終
目を離すとすぐにそこかへ行きそうになる息子の名を呼び、深冬が抱き上げた。自由に駆けまわれなくて不満なようだった。だが、深冬の腕から章好が受け取り肩車をしてやると歓声をあげた。
東京を離れて五年、章好は出羽に帰り深冬と二人で再び道場を構えた。焼け落ちた村に住むことはできなかったので、かつて出稽古に出向いていた隣村に居を構えた。章好のことを覚えている人間が隣村には多く、驚かれたが歓迎もされている。
深冬も雪深い出羽での暮らしにはじめは慣れぬようだったが、いまでは章好よりも村人たちと親交が深いように見える。息子が生まれ母になったことで深冬にはかなわない、と思うことすらあるのだ。
東京では敬が章好の望みどおり、章好と深冬は死んだものとしてくれた。深冬は敬の妻に礼を言えなかったことを悔やんでいたが、敬とはいまでも密かに文のやり取りをしているので、敬の妻も深冬が元気に暮らしていることは分かっているだろう。敬からの文で陸軍大臣の又甥との縁談もなかったことにできたと知った。
目的の場所に着いて、章好は息子を肩から下ろした。風化しつつある墓石の中、ひとつだけ新しい墓がある。睦の墓だ。出羽に戻ったとき、最初に深冬とふたりで作った。
深冬と二人で故郷に戻ってきてようやく、睦の死と向き合うことができた。それまで墓も作らず、一度も手を合わせにくることもなく、随分とひどいことをしていた。
持参した花を墓に供え、深冬は息子に手を合わせるよう促した。幼い子はまだ墓参りが何なのかよく分かっていないようだ。首をかしげつつも、目を瞑って手を合わせている。
章好も手を合わせた。久しぶりだな。俺は元気にやってるぜ。お前はどうだ。またくるから、じゃあな。
何を言えばいいのかよく分からないから、いつも同じようなことばかり語りかけてしまうが、睦はそれでも章好の気持ちを分かってくれているだろう。相変わらずだ、と笑っているかもしれない。
章好が目を開けても、深冬はまだ熱心に手を合わせている。いつもそうだ。以前、何を語りかけているのか聞いたが、ありがとう、と言っているのだと言われた。だが、それだけではないだろう。
墓参りを終えて村へと帰る。その途中、風邪が吹いて桜の花びらが舞った。
「好春、桜よ。綺麗ね」
深冬の声が聞こえた。風に舞う桜は、まるでなごりの雪のようにも見えた。桜が咲き、出羽にも春が訪れた。
「先生、帰りましょう」
立ち止まっていた章好に、深冬に抱かれた好春が手を差し伸べていた。
「ああ、帰ろうか」
好春の手を握ると、深冬が好春の反対の手を握り、二人で好春を挟むようにして歩いた。
章好と目が合うと深冬がほほ笑んだ。好春は章好と深冬を見上げてにこにこと笑っている。
深冬が言ったことが、いまはよく分かる。章好も深冬とともにあるだけで、それだけでよかった。
幸せだ。ありがとう。
深い冬は春に変わり、名残の雪はとけて消えた。




