00 奄美剣星 著 『クラブ〝伊勢物語〟』
【梗概】会員制高級クラブ『伊勢物語』を舞台に、十兆円企業の成金CEOと、古典文学を愛する大学院生ホステス・紫音の脳内バトルが開幕だ。CEOがひけらかす浅薄な『おじさん構文』風の古典解釈に対し、紫音の脳内論文はすでに臨界点。銀座の闇にリムジンが消えた瞬間、彼女が手にしていたものは――?
令和時代初期、銀座の片隅に佇む、会員制高級クラブ『伊勢物語』でのできごとだ。
普段は政財界の重鎮たちが静かにグラスを傾けるこの空間が、今夜は一人の男の独壇場と化していた。ITバブルの波に乗り、時価総額十兆円という名の数字だけを膨らませてきた新興企業のCEOである。
特注のサヴィル・ロウのスーツを着崩し、身に付けたパテック・フィリップをこれ見よがしに輝かせるその男は、隣に座る紫音の肩に、これまたこれ見よがしに太い腕を回していた。
「いやあ、紫音ちゃんさあ、いいよね。最近の若い子はすぐタイパだのコスパだの言うけど、男の価値ってのはやっぱり『奥行き』なわけよ。教養という名のディープな歴史? そういうのがないと、いくら稼いでも本物の紳士とは言えないよねえ」
CEOは高級ウイスキーのロックグラスを回し、カランと氷を鳴らした。その全能感に満ちた笑顔を、紫音はプロのホステスとしての完璧な〝営業スマイル〟で受け流す。
彼女がこの夜の街でドレスをまとっているのは、決して華やかな世界への憧れからではない。昼間は名門大学の大学院で古典文学を専攻し、特に『伊勢物語』に紡がれた在原業平らの言葉の数々を狂おしいほど愛する、ゴリゴリの学術徒であった。おじさんたちの〝底の浅い自慢話〟に付き合うのは、ただひたすらに莫大な学費と、いずれ出す予定の専門書の自費出版費用を稼ぎ出すためという、極めて現実的な目的のためだった。
CEOの口からは、ネットのまとめサイトからそのまま拝借してきたような、浅薄な歴史の知識やビジネス格言が次から次へと溢れ出てくる。
「僕くらいになるとさ、ビジネスの決断も全部、歴史から学んでるわけ。戦国武将の気持ちが分かるっていうかさあ」
言葉の端々に、絵文字を並べ立てたメッセージアプリの文面――いわゆる『おじさん構文』がそのまま音声化したような、独特の粘り気と独りよがりなニュアンスが漂っていた。
その浅いトークに、「すごーい! 社長、教養人!」と、話を合わせるママやチーママたちのプロ根性には感服するが、紫音の限界は近づいていた。
――戦国武将の前に、まずは日本語の文法から学び直したらどうかしら。主語と述語が迷子になってるわよ、このおじさん……。
張り付いた笑顔の裏で、紫音の知性はすでに臨界点を迎えようとしていた。そんな空気を察してか、店内のBGMが静かなモダンジャズから、テンポの速いスウィングジャズへと切り替わる。
スウィングジャズが流れる中、CEOはさすがに場のよどみを察したのか、急に居住まいを正して渋い声を響かせた。
「……風吹けば 沖つ白波 たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ。これはね、男の身を案じる、最高に切なくて美しい恋の歌んだよ」
ドヤ顔で語り、すかさず「つまりね、僕が他の女の子のところへ行っても、君は僕の心配をしてくれているんだろう?っていう意味! どう、おじさん教養あるでしょ? 《えへんぷいぷい》」と自説のひけらかしに入った。
「わあ、社長、すごーい! ロマンチック!」
周囲の女の子たちは歓声をあげる。しかし、紫音の内面は完全に冷え切っていた。彼女は『伊勢物語』を極めたプロである。
――は? クラブ『伊勢物語』の看板の下で、第二十三段「筒井筒」をそんな風に解釈するわけ? これ、男が浮気相手の家に向かう道中、本妻が恨み言も言わずに自分の夜道を心配してくれたから、男が己の浮気性を恥じて浮気をやめる話よ。浮気を全肯定する歌じゃなくて、男が自分のクズさを自省する話。それを、「僕が他の女の子のところに行っても〜」なんて、教養の皮をかぶったただの自己中ヘンタイ親父じゃない。恥を知りなさい、百人一首からやり直して!
笑顔の仮面の下で、紫音の脳内論文はすでにCEOを完全に論破し尽くしていた。紫音は冷ややかなジト目を向けながら、心の中でフンと鼻で笑った。
酒が進むにつれ、CEOのトークはさらにエスカレートし、「海人の刈る 藻にこそあはめ……つまり僕と交わってくれませんか、ってね!」と、いよいよ生々しい色歌のオンパレードになっていく。そして午前零時、大満足したCEOは、別れ際に紫音のドレスの胸の谷間に、チップとして十万円分の新札を器用に挟み込み、「また来週ネ!」と千鳥足で去っていった。
ママ、チーママ、そして紫音の三人は、笑顔で店外までお見送りをした。CEOを乗せたお抱え運転手リムージンのテールランプが銀座の闇に消えた瞬間、紫音は誰にも気づかれないよう、ドレッサーから持ち出しておいたお葬式用のお清め塩のプチパックを素早く開封。そして、CEOが歩いた地面へ向けて、サッと塩を撒き散らす。
見送りを終え、静まり返った黒檀のカウンターへと戻る道すがら、ママのバッグの中でスマホがけたたましく鳴り響いた。夜の銀座に響き渡ったその着信音は、少し前に流行った「おじさん構文♬」のあの跳ねるようなイントロであった。
「あわあわ」と慌てながら、気まずそうにスマホを耳に当てるママ。それを見つめる紫音のジト目は、本日一番の、絶対零度の冷たさを帯びていた。
ノート20260630




