第6話 七回目、成功。――友愛の毒
深夜の礼拝堂。
天窓から差し込む青白い月光が、冷たく静謐な女神像を白く照らし出している。
所在なさげに長椅子に座るアリスは、昼間の豪奢な装束を脱ぎ捨て、
肌に馴染む柔らかな生地の質素な服に身を包んでいた。
祈りを捧げるように組まれた細い指先は、期待と不安の狭間で、
血の気が引くほどに強く握りしめられている。
その横顔は、ただひたすらに恋人を信じて待つ無垢な少女そのものだった。
重厚な扉が、重苦しい沈黙を切り裂くように鋭い音を立てて開いた。
アリスは弾かれたように腰を上げ、期待を込めた眼差しで入口を振り返る。
「あっ、ネッド……!?」
「アリス様、やっぱりここにいらしたのね」
踏み入ってきたのは、エドワードではなく、アリスの二人の友人たちだった。
険しい表情を浮かべた彼女たちの登場に、
アリスの顔から期待の灯が消え、困惑が広がっていく。
「あなたたち、どうしてここに……?」
二人は周囲を見回し、自分たち以外に人がいないことを確認すると、
「アリス様。もう殿下のことなどお諦めになったほうがいいですわ」
「え……?」
アリスの細い腕を、乱暴に掴み上げた。
「昼間、アリス様が指輪を取り落とされたことで、殿下は酷く失望されたそうです」
「聖女の登録を抹消するどころか、王家の名誉を傷つけたという理由で、
領地すら没収すると画策していると」
「ネッドが? あの人がそんなことするはずが……どこでそんな話を聞いたの?」
「殿下の使者を名乗る者からです」
「使者……!?」
「あんな自分勝手な方のために、耐えるのはもうおやめになって。
彼は王子の器ではありませんわ!」
アリスの表情から、瞬く間に血の気が失せていく。
「……で、でも。クローディア様が、
彼との仲を取り持ってくださると約束してくださったのよ。
何かの間違いではないの?」
「アリス様、いい加減に目を覚ましてください!
舞踏会であれほどの屈辱を与えられて、どうしてまだあの方を信じられるのですか」
「あなたには、もっと相応しい、穏やかな方がいらっしゃいます!」
友人の必死な訴えに、アリスは気圧され、言葉を失った。
(……いい眺めだわ)
二階、暗がりに沈む回廊の影。
闇に紛れた特等席で、わたしはエドワードと共に、
崩壊していく光景を冷ややかに見下ろしていた。
「クローディア……一体、これはどういうことなんだ。
君はアリスと話す場を用意すると言っていたはずだが」
隣に立つエドワードの横顔が、怒りと不快感で歪んでいく。
わたしはわざとらしく頬に両手を当て、
今にも泣き出しそうな、取り乱した表情を作ってみせた。
「わたしにも、わかりませんわ。
なぜあの方たちは、あのような出鱈目なことをおっしゃるのでしょう……」
(ロビンね)
あの二人に『エドワードがアリスを廃そうとしている』と、
偽の情報をいかにも真実らしく吹き込んだに違いない。
自分たちこそがアリスの唯一の理解者だと信じ切っている、傲慢でお節介な令嬢たち。
その盲目的な正義感こそが急所だと、あの悪魔に見抜かれた。
(使者だと信じ込ませるために、一体どんな手を使ったのかしら)
――相変わらず、底知れぬほどに恐ろしい男だ。
「アリス様。はっきり申し上げますわ。
殿下は、あなたを憎んでおられます」
友人の一人がきっぱりと言い放つ。
「!」
闇に紛れていたエドワードの碧眼が、侮蔑を孕んで大きく見開かれる。
「見ていられませんわ。わたし、止めてきます」
そう言いながら、焦燥を演じて階下に降りようとすると、強い力で腕を掴まれた。
「……まだいい。アリスがどう答えるか、聞いておきたい」
「ですが……」
エドワードの視線は、階下で追い詰められたアリスに釘付けになっている。
見られているとも知らず、アリスは力なく、自分に言い聞かせるように首を振った。
「……そんなことないわ。ネッドは、ただ不器用なだけなのよ」
「不器用? まだ庇われるのですか?」
「アリス様の献身を当然だと思い込み、挙げ句に切り捨てるお方が?」
アリスが力なく頭を垂れる。
張り詰めた糸が切れたように、彼女の目から涙がこぼれ落ちた。
そして、ふっと……笑った。
「……あの人は……昔からずっと、わがままなところがあるから」
(……言った)
「私がそばにいて、導いてあげなきゃいけないって、ずっと思っていたの。
でも……そんな私が甘かったのかもしれないわ」
アリスが漏らした、本音。
友人たちが彼女の手を取ると、アリスはさらに目を細めた。
その裏切りを、エドワードは拳を震わせて見つめていた。
「アリス……俺を愛しているのではなく、
無能な子供のように憐れんでいたのか……。
裏では、俺を教育している気でいたとは」
その声は、地を這うほどに低い。
プライドの高い彼にとって、対等なパートナーではなく
手のかかる教育対象として評されることは、何よりの屈辱だ。
「聖女の力も失った愚か者が……どの口で俺を導くと……」
「エドワード様、どうかお怒りをお鎮めくださいませ。
アリス様にも何か事情が……」
わたしが縋るように服の裾を掴むと、エドワードはそれを荒々しく振り払った。
「君のように俺を敬うこともできず、
こうして嘲笑うような女を前に、黙っていられるか」
エドワードは一階へと、激情のままに駆け下りていった。
「アリス!」
ステンドグラスを震わせるような怒鳴り声に、令嬢たちの短い悲鳴が上がる。
「ネッド!? えっ、いつから!?」
「うるさい! 俺がわがままだと? 導いてやらねばならない子供だと言いたいのか。
国のためを思い、尽力している俺を、よくもそんな風に――」
「ち、違うわ、そういう意味じゃ……!」
「俺のことを、一番理解してくれていると思っていたのに!
結局お前も、俺を支配して満足したかっただけか。
俺の父上と同じだな!?」
そこで、二人の令嬢たちが怯えながらも、娘を守る母親のように進み出た。
「ひ、酷いのは殿下のほうではありませんか! アリス様の資格を抹消しようだなんて……」
「俺はそんなこと、一言も言っていない!」
「えっ!?」
令嬢たちの顔が、一気に土気色へ変わる。
「……しかし、出どころも分からない噂を真に受けて唆されるとは。
お前たちの程度も知れるというものだ!」
エドワードの激昂に、アリスはただ呆然と立ち尽くし、涙を流すことすら忘れていた。
わたしは手すりから身を乗り出し、その完璧な崩壊の様をじっと見下ろした。
あまりにおかしくて、喉の奥からせり上がってくる歓喜の声を必死に抑え込む。
身を翻して出て行こうとするエドワードの腕を、アリスが必死に掴んだ。
「ネッド! 待って!」
エドワードが立ち止まり、軽蔑を孕んだ冷徹な眼差しで彼女を振り返る。
「……これでもまだ、信じていたんだ」
「……!」
「心底がっかりだ。二度と、俺の前に姿を現すな」
アリスの呼びかけも空しく、エドワードは乱暴な靴音を響かせて去っていった。
残されたのは、静まり返った礼拝堂と、茫然自失としたアリス。
そして震える令嬢たち。
静寂はやがて、押し殺したようなすすり泣きに変わっていく。
「も、申し訳ございません、アリス様。あたしたち……」
「ですが、本当に殿下の使者だと……あれが偽物だなんてとても……」
「もう一度クローディアから、殿下にお目通りの機会を……」
「やめて」
アリスの声には、もう何の感情もこもっていなかった。
「根も葉もない噂が蔓延るなんて、宮廷じゃ当たり前のことなのよ。
口を滑らせた私が悪いの。……あの人をこれ以上、怒らせないで」
聞こえないように、わたしは口元に手を当てて笑った。
(ざまあみろ!)
あの程度で激昂してくれるなんて、本当に扱いやすい操り人形だわ。
(プライドだけ高い世間知らずが、一番やりやすい)
するとそこで。
「……うまくいきましたね」
「……!」
わたしが振り返ると、廊下の影からロビンが足音もなく現れた。
その赤い瞳は、月光よりも深く、冷たく輝いている。
「七回目、成功ですね」
「あんたって……本当に、悪魔ね」
「それは、最高の褒め言葉と受け取っておきます」
射抜くような赤い瞳。
わたしは無理やりロビンから視線を外し、階下を見下ろした。
アリスは親友たちに抱き寄せられながら、
絶望に濡れた瞳で上を仰ぎ、わたしを見つけた。
その救いを求めるような、哀れな眼差し。
わたしはベールの下で――最高に慈愛に満ちた、
悲しみの表情を浮かべてみせた。




