03 奄美剣星 著 『エルフ文明の暗号文 30』
【梗概】甲殻虫が襲来し新大陸植民地辺境部が蹂躙される。港湾都市ダンケルクに集結した将兵33万を対岸にある要塞島ドーバーに脱出させることにシナモン少佐は成功する。そこへ飛行船でやってきた本国・ヒスカラ王国のオフィーリア女王が、新たなる勅命をレディー・シナモンに下す。
30 感謝
懐中時計の針に目を落とすと、午前10時をまわったところだった。
爆撃機型甲殻虫の強襲を受けた大聖堂は、かろうじて外壁を残すのみの無残な姿を晒していた。内部は完全に伽藍洞と化し、崩落した瓦礫がうずたかく積み上がっている。
「床に瓦礫を除けた痕があるな。恐らく地下室への入口だ。確かここには高位エルフの霊廟があったはずだ」
大柄なバティスト大尉が鋭い声を上げた。確かに彼の指さす先には何者かが力任せに瓦礫を横に押しのけた痕跡があり、そこだけ石畳の床が露出していた。
バティスト大尉を先頭に、私たちは暗闇の中へと足を踏み入れた。
懐中電灯の細い光条が照らし出すのは、極度に劣化した螺旋階段だ。天井や壁は数百年分の湿気を吸ってぬらぬらと黒く光り、いたるところから結露した水滴が絶え間なく滴り落ちている。壁面を覆う青黒い苔と、鼻を突く濃厚な黴臭さ。階段を踏みしめるたび、歴史の死臭のような空気の重みが肌にまとわりついた。
下層へ進むにつれ、その不快な臭気は変化を始める。
かすかな潮騒の音が鼓膜を震わせ、じっとりとした湿気の中に、生々しい磯の匂いが混じり込んできた。この地下空間は、どこか深い場所で北海へと繋がっているのだろう。足元を不意に小さな影が過った。懐中電灯の光線が一瞬捉えたのは、異常に肥大化したハサミを持つ蟹が、横ばいで闇の奥へと逃げていく姿だった。
階段を下りきった先には、冷徹な美しさを湛えた巨大な空間が広がっていた。
天井からは水晶のような結晶体が無数に垂れ下がり、エルフ文明の遺物特有のあの不気味な青白い光が規則的なリズムで壁面を伝っている。その中央、複雑に絡み合う水管と巨大な真鍮製の歯車に囲まれた祭壇のような場所に、一人の男が静かに立っていた。
アベラール・ランティエ。
かつてバティスト大尉がその胸に銃弾を浴びせ、確実に仕留めたはずの男だった。しかし、今そこにいるのは「人間」ではない。彼の顔の右半分は硬質で泥臭い甲殻に覆われ、右目は幾百ものレンズがひしめく多面体の複眼と化して、怪しく明滅していた。その体躯は以前よりも肥大化し、優に180センチを超える大柄な体躯が、異形の影を落としている。
「ようこそ、求道者たちよ」
アベラールの声は、人間の声帯から発せられたものとは思えなかった。まるで壁一面に埋め込まれたスピーカーから一斉に響いているかのように、巨大な地下霊廟の全体に重低音となって反響した。私は反射的に小銃の銃口を向けたが、彼は微動だにせず、ただ顔の左半分の肉を歪めて冷酷な笑みを浮かべている。
バティスト大尉が怒号を震わせた。
「アベラール! 貴様、そんな化け物に成り下がってまで生き延びたというのか!」
かつての友人であった男の激情を受け、アベラールは複眼の明滅を激しくした。
「撃つがいい、バティスト。だが忘れるな。今の私の心拍は、この施設のメイン・レコードと完全に同期している。私の心臓が止まるということは、甲殻虫どもを制御していた旋律が途絶えるということだ。その瞬間、待機している飛行型、および潜航型の甲殻虫群が、一斉にドーバー海峡を越えて人類の版図を襲うことだろうさ」
彼は人間の唇を割り、その奥に隠されたヤスリのような鋸歯状虫の顎をカチカチと鳴らしながら、私たちを嘲笑した。
「そのお身体は一体……、どうなさったのです?」
黄金の髪を後ろで気高く束ねた貴婦人――レディー・シナモン少佐が、一歩も引かずに毅然と問いかけた。
アベラールは、甲殻の隙間から粘液を滲ませながら語り出す。
「任務の途中で、偶然ここに……このダンケルク大聖堂の地下室に眠る『甲殻虫制御装置』を見つけたのだ。装置そのものが甲殻虫の生態組織で構築されている。数百年の塩害に晒されても決して朽ちることがない、神の如き技術の結晶だ。だが、ここには太古の守護者がいた。人よりも一回り大きな、悍ましき捕食者がな。……俺はそいつに、生きたまま喰われたのだ」
「食べられることで……そのシステムと一体化した、と?」
レディー・シナモンが美しく鋭い目を見張る。その表情に、かつてないほどの驚愕が走るのを私は隣で確かに感じ取った。
私は拳銃をアベラールに向けたまま、視線だけを隣の少佐へと走らせた。
「少佐、彼の言っていることは狂言でしょうか……それとも……」
「いえ、まだ言葉に論理的な脈絡があります。宿主に喰われ、その肉体を取り込まれながらも、彼の〝理性〟だけは未だ消失せずに残っていると考えられます」
少佐の冷静な分析を聞き、アベラールは再び、今度は狂気を孕んだ笑声を上げた。
「さすがはレディー・シナモン。あんたには感謝している。あんたがもたらした新大陸の『闇の理』があったからこそ、この異質のシステムがすんなりと私の脳に馴染んだのだ」
そう語るアベラールの身体は、もはや制服の体をなしていなかった。
胸部から腹部にかけては、巨大な蟹の腹甲のような節々のある外骨格が衣服を破って突き出している。人間の腕の横からは、肉を切り裂くための歪な鋏脚が不気味に蠢き、人間と甲殻類が最悪の形で混ざり合った、おぞましい「融合体」そのものの姿がそこにあった。
シナモン少佐はさらに一歩前へ出、冷徹な眼差しで真っ直ぐにアベラールを見据えた。
「アベラール様。貴方は軍情報部第五局を裏切り、帝国を裏切り、最後には人間であることさえ捨て去った。……貴方がそこまでして求めていた『宝物』とは、このエルフ文明の支配権だったのですか」
「支配? そんな矮小な人間の言葉で語るな、少佐。私は、この滅びた文明の膨大な〝記憶〟を正当に預かる器となったのだ。……ヒスカラ本国の愚物どもが造り出した〝音響増幅装置〟のことは知っている。連中は、眠れる王女の夢を汚し、自分たちの都合の良い軍歌を歌わせて世界を蹂躙しようとしている」
アベラールがそう呪詛を吐いた瞬間、彼の背後に据えられた巨大な黒いレコード盤が、軋んだ音を立ててゆっくりと回転を始めた。
そこから放射されたのは、人間の鼓膜では捉えきれない、大気を激しく振動させるほどの超低周波だった。私の手元にある、エルフ残存エネルギーの計測器の針が、狂ったように激しく振り切れ、火花を散らす。
「これは罠だ、少佐!」私は衝撃に耐えながら叫んだ。「彼は私たちを倒すためにここに呼んだのではない! 私たちをここに誘い込み、王女を目覚めさせるための『共鳴体』に利用しようとしているんだ!」
「察しがいいな、博士。その通りだ」
アベラールは複眼を怪しく明滅させた。
「王女を完全に覚醒させるには、同種である現生人類の、それも極めて純度の高い『知性』が放つ精神波形が必要なのだ。……さあ、レディー・シナモン。貴女の高潔な脳が奏でる至高の旋律を、この記録盤に捧げてもらおうか!」
刹那、四方の闇深い壁面から、大人の太腿ほどもある太さの、毛に覆われた無数の節足が猛然と伸びてきた。鋭利な先端が、空気を引き裂いて私たちの頭上へと襲いかかる。
「頭を下げろ!」
バティスト大尉の叫びと同時に、私は床へ身を投げ出した。私の長い黒髪の先を、強烈な風圧とともに硬質な節足がかすめていく。
伏せた床の上で、私は戦慄に身を震わせていた。
アベラールの真の狙いは、単なる帝国の破滅などではない。人類そのものの精神を、このエルフの呪われた旋律に永久に隷属させることにあるのではないか――。
続く
【登場人物】
01 レディー・シナモン少佐:王国特命遺跡調査官
02 ドロシー・ブレイヤー博士:同補佐官
03 グラシア・ホルム警視:新大陸シルハ警視庁から派遣された捜査班長
04 バティスト大尉:依頼者
05 オスカー青年:容疑者。シルハ大学の学生。美術評論家。
06 アベラール:被害者。ジャーナリスト。洗濯船の貸し部屋に住む。
07 エロイーズ:被害者。アラスの寄宿学校教師。アベラールの妹。
08 シャルゴ大佐:シルハ副王領の有能な軍人。
09 フルミ大尉:ヒスカラ王国本国から派遣された連絡武官。
10 トージ画伯夫妻:急行列車ラ・リゾンで同乗した有名人。
11 サルドとナバル:雑誌社〈ラ・レヴュ〉報道特派員。記者とカメラマン。
12 フランクリン将軍(大将):ヒスカラ王国海外領土シルハ副王国駐留軍総司令官。




