかった?」
そう言われた斉郷が、
「誰があんなバケモン好きになるかよ。半径三メートルも近寄りたくないわ」
と言ったので、怒りに震えた。
「あんなキモいのに、本気で告白するわけないじゃん。俺、流行り病にかかりたくないだけだったし」
その言葉に、我慢できなかった。
「撤回しろ」
そう言って、斉郷の胸ぐら掴む。
「は? 何熱くなってんの? 本当のこと言っただけじゃん。あれはバケモンでしょ?」
ニヤッと笑った斉郷を、思わず俺は殴ってしまった。人生で初めて人を殴ってしまった。
「言ったことを撤回しろ」
もう一度そういうが、斉郷はやれやれという顔をして
「お前には関係ないだろ」
と言いながら、俺の頬を殴った。殴って殴られて。痛みを感じながら、美羽は、今までどれだけの痛みに耐えて生きてきたのだろう。そんなことを思いながら、どうしようもない気持ちで、心も顔もぐちゃぐちゃになった。
結局、担任が止めに入り、俺はめでたく自宅謹慎処分になった。担任から何を聞かれても、何も話す気になれなかった。
自宅に帰り、心がまるでないような、警報音に近い電話音が鳴った。息を殺して聞き耳を立てる。母親が、
「はい、申し訳ございません……」
といった後も、何かを話している。少しして、電話が切れた音がした。
「優斗がグレてしまう日が来るなんて……」
母親がそう嫌そうに言った声が聞こえた。わざわざ声に出さなくていいのに。
「あ、もうこんな時間。約束のミュージカルに遅れちゃうじゃない」
そう言いながら、バタバタとうるさい音を立てた後、お手伝いさんが鍵をガチャリと閉めるのが聞こえた。
「はぁ」
大きなため息をつきながら、ベットに寝転がり、天井を見る。
人の悪意は、どこからやってくるのだろう? それは、動物的な本能なんだろうか。弱肉強食で、人を引きちぎってでも優位に立ちたいというプログラムが、人間の中にはあるんだろうか。それとも、ただ何も考えていないだけなんだろうか。これを言われたら、相手はどう思うか。そう考えることがごっそり抜け落ちているだけなんだろうか。もしくは、酷いことを言う人間は、自分が言われても、悲しくも痛くも痒くもない、鋼のメンタルだから、人が悲しむ可能性すらわからないんだろうか。どうして、殴られたら誰でも痛いのに、心の中になると、途端にそれが曖昧になるんだろう……。
「はぁ……」
再び、大きなため息をついた。答えのない問いで、空中が埋め尽くされる。もし、俺の人生で苦しみを感じる状況がなかったら、平気で人を傷つける言葉を吐いていたんだろうか。基本ネガティブに捉えがちだし、それも全然あり得るよな。仮に、苦しみを感じる状況でも、その鬱憤のはけ口として、誰かを攻撃するような行動を取っていた可能性だって、ゼロとは言い切れないだろうし。分かり合えない人も、実は自分と紙一重で、自分の人生で別の選択をしていたら、今の自分とは分かり合えないような自分になってたかもだよな。ていうか、今だって自分が気づいてないだけで、人を傷つけることを無意識のうちに言ってるかもだし……。あーー。俺どうすりゃーーいいんだよ……。
今朝、体調悪いみたいだけど大丈夫? と美羽に連絡してみたが、それに返信が来ることはなかった。
≪斉郷:どん詰まりの先に≫
俺の言葉に三浦が突っかかってきて、喧嘩が始まった。誰が呼んできたのか、気づいたら担任が俺たちを止めに入っていた。事情を聞いてきた担任に、先に問題を起こしたのは三浦だったと誰かが言ったことで、ひとまず三浦は担任に連れて行かれることとなり、俺は保健室に行くように言われた。
「とりあえずここに座って」
保健室に着くと、ソファーに座るように促された。てきぱきと、傷口を手当てしてもらっている間、空間には少しの作業音と、消毒液の香りだけが漂っていた。俺が手当てしてもらっていていいのかわからないまま、ただただされるがままにじっとしていた。
一通り手当が終わった後、
「何があったの?」
と聞かれた。でもそれは、責めているような口調ではなくて、まるで朝ごはんは何を食べたの? というような、どこか長閑な雰囲気が漂っていた。そのトーンが、かえって俺をいたたまれない気持ちさせる。
「俺が悪いんだ。俺が、徳田さんのことバケモノとか言ったから……」
そう言ってうつむいていると、
「そう」
ベテランのおばあちゃん先生はただそれだけ言って、温かいお茶を用意してくれた。
「本当はダメなんだけど、お食べ」
そう言って小さなお饅頭も出してくれた。お茶を飲んでホッとして、あんこのお饅頭を食べたら、何も考えてないのに、気づいたら涙が頬を伝っていた。あれ? 俺何で泣いてるんだ……。そう思ったのも束の間、涙が止まらなくなった。おばあちゃん保健師の先生は、うんうんとニコニコしてうなずきながらティッシュを差し出すだけで、何も言わずにそばにいてくれた。聞かれてないのに、誰にも言えないことを気づけば話していた。
「俺、本当は別に徳倉さんのことを、バケモノとか思ってないんです。元々第一印象で、小さくて明るくて可愛らしくて、なんかわからないけどいいなって思ったんですよ。でも、徳倉さんが病気になった時は、正直かわいそうとしか思わなくて。だからといって何をするわけでもなく、何事もなく日常を過ごして忘れていったんです。そこから、最近色々あって……。
俺、時々すごく暴力的になってしまうことがあるんです。何がトリガーかはっきりわからないんですけど、どうも自分が危機だと感じた時、それを認識するよりも先に、手とか言葉が出てしまっている気がしていて……。そういう暴力性が、昔から俺にはあると思うんです。それは自分が認識するよりも早く動いている。危機を感じたと認識するよりも先に、動いていると思うんですよ」
少し間が合った後、
「偉いねぇ」
と思いがけない言葉が聞こえて、思わず耳を疑った。
「俺の暴力性がですか? そんなはずないでしょ」
「いやいや、斉郷君は、なぜ暴力性が出てしまうのか考えて、観察して、自分でそこまで原因を突き止めたんでしょう? 自分の悪いところを、ちゃんと疑問視して、向き合って、だからこそ見えてきたんだよねぇ。それは、誰にでもできることじゃないよ。偉い偉い」
そう言って、サッともう一つお饅頭を差し出してきた。まだ隠し持ってたんだ……。そう思いながら、口へ頬張ると、やっぱりうまい。
「今の話から、もう対処法は見つかっているんじゃないかな?」
「へ? でも自分が危機を認識するよりも先に、手や口が動いてるんですよ?」
おばあちゃん先生が、ゆっくりとお茶を啜る。
「まぁ、自分で考えた方が納得いくと思うけど、参考までに正解かわからない私の意見も聞いておく?」
「はい」
俺は柄にもなく素直に返事をした。
「今聞いた話だと、私が思いつく範囲でもいくつか対処法がある気がするねぇ。
まずは、危機と感じてしまう状況や、心理状態を作らないってことかもねぇ。本能的に動くってことは、大袈裟に言えば、生命の危機と体や脳が認識してしまう状況なのかもしれない。自分で、そういう状況を作り出さないように工夫することは、できることの一つかもしれないねぇ。
あとは、同じ状況でも、色んな見方ができるでしょう。だから、その状況をいかに良い形に向かうように捉えていくか、その都度考える、という方法もあるかもしれないねぇ。嫌なことに遭遇してしまった時に、何か学べることを見つけるとか。
あとは、さっきとは全く違う視点で、物理的に体を動かせないようにすることも可能そうだよねぇ。」
「へっ? 自分を縛り付けるとか?」
「いやいや、そんなのじゃなくて。例えば、ゆっくり息を吸い続けるとか。深く息を吸いながら酷いことを言うのは、かなり難しい上に、滑稽な気もするよねぇ」
「確かに」
「それに、深く息を吸い続けながら殴ったりもできなそうだよねぇ。だから、心がざわっとした時には、ひとまず限界までゆっくり息を吸って、もう吸えないってところで吐ききったら、また限界まで息を吸うのを繰り返す、っていうのを試してみてもいいんじゃないかな?
まぁ、結局私には本当のことはわからないし、ただの仮定の話だけどねぇ」
そう言って、おばあちゃん保健師さんはゆっくりとお茶を啜る。
「なーーんて、偉そうに持論を語っていても、私は昔から暴風雨に飲まれやすい体質でねぇ。それが外から来るのか、中から来るのか、はたまた両方なのかは、相当見える目じゃないと分析できないもので、私には正確にはわからないんだけれど。
私はね、昔呼吸器が弱って体もボロボロになって、色んなことが八方塞がりになって、何もかもが嫌になって逃げ出した時期があったんだよ。嫌なことを全部やめて、独りで森の家に引きこもって。勝手でしょう。あの時は楽しかったなぁ。将来の不安や、過去にされたこと、行ってしまったことの走馬灯にも、なぜか飲まれたけどねぇ。でも人の念が無い本当の静寂の中で、色々と考えられる時間が心地よくって。
その時にね、望ましくないことが起きて、心が飲まれそうな時についても考えたんだよ。それで、望ましくない出来事の中に、真実がわからない部分があるとして、わからないからこそ自分で無限の可能性で捉えられる部分を、親切な見方の想像力で補うってことを試してみたの。そうしたら、自分の中から不思議と不安感が消えていって、自然と呼吸が深くなることに気がついて。その時に、見えない部分を補う妄想は、別に真実じゃなくてもいいと思ったの。例えば、実はその人も大変だったのではないかとか。自分が大変だった時を想像して、実はそういう状況下にあったのかもしれないな、とか。あとは、私も色んな間違いをしてきているから、そうなってしまうこともあるよねと思うとか。別の方向性なら、さっき言ったように、嫌なことから学んでしまう、例えば、自分はそうはしないようにしようとか。色んなパターンがその都度考えられると思うけれど、結局自分の気持ちが暴風雨から出られる妄想なら、なんでもいいって私は考えたんだよねぇ。そんな乗り切り方も思いついて。世紀の大発明でしょう」
そう言って、ニヤリと得意げにおばあちゃん先生が笑った。
「とは言っても、人の頭の中はわからないから、実はそんなの、みんなにとっては当たり前のことで、むしろ日常的にそうしている人が大半なのかもしれないけれど。でも少なくとも、私には当たり前にできないことだったんだよねぇ。だから、私にとっては発明かな。ふふふ。
まぁ、今となっては、暴風雨の経験自体も無駄だったとは思わないけどねぇ。
それに、例え何かの出来事が悪い方に転がったとしても、親切な捉え方をした人がそんなに酷い状況に陥るとは、私には考えにくいんだよねぇ。なーんて、ストレスを感じるとすぐ食に走る私が言えることじゃないわねぇ。
まぁ、何がいいのか、何をいいと思うかは人それぞれだろうから、結局はその人が考えて日々選んでいくんだよねぇ。
なんか昔のことを思い出しちゃったわ。長々と話して悪かったわね。まだお若いんだから、存分に旅をしなさいな。あなたなら大丈夫よ。
あらっ。食べ忘れてたけど、お饅頭美味しいわねぇ。オホホ」
そう言って、さらっと一つ、自分用にお饅頭を取り出して食べている。
呑気なのに、どこか的を射ているような気がする。一見、人が好きそうで、のほほんとしているように見えるおばあちゃん先生も、実は色々とあったのかもしれないなと、なんだかしみじみしてしまった。
「あれ? 俺の分は?」
「もう二つ食べたでしょう? というか、斎郷くん、話聞いていた?」
困ったように笑いながらも、サッともう一つ出してくれる。
「食べながらの方が、話を消化しやすいんだよ」
適当な理由をつけながらも、さっき言われたことを忘れないようにそっとメモをした。
「なんか元気になったから、俺早退するわ」
「ホイホイ。ってえ?」
その言葉を背中で聞きながら、手を上げてひらひら振り、
「今日来れてよかった。ありがとうな、せんせっ」
後ろを振り返らないままそう言って、扉を引いた。廊下から差し込んだ光は眩しくて、踏み出した足は痛いはずなのに、なぜかいつもより軽く感じた。
≪美羽:私にできること≫
休んだ翌日の土曜日、また波瑠から連絡が来た。そろそろ徳良が誕生日だから、明日の日曜日に一緒に誕生日プレゼントを考えてくれないかな? とのことだった。正直、今の私にそんな気力はなかった。でも、いつも優しくて良くしてくれる波瑠のお願いなんだから、私にできることなら力になりたいと思った。結局、日曜日は波瑠が私の家に来てくれることになった。
寝てばかりもいられないな。そう思って、重たい体をのっそりとベッドから起き上がらせ、靴下を履き、カーテンを開けた。ま、眩しい……。久しぶりのお日様は、沼地にいた私にはちょっと強くて、目を細める。虫眼鏡を通して絞られた光のように、心臓がじりじりと焼かれる感じがする。ふーー。大きく息を吐きだす。
ひとまずお水が飲みたい。そう思って、ドアの方に歩き始めると、見た目はただのフローリングなのに、靴下越しに、なんだかねばねばした空気がまとわりつく。うわっ。そう思って、急いで窓を開ける。この現象は、ドクダミ病とは関係なく、昔から起きる。自分が堕ちていたり、気分が上がらなかったりした日の翌朝、それは時々起きている。意外と自分でも堕ちているのに気づかない時でも、朝起きて床がねばねばしてて、あ、今まずいな、と気づく時もある。自分で実験して分かったことは、このねばねばは、空気を流すだけでは治らない。掃除機をかけると若干は良くなるけど、治りはしない。色々と試した結果、唯一、水拭きをすれば一発で治ることに気づいた。
しかたない、床を水拭きするか。今、私にだけ重力が3倍くらいかかっているんじゃないかと思えるほど、重たい心と体を動かしながら、なんとか水拭きを終えた。そういえば、小学校で、雑巾で水拭きする掃除があったけど、理にかなってたよな、なんてぼんやりと考える。ちなみに、実際に床を拭いている時は、物理的なぬめりはない。水拭きを終え、無事、歩いても空気的なぬめりもなくなり、心なしか重力も減った気がした。
さっきまでの部屋に波瑠を呼んでたら、波瑠によからぬことが起きてそうだったよな。危ない、危ない。気づいて良かった。そう思いながら、その足で緑茶を入れにいく。お茶っ葉にお湯を注いでいるときに感じる、ほのかに苦みがありつつ、それでいて爽やかな香りにホッとする。私はこの香りが大好きだ。さて、徳良に良さそうな誕生日プレゼント案を、私も考えるとするか……。
ピンポーン。日曜日になり、波瑠は、わざわざ遠くから家まで来てくれた。普段見慣れない私服姿に、大人っぽさを感じる。
「美羽、調子はどう?」
そう言って、波瑠が部屋に入ってくる。
「ぼちぼちかな」
私はそう言いながら、波瑠が座れるように、ローテーブルの横にクッションを置いた。
「そうか」
そう言いながら、波瑠は持ってきた紙袋の中から、白い箱を取り出した。
「見てみて、これかわいくない?」
そう言って机に乗せた箱から出てきたのは、長方形で、天の川銀河のような、綺麗な何かだった。
「うわーー! なにこれ! かわいい!!」
先程までぐったりとしていたのに、現金なもので、あまりの可愛さに思わずテンションが上がってしまった。濃紺から青、半透明と変わるグラデーションの中に、カラフルな星や金箔がちりばめられている。見るだけでキュンとするような綺麗さに、思わずワクワクする。
「これ羊羹なんだって」
波瑠がそう教えてくれる。
「すごいね! こんな羊羹あるんだ! 可愛すぎる! なんか食べるのもったいないな~。ずっと飾っておきたいくらい~!」
「えーー、一緒に食べようよ」
不服そうに波瑠が言う。
「うーーん、もうちょっと鑑賞させて」
そう言いながら、私は写真を撮り始めた。
「波瑠も入って」
「いや私はいいよ」
波瑠はそう照れながらも、笑顔でピースしてくれた。ふさぎ込んでいた気持ちが、波瑠の登場でコテッとひっくり返った。
散々鑑賞した後、せっかく波瑠が持ってきてくれたからと、名残惜しみつつ結局一緒に食べたら、これまた美味しかった。
「うわ~見てよし、食べてよしとか最高だね。ほんと癒されるわ~。波瑠ありがとうね」
私はそう言って緑茶も飲みながらうっとりしていたが、そういえばと本題を思い出した。
「そうだ! 波瑠は、徳良の誕生日の相談で来てくれたんだよね!」
「う、うん」
波瑠はイェスともノーともつかないような、曖昧な返事をしたように見えた。それでも、相談があるなら、その相談をちゃんと聞かなくては、と思った。
「そういえば、波瑠と徳良は、いつから仲良しなの?」
「小学校二年生くらいの時かな。徳良は、それまで親の都合で海外にいて、帰ってきて同じ学校になったんだけど、その時徳良は日本語があんまり上手くなくてさ。
で、私はこっそり漫画を図書室に持ち込んで読んでたんだけど、たまたまそれを徳良が見つけて、それ何? って聞いてきて。
『先生には黙ってて。』
『なら読ませて。』
って話になって、漫画を貸すようになって、なんだかんだ仲良くなって今に至るって感じかな。
徳良はさ、いつもニコニコしてるけど、病気になった時も、辛そうな雰囲気はあるのにニコニコしたりしてるの、少し気になってたんだよね。陽気なようでいて、あまり自分の感情を表さずに、全部自分で抱え込んじゃうみたいな、そういう部分もあって。だから、本人が話したくなければ話さなくていいと思ってたんだけど、この間のことがあって、驚いたけど辛さを吐き出せてよかったなって思ってて。一人で負うには重すぎるものを、そばにいることで、ちょっとでも私が吸収できないかな、とか最近は思うんだよね。なーーんて、ほんとくだらないよね。」
波瑠は、少しため息をついてうつむいた。徳良と同様、いつも明るい波瑠が落ち込んでいるのを初めて見た。
「私、救われたよ」
え?という表情をして、波瑠が顔を上げる。
「この間、私が大変だったときに波瑠がそばにいてくれて、救われたよ。もしあの時波瑠がそばにいてくれなかったら、今こうして話せていないかもしれない。波瑠の優しさは、とっても温かくて、ちゃんと伝わっていたよ。徳良にも波瑠の優しさは絶対に伝わってると思うよ」
「美羽、ありがとう」
そういって、波瑠は温かい緑茶が入ったマグカップを、両手で大事そうに包みこみながら飲んだ。
「美羽はさ、徳良のプレゼント、何がいいと思う?」
気持ちが切り替わった表情で、波瑠が聞いてくる。
「私は、この病気になってからやたら喉が渇いてお水を飲みたくなるから、たくさんお水が入るタンブラーとかいいんじゃないかなと思うよ」
「そうなんだ! 喉が渇きやすいとか全然知らなかったから、聞けて嬉しい!」
それから、ネットでそれぞれタンブラーを探し始めた。
「タンブラーも色んなのがあるんだね。あ、これ可愛い!」
そう言って波瑠が見つけたのは、中心が濾過装置になっているタンブラーだった。水を濾過する石が中心にあって、その中に水晶も含まれていると書かれていて、石の中で水晶らしきものがキラキラときらめいていた。
「いいね! 男の子だと、タンブラー自体の色が紺色だけど、中が透けて見えるこれとか良さそうじゃない?」
そう私が指さすと、
「いい! いい!」
と波瑠がノリノリで言う。
「そういえば私、昔本で読んだことがある。水晶って、情報を記録する装置でもあるんだって。だから、色んな思いも記憶するみたい。」
と私が伝えると、
「へーそうなんだ! 不思議だね。じゃぁ、ありがとうと、徳良が幸せに暮らせますようにって願いを込めてから渡せば、効果あるかな?」
そう嬉しそうに頬を少し赤らめて話す波瑠は、輝いている水晶よりももっとキラキラして見えた。好きっていう思いを込めるんじゃなくて、幸せを願っちゃうようなところは、波瑠らしいな。そんな波瑠の優しさが徳良に届きますように。
こうして無事プレゼントも決まり、その日は解散となった。
翌日の月曜日から、私は学校に行くことにした。学校に行こうとすると正直吐き気がしてくるけど、もし私が行かなければ、波瑠があの時そばにいてくれたことがとても小さいことだったと言ってしまうことになりそうで、重力が五倍くらいかかっている気がするけどやっぱり行くことにした。
実際、この間の事件だけでなくて、ドクダミが流行り病に効果があるというニュースが流れてからは、電車内もかなり辛いものとなっていた。今までは気持ち悪いって避けられたり、吐きそうって聞こえよがしに言われたりとかそういう辛さだったのが、今度はそういう人たちが電車内やすれ違いざまに、頭に生えているドクダミの葉とかツルを何にも言わずにむしり取ることも増えてきた。普通にハサミで切れば痛くないけど、むしり取られると、髪の毛を束で抜かれるような激痛が走る。正直、無言でそんなことができる見知らぬ人達に会ってちょっと限界を感じていたところに、この間の斉郷君の出来事だったから、本音は行きたくなさすぎる。でも、波瑠の優しさを受け止めたってちゃんと伝わってほしいし、私も前を向いていきたい。それに、優斗にも気持ちの整理がつかなくて連絡できていなかったけど、久しぶりに会いたい。
教室で、優斗が来るのを期待して待っていたが、ガラガラと音を立てて開いたドアの向こうにいたのは、寝癖の付いた担任だった。
「あの、優、三浦君はどうしたんですか?」
そう先生に尋ねた。
「ああ、三浦は自宅謹慎になった」
そう先生が言った。
「え? 何があったんですか?」
私が尋ねると、
「ちょっと殴り合いをしちゃってな。ほんと俺もびっくりしたよ。三浦、お前が病気になった時も、プリントを渡すのを誰も名乗り出る人がいなかったら、隣だからって手を挙げてくれてさ。いいやつだと思ったんだけどなぁ」
「え? プリント届けるの、先生が三浦君を指名したんじゃなかったんですか?」
「いや、誰も立候補してくれなくて、かなり時間がたって三浦が自分から言い出したんだよ。あ、悪い。他のみんなも初めてのことで戸惑っていたんだと思う……」
ばつの悪そうに、先生はそう言った。
優斗は、自ら引き受けてくれたのか……。てっきり、無理やり押し付けられたんだとばかり思っていたから、かなり驚いた。
「ちなみに、なんで三浦君は殴り合ったんですか?」
「三浦は、何を言ってもその理由は話さなかったんだよなーー。ってなわけで、三浦が戻るまでは、俺が朝一日分のプリントを届けにくるから」
「ありがとうございます……」
優斗は大丈夫なんだろうか……。殴り合いって、怪我とかはしてないんだろうか。不安な気持ちがぐるぐると駆け巡る。
でも、私はここでめげてはいられない。
「あの、先生。お願いがあるんですけど。三浦君が帰ってくるまで、みんなのいる教室にパソコンを設置して、ウェブ会議システムを繋げておいて、授業を遠隔で受けさせてもらえませんか」
私の急な発言に、先生はうーーんと腕を組んで、首を傾けながら考えている。
「そういうのは情報漏洩とか、色んな可能性を考えて学校として決めることにはなるから、そんなに簡単に許可はできないよ。少なくとも一ヶ月くらいは検討にかかるんじゃないかな」
一か月なんて、今授業が受けられなければ意味がない。
「先生、お願いします。三浦君が帰るまでだけお願いしたいんです。パソコンも自分で用意しますし、Wi-Fiも自分で借りますし、ウェブ会議システムを使う費用も自分で払います。ノートが借りられない間、私も授業を受けたいんです。お願いします」
そう言って頭を下げた。
「まいったなーー」
そう言いながら、先生は頭を掻く。
「うーーん」
と唸った後に、先生は突然何かひらめいたような表情をして、
「徳田君、学生が知ってることで、先生が知らないことなんて、学校にきっと沢山あるよなぁ?」
と言った。
「はぁ」
「これから徳田君がしようとしていることを、先生は知らない。先生が知らないことを勝手に生徒がしていることもあるよなぁ?」
そう先生が言った。初めは何を言っているかわからなかったが、やっと先生の意図が読めてきた。
「そうですよね。ありがとうございます」
そう言って私は頭を下げた。
先生は教室を去ろうとしていたが、突然くるっと振り返り、
「あ、そういえばこれ、斉郷から」
思い出したようにそう言って、四つ折りになったルーズリーフを渡してきた。名前を聞いて、この間のことがフラッシュバックして気持ち悪くなりそうになったが、断るのもよくないだろうと思って受け取った。
「じゃっ」
と言って先生が去っていった。
こうして、自宅から持ち込んだパソコンで、遠隔で授業を受けることを許可、というか見逃してもらった。早速貯めてきたお小遣いを使ってwifiを準備し、繋げっぱなしにできるオンライン会議システムも契約した。
先生から受け取った斉郷君からの手紙は、なかなか開ける気になれないでいたが、お昼を食べて気持ちが落ち着いたときに、思い切って開いてみた。
「徳田さん
この間は、本当にごめん。
謝って許されることではないと思うけど、謝らせてください。
昔から思い通りにならないとカッとなってしまうところがあって、あんな振る舞いをするべきではなかったと反省しています。本当にごめんなさい。
謝っても許してもらえるとは思ってませんが、これだけは言っておきたくて。
お返事はいりません。
本当にごめんなさい。
斉郷」
複雑な気持ちになった。辛かった記憶がよみがえって、苦しい気持ちになる。でも、わざわざ書いてくれたんだと思った。お世辞にも綺麗とはいえない字からも、一生懸命書いた筆圧が見える。この間は、とてもプライドが高い感じがしたのに、その斉郷君がこれを書いてくれたことは、きっと斉郷君にとっては思い切ったことだったんだろう。そう思いながら、四つ折りにしたルーズリーフをカバンにしまった。
その日の夜、優斗にメッセージを送ってみた。
「何があったの?」
そう送ったら、
「うーーん、ちょっと。いない間、ノート取れなくて悪い」
とだけ返ってきた。やっぱり詳しいことは言いたくないみたいだ。無理に聞き出されるのも嫌だろう。
「それは気にしないで。それより、大丈夫なの?」
殴り合いだったら、けがもしているだろうし、体調も気になった。
「うん」
という優斗の返信に、ひとまず安心した。
「いつ復帰できるの?」
そう尋ねると、
「来週の月曜日かな」
と返ってきた。これ以上話しても、かえって疲れさせてしまうかなと思って、
「そうか。わかった。ゆっくり休んでね」
と送ってやり取りが終わった。
≪優斗:ドクダミ病になるのは、いいやつ?≫
「優斗、大丈夫か?」
月曜日の夜、徳良からメッセージが来た。
「ああ。心配させて悪い」
そう返すと、
「美羽も金曜日は休んでたし、優斗のことを今日聞いて、連絡遅くなってごめん」
と送られてきた。
「いや、全然大丈夫」
「それにしても、木曜日は、俺が放課後に図書室から帰ったら、美羽は大泣きしてるし、優斗はその翌日に自宅謹慎になったらしいし、ほんとヒヤヒヤするよ。なんかあったの?」
美羽が大泣きしていたなんて、知らなかった。
「それより、美羽が泣いてたって本当?」
そう聞くと、
「うん。波瑠から聞いた話で、波瑠も途中からしか聞いてないらしいんだけど、斉郷って奴に、かなりひどいことを言われて、挙句の果てに、髪の毛をきつく引っ張られていたみたい」
そう徳良が教えてくれた。あいつ……。
「でも、波瑠が心配して、日曜日に美羽の家に様子を見に行ったんだよ。それで、美羽も無事、今日は登校できていたからひとまずよかったよ。で、お前は何したの?」
「斉郷が美羽のことを冒涜してたから、ぶっ飛ばした」
「(吹き出しているスタンプ)まじ? やるなあ。意外だけど、俺お前のそういう所、嫌いじゃないよ」
「どうも。まあ、ボロボロにしたというより、俺の方がボロボロになったけど」
「(笑っているスタンプ)お前、わかりにくいけど、いいやつだよな」
「そういうお前も、極悪人ではないんじゃない?」
俺がそう送ると、
「え、何その扱い、酷いんですけど(泣きスタンプ)」
と返ってきた。
「w」
徳良は、一見軽そうに見えるけど、いいやつだ。ドクダミ病っていいやつがなるのかな。
≪美羽:出陣≫
火曜日の朝早く、誰もいない時間を見計らって、元いた教室にパソコンを設置しに向かった。パソコンは、周りからは見えないように、段ボール箱に入れておいた。カメラとマイクとコンセントだけはちゃんと使えるように、その部分だけカットしておいた。一応、段ボールの表面には「触るな危険」とも書いておいた。
位置を定めて、段ボール箱をガムテープで固定して、これで大丈夫だ。そう思った時に、ガラッと後ろの扉が開いた。
こんな早朝に人が来ると思わなかった……。終わった……。
そう思ってドアを見ると、おさげにメガネをかけた女の子がこちらを見ていた。
どうしよう。この間のこともあって、人が怖い。逃げないと……。
そう思いながらも足がすくんで動けないでいると、その子が
「徳田さん……だよね?」
と言った。怖くても、無視するわけにもいかず
「はい」
そう言って、うつむく。その瞬間、
「ごめんなさいっ」
と聞こえて、驚いてその子を見ると、深々と頭を下げていた。何が起きたかわからずにおろおろしてると、その子は頭を上げて、話し始めた。
「私、徳田さんが病気になった時に、プリントを持って行ってくれる人? って先生が言った時も、私が出しゃばるのも良くないとか思って、でも本当は目立つのが怖かったのもあって、俯いちゃってたんだ。それに、病気がわかってから、教室でも結構きつい言葉とか飛び交ってたのに、私、何もできなくて……。勇気がなくてごめんなさい。
改めて、新たな流行病が蔓延し始めた時に、私、病気にかかるってこんなにも怖いことなんだなって思ったの。でも、徳田さんは、誰もかかったことのない病気に一番最初にかかったんだよね。それって、どんなに心細かったんだろう、どんなに辛いことだったんだろうって。ドクダミの話がニュースで出てきてた時に、ふと考えてたんだ。きっとただでさえ病気にかかって徳田さんはきつい状況だったのに、結構酷い言葉も飛び交っていたでしょ。そんな時に、見ないふりをした自分が、本当に嫌だなと思ってて。だから、本当にごめんなさいっ」
そう言ってまた頭を下げた。
急な言葉に、私はおろおろと手を振る。
「いや、そんな。この病気って見た目も不気味だし、ドクダミ臭もきついし、仕方ないよ。でも、なんか、酷い言葉じゃなくて、そういう言葉を人からかけられることは、この病気になってからほとんどなかったから、今すごく嬉しい」
そう正直に伝えると、
「ほんとごめんね」
と、申し訳なさそうに、再度謝ってきた。
「そういえば、今日から教室に戻ってきたの?」
「いや、優、三浦君が今お休みだから、その間だけ授業を受けられるように、この箱を置かせてもらいたいなって……」
「そうなんだ。授業を受けるのに大事なものなんだね。これこのまま置いておくと、なんだろうって男子とか勝手にいじり始めそうかもね。ん~、もし良ければ、私、科学部だから、科学部実験中。神崎って書いておこうか?」
「いいの? それはすごく助かる! ほんとありがとう」
まさか、こんな助っ人が現れるなんて考えもしなかった。
「こんなんじゃお詫びにならないけど。誰か触ろうとしたら、注意しておくね」
「ほんとありがとう」
そう答えつつ、長居をしていると、誰か来てしまうんじゃないかとソワソワし始めた。
「私そろそろ行かなきゃ。多分一週間くらいで、人がいなさそうで回収できる時に回収に来ると思う。それまで、よろしくお願いします」
そういって頭を下げたら、
「了解です!」
と神崎さんは笑顔で答えてくれた。
私は自分の教室にそそくさと戻った。神崎さん、初めて話したけど、良い人だったな。私、今まで気づかなかったけど、酷い言葉って音になって届くから、まるでみんながそう言ってるように聞こえたけど、そもそも酷いことを言っていない人だっていたんだよね。静かに何も言わないで、でも心の中で優しさを持っている人だっているんだよね。喋らない声って聞こえないからわからないけど、きっと、あの時も、みんながみんな酷いことを言っていたわけじゃなかったんだろうな。当たり前のことかもしれないのに、そんな当たり前のことを気付かないで、私は嫌な音ばかりに注目して、落ち込んでた。届く声の背後に、届かない声は沢山あって、それは優しい音かもしれないんだな。そう思ったら、少し視界がひらけた気がした。勇気を出して神崎さんが伝えてくれたから知ることができて、ほんとありがたいな。
朝からホクホクした気持ちになった。
早速帰宅後、このことを優斗に連絡した。神崎さんが話しかけてくれて仲良くなれたこと。聞こえることばかりに気を取られて、聞こえない優しさに気づいていなかったこと。そうしたら、
「よかったな」
と優斗から返信がきて、
「人間万事塞翁が馬みたいなのかもな」
と言われた。古文みたいな言葉に、
「何それ?」
と返信したら、詳しく教えてくれた。
「簡単にいえば、人の幸、不幸は予測するのは難しいってことかな。一見、幸運に見えることも実は不幸だったり、不幸に見えることも、実は幸運に繋がっていたり。
この言葉ができた元のお話としては、おじいさんの馬が逃げたんだけど、数ヶ月後に、その馬が、別の足の速い馬を連れて帰ってきたんだよ。つまり一見不幸だったことが、ラッキーになったんだ。そしたら、今度はおじいさんの子どもが馬から落ちて、骨折しちゃうんだよ。不幸が起きたと思うじゃん? でもそのおかげで、その子どもは兵役を逃れて命が助かった。これも、一見不幸なことが起きたけど、実際は幸運に繋がってたんだよな。
正直、美羽の病気の大変さを本当に理解することはできていない中で言うのは、軽い感じがして良くないのかもしれないけど、辛いことも巡り巡って、何か良いことに繋がっていたらいいよな。」
長くて打つのも大変そうなのに、長文で丁寧に教えてくれた。なるほど。人間万事塞翁が馬って良い言葉だな。そう思いながら、その日はいつもより深い眠りについた。
火曜日からは、早速オンラインで授業を聞き始めた。正直、授業中に先生が言っていることを全部メモするのは、物凄いスピードが必要で大変だった。それをさらに家に帰ってからまとめるのは、本当に大変だった。こんな大変なことをいつも当たり前のように優斗はしてくれてるのか……という衝撃から、優斗の凄さを改めて実感した。ありがたすぎる……。せめて一週間分はちゃんとノートを作って、来週の月曜日にノート渡して驚かせよう。そう心に誓った。
水曜日、お弁当を食べてる時に、徳良が話しかけてきた。
「そういえば優斗のやつさーー、自宅謹慎になったじゃん。あれ、斉郷が美羽の悪口を言ってるのを聞いて、許せなくて殴っちゃったかららしいよ。ちょっとわかりにくいところあるけど、あいつ良いやつだよな」
優斗が人を殴るなんて、よっぽどのことがあったんだろうなと思ってたけど、まさか原因が私だったなんて……。全く知らなかった……。
「あ、でもあいつ人に理由を言ってないから、言っちゃいけないことだったかな。悪い、忘れて」
そう言って徳良はさっさとこの話題を切り上げた。
私のせいで優斗が……。そう思うと、心が苦しくなった。でも、謝るのもなんだか違う気がして、それからは優斗に連絡ができなかった。気持ちが上がったり下がったりしながらも、優斗に渡すノートをきちんと作ることだけが、今の私にできることのような気がした。
木曜日にもなったのに、休み時間になると無意識に教室のドアを見てしまう癖は、一向に治らなかった。何事もなかったかのように、プリントを持った優斗が入ってくるんじゃないかと、あるわけないのに期待してしまう。
優斗が来なくなってから、なぜか教室がとても広く感じる。いつもなら、教室は不思議と温かい感じがするのに、今は風が体全体を通り抜けるような寒々しい場所のように感じる。
私に元気がないのを察したのか、その日のお昼は徳良がクリームチーズベーグルを一つくれた。めちゃくちゃ美味しいと一口目に感動した。でも、すごく美味しいのに、二口目から味が頭に入ってこない。優斗にもあげたいな。そう思って、ぼんやりとしてしまう。
色んな事が起こりすぎて、感情が上手く整理できない中で、その晩かなり悩んだ末、斉郷君からの手紙にようやく返事を書いた。
翌朝、先生がプリントを渡しに来た時に、この手紙を斉郷君に渡してもらえるよう頼んだ。
「斉郷君へ
お手紙ありがとうございます。
正直、この間のことは辛かったけど、謝ってくれて、気持ちも落ち着きました。
この病気になってから、酷いことを言う人は、その言葉を自分が言うことは当然という感じで、悪いとも思っていなさそうなことが多いと感じていました。だから、言われたこととかは確かに辛かったけれど、言ったことを悪いと思って、謝ってくれてありがとうございます。
もう、気にしないでください。
そうは言っても、私が上っ面だけで言ってるように聞こえるかもしれないと思って、せっかく謝ってくれたのにフェアじゃないので、長くてうるさいかもしれませんが、少し書きます。
正直この病気になってから、私は被害者だ、という感覚になっていました。でもふとこの間の出来事の後に、自分に害のある虫を仕留めて、思ったんです。私だって何かを苦しめることを、息をするように、ごく自然としてるなって。私は、何か嫌なことを言われたりされると、心の中で大騒ぎするけど、自分は平気でそういうことをしている、ということに気づいたんです。
もちろん、できるだけ何かを傷つけないように生きるということは、傷つけられる辛さを感じるからこそ、すごく大事だとは思います。でも、自分の行動を振り返った時に、生きている中で、自分が意図的であれ無意識的であれ、何かを傷つけていることはあって、それはある意味どうしようもない部分もあるとも思ったんです。
例えば自分に有益な野菜は大事にするけど、雑草は殺してしまうとか。何にも考えずに、当たり前のようにご飯を食べているけど、実際は動物の命を犠牲にして生きていることとか。どちらも、生き延びるためにはどうしても必要で、でもそれが何かを傷つけていないわけではなくて。そういう、良いとか悪いとかだけで片付けられないことも受け入れていくことが、生きていくということなのかなと感じました。
こんな感じで、私は人畜無害ではないので、たとえ誰かが生きていく中で私を傷つけることがあっても、その時は私は落ち込むと思いますが、私が傷つけた人を非難するのはお門違いではないかなと思っています。まあ、最近気づいたことで、あくまで理想論かもしれないですけど。
なので、謝ってもらって十分なので、本当にもう気にしないで忘れてください。
これから会うこともないと思いますが、お互い強く生きられれば良いですよね。
お返事は不要です。
徳田」
≪美羽:爆走≫
長い長い一週間だった。今日こそは、久しぶりに優斗に会えるぞ。私のせいで迷惑をかけたから、本当は申し訳ないんだけれど、でも会えることへの高鳴る気持ちが抑えられなかった。
ドアが開く音がして、期待して見たその先にいたのは、今日もジャージを着て、頭に寝癖がつき、髭の剃り残しがある担任だった。
ドアが開くまでは、森の中で、両手を広げながら大喜びでスキップしているくらいの気分だったのに、気づいたら崖から落ちていた。そんな感覚だった。
私のスキップ返してくれ……。
とがっかりしていると、
「ほらこれ、今日の分」
そう言って、束になったプリントを渡してくれた。
「あの、優、三浦君は、まだ来ないんですか?」
そう担任に尋ねる。
「そうそう。ほんとは今日から来る予定だったんだけど、三浦は流行り病にかかって、入院したんだわ」
そう担任が言う。
「え……」
思いがけない話に、頭が真っ白になる。
「お母さんが、まず外から病気をもらってきたらしい。お母さんも入院してるけど、空き室の関係から、お母さんは三浦とは別の病院にいるんだと。そう、三浦のお父さんから連絡があったよ」
全く予想していなかった事態に、頭がついていかない。入院するってことは、かなり重症なんだろうか。不安が心を覆いつくす。
「先生、いつも三浦君にはお世話になってるんで、お見舞いに行きたいのですが、病院の名前と部屋番号を教えてもらえませんか?」
急なお願いに、少し担任は驚きながらも、
「お、おう。親御さんに聞いてみるよ」
と言ってくれた。先生が戻ってくるまでの時間は、永遠のように感じられた。
「確認したら、病院の名前と部屋番号はここだったから」
そう言って紙を渡してくれた。
「それで三浦のお父さんが電話に出たんだけど、お父さんも感染している可能性があるから、自宅待機中で見舞いには行けないらしい。徳田は罹らない体質だと伝えたら、よろしくお願いしますって言ってたよ」
「ありがとうございます。私……今日体調が悪いので、すみませんが早退します」
そう言ってかばんをつかんだ。
「あ、おい。徳田……」
担任の声を後ろに聞きながら、急いで学校を出た。正門を出てからは、全力で走り出した。
色んな思い出が蘇ってくる。この病気がわかってから、優斗は初めて家族以外で関わってくれた人だった。最初泣いていた時も、さりげなくティッシュをくれて。絶対面倒なのに、あれからいつも授業のプリントを持ってきてくれて……。ほんと優しすぎたよ。
私がノートを貸して欲しいと言ったら、まとめノートまで作ってくれて。今週一週間対応しただけなのに、大変すぎてほんとびっくりした。こんなことを、毎週毎週こつこつ対応してくれるなんて、ほんと想像できないし、本当に凄すぎる。
勉強しながら、音楽とか本の話もして。深い考えに、私も考えさせられるものがあったよなぁ。私が落ち込んでいたら、森にも連れて行ってくれて。森の時間もすごい楽しくて。たぬきが出た時は、ほんとびっくりした。でも、そのおかげで、初めてあんなに笑う優斗を見られたんだよね。
それから波瑠と徳良とも仲良くなって。一緒に縁日もして。あの日はほんと夢なんじゃないかってくらい楽しかった。
もし、優斗が私の世界からいなくなったら……。そう思うと、言葉にならない感情で胸が締め付けられる。この数日間、嫌というほど思い知らされた。私が今こうして生きていられているのは、優斗のおかげだ。それに、私は優斗のいない世界はどうしても嫌だ。
とにかく病院へと走った。普段なら気になる人からの視線や言葉が、全く気にならなかった。
ぜーぜーと息を切らして、ようやく病院についた。病院内は走らずに教えてもらった部屋まで向かった。それでも気持ちが焦っていたので、病院の部屋のドアを開けた時に勢いがついて、思いの外大きい音を立ててしまった。
そこには、一人部屋で、目をつぶってベッドに横たわる優斗がいた。無機質な部屋が、とても重い病気のように感じさせる。久々に優斗を見ることができた安堵感の後に、不意にとてつもない不安が押し寄せてきた。もう優斗に会えなくなったらどうしよう。いつものように話すことができなくなったら、どうしよう。それらの考えが竜巻のように勢いを増し、いてもたってもいられなくなった。
傍に行ったが、目は開いていない。
「優斗……死なないで」
思わず手を握って泣いてしまう。少しして、
「勝手に俺を殺すな」
ゆっくりと目を開けた優斗がこちらを見る。
「元々俺、持病とかないし。ただ、当分は咳がきつくて、浅い眠りしか無理かも。ゲホッゴホッ」
目が覚めたのを見て、私はまた泣いてしまった。
≪優斗:覚醒≫
ガラッと扉が開く大きな音がして、眠りから覚めた。でも、ぐったりと体がだるく、頭は起きているけど、目はつぶったままぼーーっとしていた。
すると突然、美羽の声がしたから、起きたと思ってたけどまだ夢でも見ているんだろうなと思った。でも、
「死なないで」
と言われた後に握られた手の感触が、妙にリアルだ。
「勝手に俺を殺すな」
そう言ってゆっくり目を開けると、そこには本物の美羽がいた。泣いているようだったので、座るように体制を起こして、美羽の頭を、軽くポンポンとする。
一瞬体がこわばったように見えたので、
「ごめん。悪気はない」
そう言って手を引っ込めた。そうだよ。斉郷に頭を掴まれたって徳良から聞いてたのに、頭を無意識に触ってしまうとかありえないよな。そう思っていると、ふいに美羽がハグをしてきた。
え?と戸惑っていると、
「よかった、よかった」
って泣いている。心なしか俺の呼吸が深くなり、咳が出なくなっていった。
ふうーー。緊張するけど、ずっと言えなかった言葉を、今なら言える気がする。今を逃したら、またずっと言えないかもしれない。頭の中で、何回か言葉を反芻した。
「愛してるよ、美羽」
そう言うと、ぱっと美羽が離れた。驚いたように目を見開いて、白い顔が赤く染まっている。嫌だっただろうか。
「え、でも私ドクダミ病だし、気持ち悪いでしょ?」
「何が? 美羽のドクダミ病は、俺にとってはキューピッドみたいなものだよ。まぁ、美羽が俺のことを好きになればの話だけど」
「何それ」
そう言って、美羽は笑いながら泣いた。窓から差し込んだ光が、キラキラと頬を伝う涙を輝かせたその光景は、俺が今まで見たどんなものよりも美しかった。
涙が落ち着いてきた時に、美羽がぼそっと言った。
「好きになるって言うより、元々好きだもん」
(元々好きだもん……。
元々好きだもん……。
元々好きだもん……。
響き渡る、脳内リフレイン。)
えー!かっわっ……。ていうか、そんなそぶり見せてたか? 俺が前髪長すぎて、色んなことを見落としてるだけなのか⁈ 慌てて頬をつねるが、ちゃんと痛い。やばい。今まで聞いてきたどんな言葉よりも、嬉しかった。同時に、心がギュッとなって、息ができなくなってきた。病気が悪化してきたのか? 俺、やっぱ死ぬのか?
「嬉しすぎる……。ごめん。ちょっとまた息苦しさが出てきたから、横になっていい?」
「わー無理させてごめん。ゆっくり休んで。私帰った方がいいかな?」
そう言って、帰ろうと椅子から立ち上がった美羽の腕を掴む。
「いなくならないで」
「わ、わかった」
しゅんとおとなしくなり、美羽はまた椅子に座った。何も言わない時間が心地よい。寒い時期なのに、春にお日様の下で寝そべっているような、ほっとする空気を感じる。
「ねえ、俺が十歳老けても、好き?」
ちょっと試すような言い方をしてしまった。
「もちろん。ていうか、見た目で好きになったんじゃないもん。静かな優しさにどうしようもなく惹かれていったんだよ」
その言葉に、ああ、大丈夫だと思った。
「ねえ、その髪の葉っぱで、ドクダミ茶作れるの?」
「え?」
美羽の顔が、また赤くなった。
俺は何を言ってるんだ。俺も、都合が良いから近づいたって思われないだろうか。ってか普通にキモいだろ。でも、今までずっと我慢してきたから、止まらない……。
「俺、お茶あんまり飲まないけど、美羽のなら飲んでみたい」
そっと髪の葉っぱに触れる。真っ赤になってうつむいた美羽が
「何言ってるの?」
と言う。
「早く俺が治ったら、美羽も嬉しいでしょ? 切れば痛くない?」
「えっ。ん~。ちょっと待ってて」
そう言って、小走りでパタパタとスリッパの音をさせながら、美羽が部屋を出る。あんな顔初めてみた。ああ……かわいい。病気も悪いもんじゃないな。
美羽は時々、俺が美羽を救ったように言うけど、俺が救ったんじゃなくて、本当は美羽が俺を救ってくれていた。俺の世界は、美羽が来てから色が鮮やかになって、世界に音が戻った。いや、戻ったんじゃなくて、聞きたいと思えるようになったのかもしれない。
無事退院できた後、俺は、目が隠れるほどに長くしていた前髪を切った。世界を歪めるだけの伊達メガネもやめた。正直、顔を出すのはいまだに怖いけど、それよりも、この目で美羽をもっとちゃんと見続けたいという気持ちが勝った。
≪美羽:漆黒と光≫
私、ドクダミ病になって、もう生きていているのが辛いくて諦めそうになったことも正直あった。でも、ドクダミ病にならなければ、優斗とも仲良くなることはなかっただろうし、優斗の優しさに気づくこともできなかったと思う。それに、色々な人の優しさも含めて、今までなら気づかなかったことにも少しだけど気づくことができるようになってきた気がする。闇が暗すぎたから、星が綺麗に見えるみたいだなと思った。
今まで嫌なこととか辛いことは、とにかく避けたいと思ってたけど、思い返すと無駄なことなんてなかったように思う。私がこの病気になっていなかったら、もっと人の痛みに鈍感な人になっていたと思う。私がドクダミ病じゃない状況で、もしドクダミ病の人が周りにいたら、私も酷いことを言っていたかもしれない。
それに、私が持っている幸せに気づけずに、その現実の中できっと嫌なことを見つけて、不平不満を言っていたと思う。別にそれが悪いことではないけど、それって幸せなのに不幸みたいで不思議な感じがする。闇が深すぎたから、人の優しさとか、この世のいいものとか、そういうのを感じられる心が育まれた気がする。こんな傷まなくてわかれば良かったけど、でも私は傷まないとわからない人だったから、この病気になったのかな。
複雑そうに見える世界で、ギラギラとした情報や、大きな声の主張が、まるでこの世界の正解みたいに思えることもあるけど、本当に大事なものは、もっとすごくシンプルなものなんじゃないかな、とこの頃思う。まるで、一面に雑多なものが置いてあって、その中で、
「嫌なものに気を取られたり、変なものにおかしいよねって言うことが、正しいことです」
っていう看板も時々あって、でも実際は、その雑多なものは、その中から自分だけの宝物を選ぶためにある場所なんじゃないかって。それは物かもしれないし、考え方や思いかもしれない。宝物は、暗ければ暗いほど光って見えるものみたいで。その暗さが、まあただものじゃないけど。でも、その暗さの中でも自分の心に従っていると、大事なことがとてもシンプルに浮かび上がってくるように思える。
優斗が私の世界に存在してくれたことは、かけがえのない宝物だと思う。本当にありがたい。私の両親も。波瑠も徳良も。そして、自分の経験から学べた色んなこともまた、消えることのない宝物だと思う。
こうやって私達は、時として過酷な中で、いつも宝探しをしているのかもしれない。私は、宝物を見つけたら終わりじゃなくて、それを大事にできるような人になりたいな。
正直、暗さに、もうちょっとお手柔らかにお願いしますって頼んでおきたいけど、聞いてもらえるのかな。でもその暗闇すらやっぱり宝物に出会える道を教えてくれてるから、ありがとうだよね。病気になった時には、こんなに宝物を得るなんて思わなかったけど、諦めないで良かったなと思った。
そして、ドクダミちゃんも、ありがとう。ずっと嫌っててごめんね。でもあなたがいなかったら、今の私はないから、感謝してるよ。
そんなことを考えながら、眠りについた。
翌日、ドクダミに、初めて花が咲いた。それは、一般的なドクダミの花じゃなくて、ハゴロモジャスミンの花と香りにそっくりだった。写真を撮って、優斗に送ったら、綺麗だね。嗅ぎに行く。と返ってきた。うん。全力で逃げよう。
≪優斗:春到来≫
俺の病はその後、瞬く間に回復した。十歳くらい見た目が老けるという一般的な後遺症も、一切起きなかった。
あれから、美羽は人に貢献したいと、放課後にボランティアを始めた。流行り病の病院に行っては、人と近くで会話をして、ドクダミ病を活かして自分なりに流行り病を癒す手助けを始めた。俺はただただ、今日もそれを隣で眺めている。
美羽は、病気になり始めた時とは見違えるほど明るくなった。そんな横で美羽の笑顔を見ていられる俺は、自分の心に正直に生きることを選んで、本当に良かったと思っている。
天使は前髪しかないっていう話は、本当なのかもしれない。もしあの時ああ動いてなければ。そんな、たくさんのきっかけが繋がって、今がある。当たり前のことだけど、すごく不思議な気もする。
諦めないで、本当に良かった。今年舞っている桜の花びらは、今まで見てきた桜よりもずっと鮮やかで、綺麗で、温かく見えた。その中に咲く大切な人の笑顔を、いつまでも隣で見守っていきたい。風で横切る桜の花びらに、そう強く願った。




