第8話 猛毒の執着
エドワード王太子が呪われ、病に臥したという報せが届いたのは、
あの祝福祭から一ヶ月後のことだった。
王家から遣わされた使者は、顔色を失い、
ルイーズ家の屋敷の床に額を擦り付けんばかりに跪いている。
「どうか、エドワード様をお助け下さいませ、聖女様」
(ずっと屋敷を留守にしていたと思ったら……あいつ)
わたしは込み上げる暗い愉悦を喉の奥で押し殺し、
ハンカチを口元に当てて悲痛な表情を繕った。
そして使者に向かって、聖女に相応しい慈愛と憂いに満ちた微笑を浮かべる。
「もちろんですわ。一刻も早く、殿下の元へ参りましょう」
◆ ◆ ◆
重厚な扉が開かれた先、エドワードの病室は、
窓を締め切った暗がりの中に、
肺に張り付くような重苦しい死の匂いが漂っていた。
わたしは控えていた宮廷魔法医を伴い、
豪華な天蓋付きの寝台へゆっくりと歩み寄る。
横たわるエドワードの姿を視界に捉えた瞬間、
演技ではなく、思わず眉を顰めた。
かつての凛々しさは見る影もなく、
剥き出しの首筋や腕には、黒い痣が網目状に広がり、
そこから粘りつくような瘴気が陽炎のごとく揺らめいている。
彼は浅い呼吸を繰り返し、
悪夢にうなされるようにもがき、目蓋を震わせていた。
「……私たちでは、手の施しようがなく」
「あらゆる解毒薬も聖水も効果を成さないのです」
「もはや、聖女様の加護に頼るしか、道は残されておりません」
背後で、魔法医たちの悲痛な声が響く。
しかし、その本音は、狂乱し荒れ果てた
エドワードと接することへの恐怖だった。
「それでは……後はよろしくお願いいたします」
彼らはそれだけを絞り出すように言い残すと、
重苦しい空気に耐えかねた様子で、逃げるように退室していった。
静まり返った病室には、わたしとエドワードの二人だけが残された。
「アリス……?」
掠れた声とともに、エドワードが不意に頭をもたげた。
濁った瞳が必死に誰かを追い求める。
しかし、そこにいるのがわたしだと分かると、
彼の瞳から一気に希望の光が失われ、表情が強張った。
「……クローディア……なぜ、ここに」
「殿下、お気を確かに」
わたしは寝台の傍らへ滑り込み、熱に浮かされたエドワードの
やせ細った手を、包み込むように握った。
(……よくまあ、ここまでやるわね)
これは呪いなどではない。
ロビンが独自に調合した猛毒が、
細胞の一つ一つを内側から食い破り、彼を蝕んでいるのだ。
王家の、それも次期国王をこれほど無惨な姿に変えたと知れれば、
凄惨な拷問の末に処刑されてもおかしくはない。
わたしの命令を忠実に、かつ過剰なまでの精度で遂行するロビンの実行力。
その冷静な知略と、わたしへの底知れぬ執着に、背筋が凍る思いがした。
「俺を呪っているのは……アリスか?」
潤んだ瞳を彷徨わせ、縋るように問いかけるエドワードに対し、
わたしは慈愛の仮面を崩さず、慎重に言葉を選んだ。
「どうして、そのような悲しいことをおっしゃるのです?」
「……君も知っているだろう。
あの女は一方的に婚約破棄をした俺を恨んでいる。
聖女の力を使って、俺の命を奪おうと考えてもおかしくはない」
(同調して煽る? ……いや、それじゃあ芸がないわ)
「殿下、そんな風にご自身を責めるのはおやめになってくださいませ」
わたしはあえて、拒絶を許さないほど強く彼の指を強く握りしめた。
「ご自身を追い詰めるのも、すべては殿下のお優しさと繊細さゆえ。
きっと、そのようなお心が、お体を病ませていらっしゃるのですわ」
「……なに? これは……俺の弱さが招いたことだというのか?」
わたしは、痛ましげに視線を伏せた。
「呪いの形は様々ですが、本来の殿下ならば容易く跳ね返せたはず。
けれど、あのアリス様の件でお心が傷つき、お疲れだったのでしょう」
「ほざけ」
低く、吐き捨てる声。
わたしは蔑みを隠してエドワードを見上げた。
「つまり、君は俺が無能に堕ち、自滅していると言いたいんだな?
内心では、俺を馬鹿にしているんだ。
君のことも、信用できない……」
絶望に染まって固く目を閉じる男。
わたしは内心で、激しい嫌悪とともに奥歯を噛み締めた。
(反吐が出る)
自分の地位や振る舞いが、
どれほど他人の嫉妬や憎悪を買うかということすら、
この木偶の坊は無自覚なのだ。
アリスに裏切られたと被害者を気取り、
婚約破棄を自ら告げた責任からも逃避している。
その臆病な責め苦に堪えきれず、己の妄想に溺れている。
だから、目の前の真実すら見誤るのだ。
(どこまでも幼稚な王子様。でも、扱いやすくて助かるわ)
わたしは逆巻く苛立ちを深呼吸で鎮め、
再び、聖母のような柔らかな微笑を浮かべた。
「わたしのことが信用できなくても、構いませんわ」
「なに?」
「けれど、わたしは殿下を愛しています。
わたしの力で、必ずやお救いいたします」
「愛……? 君は、こんな俺を本気で……?」
「はい。心から、お慕いしております。
殿下がたとえ、今は誰を愛していようとも……」
エドワードの濁った碧眼に、わずかな光が戻る。
「……クローディア」
わたしは髪を梳くフリをしながら、
服の下に隠したペンダント――琥珀の聖心にそっと触れた。
「慈悲深き女神の御手よ、暗き嘆きを、白き光で包み給え」
まばゆいばかりの純白の聖光が爆発し、
陰惨な病室の隅々までを塗りつぶした。
(うっ……!?)
その瞬間、わたしの体内を、灼熱のような熱い痛みが駆け巡る。
本来の持ち主ではないアリスの魔法石が、
偽りの主であるわたしを激しく拒絶し、
血管を焼き切らんばかりに聖力を暴走させているのだ。
「くっ……」
「クローディア! それほどまでに、俺を蝕む呪いは強いのか」
「……は、はい。けれど、殿下の、ためなら、この身など、どうなっても……」
わたしは顔に浮かぶ汗を拭うこともせず、
血を吐くような思いで詠唱を重ね、
何度も何度も、エドワードの体に暴力的なまでの光を叩き込んでいく。
ロビンの毒を、この石の狂った聖力で強引に押し流し、
聖女の加護という名の支配で上書きしなければ。
(アリス……あんたの力、徹底的に利用させてもらうわよ)
強大な聖力の循環に、意識が白濁し、遠のきそうになる。
(毒があまりにも強い……やってくれるわね、ロビン……)
不意に、パチンとわたしの指先から限界を告げる火花のような光が散った。
膝の力が抜け、体が崩れ落ちる。
それを、エドワードの震える腕が慌てて抱きとめた。
「ああ……クローディア……ありがとう。少し、体が楽になった……」
わたしは弱々しく震えながら、
おずおずと彼の腕を両手で掴み、胸元に顔を埋めた。
「……殿下、ご安心ください。
これから数ヶ月をかけて、わたくしが付き切りで治療いたしますわ」
「……そんなことをしたら、君の体が壊れてしまう」
「いいのです、殿下のためなら。
それに、あなたはこの国を担う唯一のお方……
あなたの損失は、民の、そしてわたしの世界の終わりも同然ですわ」
「クローディア、ありがとう。
俺のことを、これほどまでに深く思ってくれるのは、世界で君だけだ」
エドワードの腕に力がこもり、肩に容赦なく指が食い込んだ。
わたしは心底、吐き気を催すほどの怖気を覚えた。




