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蝿の仲介人 ―断罪の銀閃―

作者:
掲載日:2026/02/09

「……まさか、俺の最期が、お前の手にかかるなんてな」


 地下室の冷たい空気の中、俺の喉元には、相棒の銀閃が突きつけられていた。 フードの奥に潜むあいつの瞳は、相変わらず何も語らない。


「飼い犬に手を噛まれるとは、まさにこのことか。

 ……蝿が最後には野犬に喰われる。ハッピーエンドには程遠いな」

 

 相棒は、ただ静かにナイフを振りかぶる。

 その影が俺を飲み込む直前、そっと呟いた。


「……悪いな、相棒」


 俺の手の銀の指輪が、鈍く光った。


 ――刹那、無慈悲な銀閃が振り下ろされた。

 



 「依頼だ」


 湿り気を帯びた薄暗い地下室。

 俺は、目の前に立つボロボロの黒いローブを纏った男に、一枚の紙切れを突き出した。


 男は答えない。

 フードの奥の暗闇が、ただ無機質に俺を射抜いている。

 この町でこいつの声を聞いた者はいない。


「相変わらず、退屈なほど寡黙だな。……忠犬」


 忠犬というのは、俺が付けたあだ名だ。

 吠えず、噛みつかず、ただ金さえ積めば地獄へでも赴く。

 忠実なる俺の犬。だから、忠犬と名付けた。


 「ヴェルム辺境での国境紛争さ。傭兵として参加してもらう。報酬は金貨100枚だ」


 庶民が一生かかっても稼げない大金。戦争は儲かる。人が死ねば死ぬほど、金が動く。


 男は黙って背を向け、薄暗い部屋から立ち去っていく。その背中は、忠実な犬というよりは、飢えた野犬のそれだった。

 暗がりに潜み、牙を剥き、誰にも心を開かずに獲物を狩る。

 

 奴が野犬なら、俺は蝿だ。

 死臭の漂う場所に(たか)り、法外な仲介料を(むし)り取って生きている「蝿の仲介人」だ。


 世間様から見れば最低の共犯関係。

 だが、この不味い安酒を一人で煽る夜には、奴のあの「静寂」だけが、唯一の救いに感じられた。



 深夜、地下室の錆びた扉が、耳障りな悲鳴を上げて開いた。

 そこに立っていたのは、いつも通りボロボロの黒いローブを纏った男。


 そして、その腰元には、汚れた「何か」がしがみついていた。


「おい、忠犬。……何を連れ帰った」


 よく見ると、少女だ。煤けた茶の髪に獣の耳、ふさふさとした尾。獣人だ。

 戦火で焼かれた服。血の匂い。

 ああ、そうか――戦争の生き残りか。忠犬を送り込んだ、あの戦場の。


「……教会へやっても、奴隷商に売られるだけだぞ」


 フードの奥の視線が、暗に『何とかしろ』と俺を急かしているように見えた。


「……はぁ。わかった。獣人の国に戻れるよう手配してやる」


 俺が吐き捨てると、少女――小さなネズミのように見えたため小鼠とでも呼ぼうか――小鼠の耳が微かに揺れた。

 

 これは決して情などではない。

 俺にとっての最重要資産である忠犬を失う方が損失が大きい。

 ただの先行投資だ。


 ……それに、あの戦争を仲介したのは俺だ。この子を孤児にしたのは、間接的には俺の責任でもある。せめてもの、罪滅ぼしだ。

 

 

 ――それから一週間後。

 

「いいか小鼠。忠犬は話さん。だから、お前が色々と忠犬の手助けをするんだ」

 

 俺の声に対し、獣人の少女はムッとした顔で頬を膨らませた。耳がピクリと立ち、ふさふさとした尻尾が不満げに揺れる。

 

「……小鼠はやめて。ネズミじゃないもん、リスの獣人だもん」


 …どちらも齧歯類で似たようなもんだろう。

 

「とりあえず、言葉遣いからだ。それから文字の読み書き、最低限の計算も覚えてもらう」


「えー、御主人様と手合わせやりたいのに……」


「御主人様?」


 思わず聞き返すと、小鼠は忠犬の方を見上げた。

 

「だって、戦場で命を助けてくれたんだもん。御主人様でしょ?」


 遠くで見守っていた忠犬がわずかに身を捩った。……ほう、こいつをそう呼ばせているのか。


「いいか、小鼠。これはお前のためじゃない。……忠犬のためだ。お前がヘマをすれば、あいつが死ぬ」

 

「……!」

 

 少女の瞳が揺れた。少しだけ潤んだ目に、固い決意が宿る。

 

「じゃあ、まずは文字からだ。書き取り十枚分。終わるまでは飯抜きな」

 

「ええええええ!? ひどい!」

 

「遊びじゃないと言っただろ。ほら、鉛筆を動かせ。持ち方が違う、もっと力を抜け」

 

 初めて見る文字を、必死に紙に刻みつけている小鼠。その様子を見て、穏やかな笑みを浮かべていた。

  


 小鼠が来てから、半年が過ぎた。

 今じゃ、どんな依頼にもチョロチョロと着いていくようになった。

 そして、同時に生意気にもなった。

 

「……あのな小鼠。これでも奮発してるんだ」


 俺はため息混じりに、金貨袋を机に置いた。


 相変わらずの沈黙。

 だが、小鼠がその静寂を裂いた。


「いい加減にしてください、仲介人さん! あなたはもっと適正な報酬を御主人様に渡すべきです。

 あと、小鼠はやめて!私はリスの獣人だって何度も言ってるでしょ!」


 かつての腰巾着は、今や立派なマネージャー気取りだ。

 俺は冷めた視線を投げ返す。


「いいか。俺たち仲介人は、仕事をわざわざ探し、わざわざ交渉してやるんだ。手間賃を毟り取る権利はあるだろ。わかったら、そのチューチューうるさい口を閉じろ齧歯目」

 

「中抜きが大きすぎると言ってるんです! 囓歯目とか、また変な言葉で誤魔化して!」


 生意気な口を叩くようになったものだ。


 所詮ただの小鼠だ。日頃からでっぷり太った卑しい権力者の豚どもとの舌戦に慣れてる俺の敵じゃない。


 俺は当事者の参加しない不毛な言い合いを切り上げ、本題の書状を広げた。


「本題だ。今回の依頼は、忠犬、お前でも骨が折れるぞ」


 机に置いたのは、国家の紋章が刻印された極秘の書状だ。


「大悪党『黒蛇盗賊団』の暗殺。奴らは国宝を狙い、騎士団の面子を泥で塗りつぶした。これは国家からの直接依頼だ。報酬は金貨1000枚。

……交渉成立だ。頼んだぞ、忠犬」

 

「私も行きます! 絶対に!」

 

 相変わらず口うるさい小鼠だ。俺が内心苦笑していると、忠犬は反対も肯定もせず、ただ少女の頭に大きな手を置いた。

 

 二人が地下室を出ていくのを見送りながら、なにか不吉な予感を感じ、洗い流すかのように俺は不味い安酒を煽った。



 地下室の錆びた扉が開く音。それはいつもより低く、重く響いた。

 戻ってきたのは、一人分の足音。


「……思ったよりお早いご帰還だな。よくやった、忠犬」

 

 俺は机に置いた安酒を煽りながら、入り口に立つ影に声をかけた。 既に黒蛇盗賊団崩壊の報せは全国を駆け巡っている。

 

 だが、何かがおかしい。

 忠犬はそこに立ち尽くしている。フードの奥の無表情はいつも通りのはずだが、その周囲を漂う空気は、墓穴のように淀んでいた。なにか違和感がある。

 

 ――何かが足りない。

 俺は無意識に、忠犬の背後の影を探していた。「中抜きが酷い」だの「小鼠はやめろ」だの、あの耳障りで、それでいてこの昏い地下室を唯一生き返らせていた少女。なぜかどこにも見当たらない。

 

「……おい。小鼠はどうした」


 忠犬は答えない。

 ただ、その拳が白くなるほど強く握りしめられているのが見えた。

 なんだ、なんなんだその反応は…!


「……答えろ!!」


 机を叩く音が響き、怒声が地下室の壁に跳ね返る。

 俺自身、自分がなぜこれほど取り乱しているのか分からなかった。


「………」


 返るべき言葉は、永遠に失われた。

 返ってこないということは、そういうことだ。


 裏社会の仲介人として、そんな「結末」は腐るほど見てきたはずだった。


「……そうか。……そういうことか」


 俺は絞り出すように言い、椅子に深く背を預けた。

 うっとうしいだけだと思っていたはずなのに。


 あの少女と、議論にもならない口喧嘩をしている時間が、俺は決して嫌いではなかったらしい。



「……忠犬、お前が気に病む必要はない。俺たちはあの子を国へ帰そうとした。それを拒んで、お前の隣を選んだのは彼女自身だ」


「……」


「それに、この不条理な世界では人の命なんて、たかが知れている。……自分を責めるのはお門違いだ」


 俺は自分に言い聞かせるように、酒を一気に呷った。

 不味いだけの安酒。

 それが今は、ただの濁った冷水のように、何一つとして味を感じさせなかった。

 

 ……無理にでも、彼女を獣人の国へ帰すべきだったか。

 いや、今更考えても後の祭りでしかない。無意味だ。


 俺が仲介した戦争で家族を失い、孤児になった少女。その少女を、また俺が仲介した依頼で失った。

 ――皮肉なものだ。


 俺が悪かったのか、それともこのくそったれな世界が悪いのか。

 きっとその両方なのだろう。


 あの子に居場所を与えられなかったこの世界も、あの子を戦場に引きずり込んだ俺の手も、等しく汚れていて、等しく救いようがない。

 

「……静かだな」


 俺の独り言に、返ってくる声はない。


 勉強に飽きて退屈そうな声も、報酬の少なさに文句を言う声も、もうどこにも存在しない。

 耳の奥に残っているのは、血の匂いの混じった、重苦しい静寂だけだ。


「……」


 忠犬は相変わらず、何も言わなかった。

 この地下室に満ちた、耳の奥が痛くなるような静寂が破られることは、もう二度となかった。



 小鼠の死から、数ヶ月が過ぎた。

 俺は、以前なら断っていたような汚れ仕事まで引き受けるようになった。どんな仕事も報酬さえ良ければ、外道と蔑まれるような真似でも喜んで引き受けた。


 戦争の仲介、暗殺、武器の密売――。

 

 手元には、その代価として積み上がった、血と泥の匂いが染み付いた金貨の袋と轟く悪名。世間でも死を運ぶ仲介人、『蝿の仲介人』として既に名が知れ渡っている。

 

 しかし、これでいい。俺は目的のためなら何でもするとかつて誓ったはずだ。

 ――これで、また彼女――妻の命を買い延ばせる。


  

 俺は地下拠点の淀んだ空気を振り払うように馬を出し、人里離れた森の奥へと向かった。

 たどり着いたのは、静寂だけが支配する療養所。

 そこに、俺の生きる理由がある。


「……あなた? やっと、来てくれたの?」


 白いシーツに沈み込む妻は、もはや肉体というよりは、光に透ける薄氷のようだった。


 俺が手を握ると、彼女は激しく咳き込んだ。慌てて差し出した白い布が、どろりとした鮮紅に染まる。

 震える手で彼女は俺の頬に触れる。

 

「――。ひどい顔をしてる……」


「……仕事が立て込んだだけだ。気にするな」

 

「お願い、―――。そんな辛い仕事は……もう、辞めて。子ども達を導いていた時のあなたに戻って……」

 

 ……そんな自分は既に捨てた。最後の教え子は死んでしまった。いや、俺が殺したようなものだ。

 

「……お前を救うためだ!」


「私は……あなたが辛い思いをしてまで、生きたいとは、思わない。

 ……ねえ、―――。……もう、じゅうぶんなの。安らかに……終わらせて」


 彼女が血を吐く思いで絞り出したその言葉は、俺の鼓動を刺し貫くには十分すぎる威力を持っていた。

 俺は絶句した。


「……何を、言っている。何を言ってるんだ……!」


 俺は彼女の手を振り払うように立ち上がった。

 

 これを認めてしまえば、俺が血に塗れて掻き集めてきた金も、小鼠を死なせてまで手に入れた時間も、忠犬にすべての汚れ役を押し付けていた自分も、すべてがゴミクズになる。

 

 認められない。認めてたまるか。


「無理だ。そんなこと、できるわけがない……!」


 俺は逃げるように病室を飛び出した。

 


 それから三日間、俺は療養所の近くにある寂れた酒場で、泥のような安酒に溺れた。


 懐にある銀の指輪を取り出しては、また箱に閉じ込める。

 


 四日目の朝。俺は再び、彼女の部屋の扉を開けた。


 そこには、さらに一回り小さくなった彼女の姿があった。


 その瞳には、恨みも怒りもなく、ただ、早くこの地獄から解放してほしいという、祈りだけが宿っていた。

 そのことに俺はついに屈した。屈してしまった。


 俺は彼女の横に座り、氷のように冷たくなったその手を、今度は優しく、壊れ物を扱うように握りしめた。


「……わかった。……引き受けよう、――」


 俺の返答を聞き、彼女は満足そうに、口角を上げた。


 このまま放置すれば、彼女は数日、あるいは数週間、呼吸すらままならない地獄を彷徨うことになる。

 

  そんなものは()()()ではない。

 この世界で、最も確実に、痛みもなく彼女を眠らせる方法は――()()しか思い浮かばなかった。



 「忠犬、依頼だ」


 地下拠点に響いた俺の声は、自分でも驚くほどひび割れていた。

 

「……今回の依頼は、とある平民の暗殺だ。……抵抗はしない。病床で寝ているだけの女だ。報酬は……俺の全財産だ」


 忠犬の手は動かなかった。


 数ヶ月間、俺たちはどんな泥仕事もこなしてきた。だが、こいつは俺が提示した「標的」のあまりの無価値さに、あるいは、それを命じる俺の異様な気配に本能的な拒絶を示していた。


「……わかっている。こんなものは『暗殺者(おまえ)』のやる仕事じゃない。だが、これをお前にしか頼めないんだ」


「……」


 忠犬は依然として動かない。

 沈黙が部屋を支配する。俺は、自分を支えていた理屈の糸が、ぷつりと切れるのを感じた。


「わかった。事情を話そう……」


 俺は震える右手を隠すようにポケットに突っ込み、そこにある銀の指輪の小箱を、指が白くなるまで握りしめた。


「実は、その依頼人は――俺の妻だ」


「……!」


 忠犬の眉が大きく跳ねた。フードの奥の静寂が、初めて明確な「動揺」に変わる。

 驚きというより、俺の正気を疑うような視線だ。


「……なんだ、その顔は。俺にだって、妻くらいいる」


 俺は天井を見上げ、枯れ果てたはずの涙を堪えた。


「妻は……不治の病だ。俺が必死になって掻き集めた金も、あの子を犠牲にして手に入れた時間も、すべては無駄だった。

 ……あいつが望んでいるんだ。俺がこれ以上、自分のために手を汚し続けるのを見たくない、安らかに死なせてくれとな」


 声が震えそうになるのを、無理やり押さえつける。


「……俺は、最低の臆病者だ。あいつの最期の願いを叶えてやりたいと言いながら、自分の手でその命を断つ勇気すらない。

 ……だから、お前に頼むしかないんだ。お前の、その刃で、あいつを眠らせてやってくれ」


 俺が深く頭を下げると、部屋に長い沈黙が流れた。

 

 やがて、忠犬が音もなく歩み寄り、俺の前に立った。

 彼は静かに、震える俺の手から依頼書を抜き取った。


「……」


 忠犬は依頼書を懐に収めると、出口に向かって歩き出す。

 扉に手をかけたところで、俺は忠犬に初めて謝罪の言葉を投げかけた。


「忠犬。……すまない」


 忠犬は一度立ち止まるだけで、振り返らなかった。

 ただ、小さく頷いたように見え、そのまま夜の闇へと消えていった。


 

 「ここだ」


 街の外れ、森の影に隠れるように建つ小さな家。

 中には、妻が一人。ただ死を待つ静寂だけが横たわっている。

 二階の病室に入った瞬間、生花の柔らかな香りが鼻を突いた。


「……外で待つ」


 俺は忠犬を伴い、逃げるように家を出た。

 

 約束の時刻が近づく。

「……頼んだぞ」

 そう言い残し、俺は夜の林道をあてもなく歩き続けた。だが、数百メートルも行かないうちに、俺の足は止まった。

 

 ――本当に、これでいいのか?

 

 俺は家へと駆け戻った。ひたすら走り、森の悪路を突っ切る。

 なりふり構わず玄関を開けた。階段を駆け上がり、病室の扉を勢いよく開ける。

 ベッドの傍らに、黒いフードの影が立っていた。


「殺さないでくれ……!!」


 「……遅かった……か」


 病室に駆け戻った俺が目にしたのは、暗闇に佇む忠犬の背中だった。

 その足元、ベッドの上では、彼女が寝苦しそうに、だが確かに呼吸を続けている。まだ、生きている。

 

「……」

 

 忠犬は無言のまま、一通の紙を俺の胸に押し付けた。

 それは、俺が震える手で書き上げた、妻の暗殺依頼書。

 

 不敗の暗殺者が、()()()その仕事を放棄した瞬間だった。


「っ……


 お前が初めて失敗した依頼が、これとはな……」


 忠犬は一瞬だけ立ち止まり、俺の言葉に頷くようにして、音もなく部屋を出ていった。

 その去り際は、暗殺者としての誇りよりも、一人の()()としての静かな抗議のように見えた。


「……あの人は」


 消え入りそうな妻の声が、夜の静寂に溶ける。

 妻はどうやら全てを聞いていたらしい。

 彼女の目からは、幾筋もの涙が溢れていた。


「……すまない。俺は仲介人失格だ。お前の願いを、叶えてやれなかった」


「いいのよ……。



 ……死にたいなんて、嘘だったの」


「……ぇ?」


 俺の心臓が、冷たい氷で撫でられたように凍りついた。


「あなたが……とても怖い顔をするようになったから、……私がいなくなれば、あなたはもう、知らない誰かを、自分を傷つけなくて済むって、思ったの」


 俺は、彼女のことを何も分かっていなかった。


 「仲介人」を気取って、冷徹な計算で世界を動かしているつもりだった俺は、ただの、救いようのない道化だった。

 愛する妻の真意さえ読み取れず、思考停止の暴力で全てを解決しようとした、最低の夫だ。


「……最後に一つ、お願い。


 ……一緒に、居て」

 


 


 それからの数日間。

 俺は「蝿」としての仕事も、血塗られた金貨の勘定もすべて忘れ、ただの夫に戻った。

 何年もまともに話を交わしていなかった俺たちの間のわだかまりが、雪解けのようにじっくりと消えていった。


 忠犬のこと、小鼠のこと、依頼のこと。

 出会った時の話、二人で過ごした日々のこと。


 語り合うたびに、俺の魂にこびりついた汚れが、少しずつ剥がれ落ちていくような気がした。


 

 数日後。 彼女は俺の手を握ったまま、眠るように息を引き取った。


 そこにはもう苦痛の表情はなく、ただ穏やかな慈愛だけが残されていた。

 

 握り合った二人の手には、寄り添うように二つの銀の指輪が光っていた。


 

 妻を森の見える丘に埋葬した。俺と、数人の雇い人と、そして遠くの木陰で見守る忠犬だけの、静かな別れだった。

 

 数日後。俺は地下拠点で、溜まっていた事務作業を機械的にこなしていた。


 ふと、忠犬に渡してきた報酬の記録が目に留まった。


 俺が仲介した外道の仕事で得た大金。

 あいつはそれを、一度も贅沢に使った形跡がない。


 ――なぜだ?


 何かある。そう確信した俺は、仲介人としての伝手を使い、忠犬が金を流していた「先」を洗ってみた。


 判明したのは、この街から遠く離れた別の療養所。

 そこには、一人の少女が入院していた。

 忠犬と同じ、深い夜のような色の髪を持った――彼の妹だ。


 送金記録の備考欄には、俺が妻のために必死に掻き集めていたものと、全く同じ病……「不治の病」の延命薬の名が並んでいた。


「……そうか。お前も、だったのか」


 背後に気配がした。

 振り返ると、いつものようにフードを深く被った忠犬が立っていた。


 あいつが「妻の暗殺」を放棄した理由。

 あいつがどんな汚い仕事も黙々とこなしてきた理由。

 すべてが、音を立てて繋がった。


 俺たちは、同じ地獄の底で、同じ光を求めて泥を啜っていたのだ。


「お前が金を必要とする理由が、わかった。

 病の妹のためだったか。俺と同じ理由だとはな」


 忠犬が小さく、本当に微かに頷いた。

 

「この病気は……妻と同じ病か?」


「……」


 忠犬は静かに頷いた。


「おまえには信じられないだろうが……この病は、不治の病なんかじゃない。俺の故郷なら……日本という場所なら、ただの薬で治せるはずのものなんだ。でもこの世界では不治の病でしかない。おかしいだろう」

 

 俺は拳を強く握りしめた。

 

「なぜ妻は死んだ?なぜ小鼠は戦争で孤児になった? 医療が、技術が、発展していないからか?戦争が止まらないからか?


  ……いいや、違う。……この世界そのものが、間違っているからだ」

 

「お前は、なぜそれでも依頼を受けている? 救えないと分かっていて、なぜまだ手を汚す」


 長い、長い沈黙が続いた。結局、忠犬が応えることはなかった。だが、その沈黙は「諦めていない」という叫びのようにも聞こえた。


 ……答えは、俺の中にあった。こいつは俺と同じだ。諦めきれなかった俺だ。

 

「……もう、仲介人としての依頼は終わりだ」


 俺は立ち上がり、懐から、これまで貯め込んできた全財産の目録と依頼用の紙を取り出した。

 

「これは、本当に個人的な依頼だ。この間違った世界を変えるぞ、相棒。安心しろ、金ならある。今まで妻のために蓄えてきた、使い道のない大金がな。おまえには、この金が必要なはずだ。……すべての罪は、俺が被ろう」

 

 俺は《《相棒》》の肩に手を置き、そのフードの奥にある瞳を真っ直ぐに見据えた。

 

「世界への復讐を始めよう」

 


 

 世界を変える依頼を始めてから、数ヶ月が過ぎた。


「よくやった。これでヴェルガン王国は戦争を続けることはできない」


 忠犬が血まみれのナイフを拭い、静かに鞘に収める。背後では炎上する王宮が夜空を赤く染めていた。戦争狂いの国王は今、玉座で冷たくなっている。


「明日にはヴェルガンとエルドラン両国の間で停戦協定が結ばれるだろう。これで何千、何万の兵士が死なずに済む」


 忠犬が小さく頷く。


「次は此奴だ」


 新しい依頼書を差し出す。そこにはある学者の名前が書かれていた。


「アルキメデス研究所の所長、ドクター・ハインリヒ。此奴は治療薬の製法を秘匿独占し、権力者にしか売らず、世界の医療発展を故意に遅らせた大罪人だ。何万人の命が失われたと思っている」


 忠犬は依頼書を受け取り、無言で頷いた。



 一週間後。


「完璧だ。ハインリヒの研究資料はすべて回収できたか?」


 忠犬が厚い束の書類を机に置く。


「よし、これを各国の医療機関に匿名で送る。もう誰も治療法を独占することはできない」


 俺は書類をめくりながら続けた。

 そこにふと、見覚えのある症例の治療法を見つけた。


「妻の病気の治療法も…ここにあったんだな。もう少し早ければ」


 唇を噛み締め、資料を机に叩きつける。

 だが、後悔しても妻は戻らない。


 ならば――この治療法を、世界に広めるだけだ。



 数ヶ月後。


 俺が仲介人として張り巡らせた蜘蛛の巣は、今や世界中の「悪」を絡め取る絞首刑の縄へと変わっていた。


「奴隷商人ギルドの壊滅、ご苦労だった」


 忠犬の服に返り血が付いている。凄惨な戦いだったのだろう。


「これで人身売買のルートは完全に断たれた。獣人族の子供も、もう攫われることはない」


 窓の外では、解放された獣人の奴隷たちが故郷へと向かう馬車の列が見えた。


 その中に、小さなリスの獣人の姿を探してしまう。

 ――いるわけがない。あの子は、もう。


「……せめて、お前のような子供たちが、もう生まれないように」

 

 馬車が行ったのを確認して、次の依頼書を取り出す。


「次は軍需商人のマルコヴィッチだ。戦争を長引かせて金儲けをする外道め」


ーーー

 

 病室で、俺は疲れ切った体を椅子に預けた。

 ベッドでは、彼の妹が穏やかに寝息を立てている。

 

 かつての妻が、ついぞ手に入れることのできなかった「安らかな眠り」がそこにはあった。


「忠犬、お前が何のために戦っていたのか、ようやく分かったよ」


 傍らに立つ()()に声をかける。


「お前は、守りたいものを守り抜いたんだな。……俺とは違って」


 相棒の表情に、ほんの僅かな、だが確かな変化があった。

 「なら、良かった」と、俺は本心からそう思った。


 救いたい者は、もういない。成すべきことも、すべて終えた。

 最後の()()依頼を出すのに、この清浄な病室は似つかわしくなかった。


 この空間を穢すことなどしたくない。


 俺は立ち上がり、最後の依頼を完遂するために、いつもの、あの不味い酒が置いてある地下室へと向かった。


 手に銀の指輪をつけて。

 


 地下拠点の冷たい空気の中、俺は最後の一通となる依頼書を机に置いた。

 忠犬がいつものように、音もなく俺の前に立つ。


「これが本当に、()()()依頼だ」


 俺は依頼書を相棒の方へ押しやった。


「この1年。世界を混乱に陥れ、国境を変え、要人を暗殺し、お前に殺しをさせ続けた史上最悪の極悪人がいる。



 ……そいつを殺せ」


 相棒がゆっくりと、その紙を手に取る。


 依頼書に書かれた名は、


 『()()() ()()()()


 俺自身の名前だ。


「そいつには、もう生きる理由がない。躊躇いは無用だ。……お前の妹を救ったこの金も、すべての罪も、俺が地獄へ持っていってやる。お前はただ、光の下で妹と共に生きればいい」


 相棒の手が、僅かに震えた気がした。

 最期に、その瞳に光るものが見えた気もしたが……きっと、何かの見間違いだろう。

 


 俺は机に置いてあった、瓶に残った安酒を喉に流し込んだ。

 相変わらず、吐き気がするほど不味い。だが、これでいい。


「……まさか、俺の最期がお前の手にかかるなんてな」


 喉元に、相棒の銀閃が突きつけられる。

 フードの奥に潜むあいつの瞳は、相変わらず何も語らない。だが、その冷たい金属の感触だけが、妙に心地よかった。


「飼い犬に手を噛まれるとは、まさにこのことか。

 ……蝿が最後には野犬に喰われる。ハッピーエンドには程遠いな」


「……」


 相棒は、ただ静かにナイフを振りかぶる。

 その手は、先ほどよりもはっきりと震えていた。


 ……あぁ、お前は本当に、不器用なほど優しい奴だな。


 その影が俺を飲み込む直前、俺は相棒にしか聞こえない声で、そっと呟いた。


「……悪いな、相棒」


 俺は静かに目を閉じた。

 脳裏には、出会った頃の妻の笑顔。そして、忠犬や小鼠と過ごしたあの日々が浮かんでいた。


 ――これで、やっと会える。


 刹那、無慈悲な銀閃が振り下ろされた。

 銀の指輪も同じように輝いていた。


【完】





良かったら評価や感想を頂けると嬉しいです。


この作品は蝿の仲介人をリライトして1万字に抑えたものなので、長編(2万字)のほうも良かったらどうぞ。ところどころで描写や展開が若干違います。

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