第10話 薔薇の香り
「おめでとうございます、クローディア様!」
学院の校門をくぐるなり、甲高い声が弾けた。
「ついに殿下とご婚約されたとか」
「クローディア様のご献身に、殿下も心を動かされたのでしょうね」
浮足立った声。期待と羨望を孕んだ視線。
取り巻きたちが一斉に群がってくる。
その中心で、わたしはエドワードに
肩を抱き寄せられながら、並んで歩いていた。
彼は周囲の賞賛を、当然のもののように受け流している。
「クローディア、顔色が悪いな。
やはり俺の治療で無理をさせたのではないか?」
心底心配そうに眉を下げ、顔を覗き込んでくる。
その瞳に宿るのは、救い主であるわたしへの配慮と、
所有欲の混じった、支配的な圧だけだ。
世間体も気にしているのだろうが、
本気で――わたしが自分を愛していると、疑いもせず思い込んでいるらしい。
「いいのです、殿下。
あなたの健やかなお姿を拝見できるのなら、この身の痛みなど……」
わたしが微笑むと、エドワードの指が、
逃がさぬように、肩へと食い込んでくる。
「ありがとう、クローディア。
俺をそんなに敬ってくれるのは君だけだ。
君のような聖女こそ、俺の妻に相応しい」
じわりと、さらに指先へ力がこもる。
自分の吐いた言葉に酔いしれながら、
彼は愛おしそうに、わたしの髪を梳いた。
その碧眼に宿る執着に、背筋が冷えた。
それでもわたしは、彼の胸元にそっと顔を寄せ、
幸福に酔いしれる聖女を完璧に演じきる。
(従順なペットを手に入れた子供のようだわ)
――だが。
聖力を絞り出した反動は、想像以上に重い。
ふいに視界が歪み、足元が揺らぐ。
「……殿下、ありがとうございます。
少し……風に当たってまいりますわ。
講義が始まる前には、必ず戻りますから」
「ああ、無理をしてはいけないよ。誰か付けようか?」
「いいえ。一人で、静かに休ませてくださいませ」
ついて来ようとするエドワードを柔らかな笑みで制し、
わたしは足早にその場を後にした。
◆ ◆ ◆
向かったのは、校舎の傍らにあるローズガーデン。
手入れの行き届いた大輪の薔薇が咲き誇り、
人影もまばらな、わたしのお気に入りの場所だ。
噴水の規則正しい水音に包まれながら、
ベンチに腰を下ろし、深く、ゆっくりと息を吐き出す。
(全身が痛い……)
指先一つ動かすのも億劫だった。
体の内側が、まだ焼け付くように悲鳴を上げている。
周囲に誰もいないことを確かめ、胸元のペンダントに指を伸ばす。
陽に照らされて輝く琥珀の聖心、
内側から濁り、ひび割れたような鈍い光を放っていた。
その澱んだ色が、まるでわたしを偽物だと
責め立てているようで、無性に腹立たしい。
(でも、あんたの主人はわたしに負けたのよ)
――その時。
(ん?)
琥珀の聖心が、土台からわずかにずれたような気がした。
微かに、動いたようにも思える。
まるで石の裏側に、何かが挟まっているかのような――。
(何かしら……)
カサッと。
乾いた葉を踏む音が、背後から聞こえた。
反射的にペンダントを服の中へ隠し、振り返る。
「クローディア様」
透き通った声。
薔薇の芳醇な香りに混じって、彼女の気配がふわりと漂う。
「……こちらにいらっしゃるのが、窓から見えましたので」
アリスはわたしから数歩距離を保ったまま、
控えめに立ち止まっていた。
(チッ……)
舌打ちを飲み込み、呼吸を整える。
礼拝堂の一件以来、彼女は登校を控えていたはずだ。
婚約の噂を聞きつけて、わざわざ姿を現した――そう考えるのが自然だろう。
わたしは立ち上がり、裾を整えて膝を折った。
「アリス様。先日は、わたしが差し出がましい真似をしてしまったばかりに、
殿下を激怒させてしまい……本当に申し訳ございませんでした」
「……いいえ。クローディア様のせいではございませんわ」
ちらりと、彼女の顔色を窺う。
青ざめ、血の気が失せている。幾分か、やつれたようにも見えた。
伏せられた瞳の奥にあるのが、本心なのか、
それとも虚勢なのか――読み取れない。
「ご婚約、おめでとうございます」
その声は、わずかに震えていた。
「ありがとうございます」
薔薇の花弁が風に煽られ、わたしたちの間に落ちた。
「……ネッドの体調は、もう大丈夫みたいですね」
「はい。もしかして……見ておられましたか?」
アリスは、小さく自嘲気味に笑った。
「ありがとうございます、彼を救ってくださって」
(なんで、あんたが礼を言うのよ)
沈黙が落ちる。
噴水の水音が、妙に大きく響いた。
「ネッドは……私のこと、何か言っていましたか?」
わたしは一瞬、言葉を失った。
顎に手を添え、思考を巡らせる。
必要なのは真実ではない。
最適な嘘だ。
そして、これ以上ないほど思わせぶりに、悲しげに目を伏せる。
「……いえ、何も」
「まったく、何一つとして?」
(しつこいわね)
「……殿下が仰ったことを、わたしの口から申し上げるのは、
あまりにも憚られますわ」
アリスの瞳が大きく揺れた。
「そうですか。……やっぱり、あの人は誤解したままなのですね」
「……誤解、ですか?」
彼女は、そこで初めてはっきりと顔を上げた。
唇を引き結び、今までに見たこともない強い光を宿した瞳で、わたしを見据える。
「クローディア様。……私、ネッドのことが好きなんです」
ドクッ、と心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「ちょっと身勝手で、子供じみたところもあるけれど
……それでも、私はずっと傍にいたかった。
あの人の病も、本当なら私が治してあげたかった」
握りしめる指先が、白くなっている。
「でも、ネッドはあなたを選んだ。
だからといって、この気持ちを、すぐ整理できないのです」
「……アリス様」
「ですから、もう少しだけ……。
あの人を想うことを、どうかお許しください」
そう言って、アリスは今にも泣き出しそうなほど歪な微笑を浮かべた。
彼女は、わたしに返答の隙すら与えず、
薔薇の花弁を散らすように踵を返し、その場を去っていった。
一人、取り残される。
遠ざかる背中を追うこともできず、ただ立ち尽くすしかなかった。
だが、胸の奥では、不安が急速に広がっていく。
(――まずい)
想うことを許せ……だと?
膝の力が抜け、崩れるようにベンチへ腰を落とした。
(あの女、まだ諦めてない)
靴の先で、ローズガーデンの土を乱暴に蹴り上げた。
しつこい。
反吐が出るほどしつこい女だ。
丁寧な言葉で飾ってはいるが、
結局のところ、あの女も王妃の座――
王冠に執着しているのだけなのだ。
あんな無能で幼稚な王子に、
これほど心底惚れる理由など、他にない。
(あれじゃあ結婚してからも……
何かの拍子に殿下に近づいてくる可能性がある)
脳裏に、最悪の想像が走る。
(……あの馬鹿王子だって、ほとぼりが冷めれば、
元婚約者を愛人として迎え入れるかもしれないわ)
世継ぎを産む前に、そんな事態になれば。
これまで積み上げてきたものは、すべて水泡に帰す。
王妃の座から引きずり下ろされ、泥を啜る未来。
あの底知れぬ悪魔の赤い目が閃いた。
(……九回目)
ベンチの木材に、爪を立てる。
(これで本当に最後よ。……ロビン)




