01 奄美剣星 著 『エルフ文明の暗号文 26』
【梗概】新大陸副王府シルハを舞台にしたレディー・シナモン少佐と相棒のブレイヤー博士の事件捜査。スタンピードついに始まる。港町の守備隊長となった少佐は、脱出路を模索する。
26 思いやり
五月二十一日、新大陸森林地帯で発生した甲殻虫大海嘯を、フランクリン将軍率いるヒスカラ王国新大陸駐留軍が、アラスに近い前線で、食い止めていた。
将軍は麾下の部隊を遊軍として送り出したのだが、推し戻され、二十日に損害を被って戻ってきた。やむなく将軍は四十万将兵をダンケルクに転進させる。そこで、アラスから退避してきたレディー・シナモン少佐と、私・ブレイヤー博士を拾ったのだった。
不幸中の幸いは運よく三日間の雨が降ったことだ。
地面がぬかるんだため、重量の思い甲殻虫の足が鈍る。また、こういう天気では飛行機に相当るトンボ型甲殻虫も翅を休める。
わが軍にとって、最後の光明はここにあった。
後に聞くところによると――
*
ドンファン・デ・アラゴン副王。
繊細な動きをつけたシャギーカット、陶器のような白い肌に、鋭くもどこか憂いを帯びた神秘的な碧眼、百八十センチの身長、細身ながらも筋肉のライン。中性的で幻想的な美しさが際立つ。ベルベットやレースを多用した華麗な衣装を身にまとい、まるで「絵画から抜け出してきた貴公子」のような容姿だった。
副王というのは旧大陸にあるヒスカラ国王が、新大陸に派遣した上級総督とでもいうべき役職で、慣例として伯爵以上の貴族が任命されている。
ドンファン副王は、かつて旧大陸に存在したサピエンス系諸国の一つ、アラゴンの王族だ。幼いころ、旧大陸の大半を版図とする連合種族帝国によって祖国が滅ぼされたので、西端に最後まで残ったヒスカラに逃れた。
ヒスカラ王室は親族で、この人が同国における王位継承権をもつので、公爵に叙任した。そして彼が成人すると、海外領土シルハの副王の官職に任じ、派遣したのだ。
シルハ副王府大海嘯対策室は、副王宮殿に隣接している。飾り気のない外壁が黒く塗られた三階建てビルだが、施設の大部分は十階層からなる地下に隠れている。いくつかある副王執務室の一つもまた、〝地下宮殿〟の中にあった。
この人が出す指示は、その場で文書化される。その上で、「明文化していない問題に対しては責任をとらない」と、全閣僚及び現地司令官に伝えてある。
横坑に面した各部屋から、大型電子計算機や通信機、そしてタイプの音が鳴り、
職員が慌ただしく往来する横坑を、国家公務員猫・鼠捕獲長の肩書をもつ猫がなんの緊張感もなく、副王の地下執務室に入ってくる。ネルソンという名前のその猫を片手に抱っこしたが、秘書やタイピスト達に出す指示は止まらない。
ジャケットとスカートの軍服を身にまとったメガネの女性秘書が、
「副王殿下、一息をついてはいかがですか?」
「では皆も、五分ばかり休憩をとれ」
貴公子がふと殺風景な部屋の一角に目をやる。壁に自らが描いた水彩画が、額装され飾られていた。蓮池に臨んだ東屋をバックに、幼い日のレディー・シナモンが描かれている。
ドンファン副王が、レディー・シナモンに出会ったのは十五年ほど前になる。彼女の父親であるレオノイズ伯爵は縁戚で、彼の後見人でもあったため、よく屋敷を訪れていた。ときたま彼は妻や幼い娘・シナモンを連れて来ることもあった。副王からすると彼女は又従妹に当たる。
五月二十六日、日曜日早朝。
フランクリン将軍は、先にシナモン少佐を派遣したダンケルクに向けて後退していた。撤退路が長かったため、自らは三日間、国境の防衛線に居残る。それは副王の司令ではなく、将軍の独断だった。
だがこのときまでに、副王府にいるドンファンと麾下の閣僚達も、同じ結論に達していた。同日、副王府は電報を送って将軍の計画を事後承認するとともに、一連の撤退作戦を承認した。
電報での短い会談を終えると貴公子は、愛猫を床に置くと、地下通路に設けたトロッコ気動車に乗り込む。緩やかに地上に向かうレールの先には飛行場格納庫がある。そこにカーチス偵察機五機を格納する飛行船型空母〝アクロン〟が係留されているからだ。
これより新大陸駐留軍全軍の指揮所が〝アクロン〟に移り、太洋の遥か彼方にある本国にいる女王陛下より無線で打診があり、ドンファンに全権が与えられた。
*
甲殻虫に指示をだす何者かは知能が高い。
ダンケルクに前線兵士達を追い込み、海岸線で逃げ場を失った軍団を大海嘯の甲殻虫が半包囲をしていた。敵の意図は明らかに〝包囲殲滅戦〟である。
このダンケルクの西方三十九キロ地点にカレー港があり、大海嘯の先陣がいの一番で襲い掛かろうとしていた。
初期計画ではそこに駆逐艦を停泊させ、前線将兵をここから脱出させようとしていたのだが、間に合わない。副王は、そこに配備されていた守備隊三千人の指揮官宛てに、「前線部隊がダンケルクに撤退するまで可能な限り踏みとどまれ」と命じた。カレーからの通信が途絶したのは同日午後のことだった。
要塞島ドーバー。
そこに王国艦隊の四分の一にあたる巡洋艦一隻、駆逐艦四十隻、兵員輸送船四十五隻、その他、病院船、民間船舶を含む小型船三百隻が集結していた。
ドンファン副王は救出可能な兵員を四万五千と見込んでいたのだが、駐留軍のフランクリン将軍は三万、参謀達は数千と試算していた。
副王の督戦指揮所となる飛行船型空母〝アクロン〟が間もなく、ドーバー島に近づく二十七日の月曜日は〈血の月曜日〉と呼ばれることになる。
ダンケルクに飛行船から無線が入る。
「レディー・シナモン少佐、ダンケルク港から要塞島ドーバーへの撤退に使う、X、Y、Z三航路のうち、カレー港沿岸を抜ける最短のZ航路三十九海里は、昨日のカレー守備隊全滅降伏によって使えなくなった。中央にあるX航路は五十五海里で、次に早いコースだが、この海域に機雷源があるから除去しなくてはならない。昼からイギリス海軍駆逐艦〝インパルシヴ〟と掃海艇〝スキップジャック〟が作業を行う予定だ」
「どのくらいかかるのですか?」
「今日中に……」
通信兵の読み上げが終わると私は、
「レディー・シナモン。それまでは最も遠回りなY航路を使うしかないってわけだね。――この航路は八十七海里で、Z航路の倍ある!」
Y航路は、X航路との間にある、機雷源を避けつつ、大陸北岸を東に向かって進み、そこから、V字に反転して北西にあるドーバーへと向かわねばならない。
続く
【登場人物】
01 レディー・シナモン少佐:王国特命遺跡調査官
02 ドロシー・ブレイヤー博士:同補佐官
03 グラシア・ホルム警視:新大陸シルハ警視庁から派遣された捜査班長
04 バティスト大尉:依頼者
05 オスカー青年:容疑者。シルハ大学の学生。美術評論家。
06 アベラール:被害者。ジャーナリスト。洗濯船の貸し部屋に住む。
07 エロイーズ:被害者。アラスの寄宿学校教師。アベラールの妹。
08 シャルゴ大佐:シルハ副王領の有能な軍人。
09 フルミ大尉:ヒスカラ王国本国から派遣された連絡武官。
10 トージ画伯夫妻:急行列車ラ・リゾンで同乗した有名人。
11 サルドとナバル:雑誌社〈ラ・レヴュ〉報道特派員。記者とカメラマン。
12 フランクリン将軍(大将):ヒスカラ王国海外領土シルハ副王国駐留軍総司令官。




