春立ちて(後)
宿を出てから、章好は深冬と出会う前の頃のように安い長屋に住み始めた。用心棒の仕事は変わらずにしているが、最近は見張り中にぼんやりすることが増えた。
深冬は今頃どうしているのだろうか。陸軍大臣の又甥との縁談はどこまで進んだのだろう。敬は章好に腹を立てているのか、愛想を尽かしたのか、章好が長屋住まいになってから一度も章好のもとにはきていないので深冬の近況を章好は知らなかった。
そもそも宿を出てからの居場所を敬に教えていないのだし、深冬のことを知りたければ章好が敬を訪ねればいいのだが、それはできなかった。最後に敬に言われたとおり章好は深冬から逃げたのだ。
深冬の気持ちは分かっているつもりだ。何を望んでいるのかも分かっているつもりだ。だが、それを叶えてやらなかったのは怖かったからだ。自分にはそんな資格がないと思ったからだ。結局は、自分のためということなのだろう。
泣いている深冬の顔ばかりが思い浮かぶ。せめて、深冬に惚れたという陸軍大臣の又甥が優しい男であればいい。深冬が章好のことなど忘れて幸せになってくれればいい。
質屋の見回りをしながらため息をついた。吐く息が白い。三月になったというのに、雪でも降りそうな寒さだ。
仕事を終えて長屋に帰る。待つ人のいない寒い家に帰るのは寂しいものだった。
「先生」
女の声が聞こえて、はっとして振り返った。深冬が章好の居場所を突き止めてやってきたのか。だが、いくら周りを見渡しても深冬はおろか女の姿すら見えなかった。
ついに幻聴が聞こえるようにまでなったか、と口の端に嘲笑を浮かべ、長屋の戸に手をかけようとした瞬間、勝手に長屋の戸が開いた。
驚く間もなく、鳩尾に衝撃を感じた。肺の中の空気を吐き出し、膝を追って倒れ込みながら、章好の意識は薄れていった。
目が覚めると見えたのは木箱の山だった。視線を動かすと材木も見えた。物置か何かの倉庫なのかもしれない。
腕を動かそうとしたが、後ろ手に縛られていて動かせなかった。立ち上がろうともしたが、肩を押さえこまれて動けなかった。縛られた状態で転がされ、押さえつけられているのだ。刀も取り上げられてしまったらしい。頭上で何人かの男たちがやり取りをしている。そのうちのひとりが、章好が目を覚ましたことを自分たちの頭に伝えに行ったようだ。
どうやら章好は長屋に帰ったところを襲われ、この薄暗い場所に閉じ込められているらしい。普段ならば、長屋に他人が潜んでいれば気配で気づいただろうが、深冬に呼ばれたような気がして動揺したせいで気づけなかった。だが、誰が何の目的で章好を捕らえたのだろう。
人の話し声とともに光が差し込んだ。逆光でよく見えなかったが、中に入ってきた人間が章好に近づくと姿がよく見えた。白い背広を着た三十にならないような若い男だ。神経質そうで蛇に似た目をしているが、官僚のようにも見える。
「あなたが小野寺章好ですか。ぼくのことが分かりますか?」
「知らねえよ、お前みてえな優男」
「ぼくとあなたは初対面ではないのですよ。六年前に一度会っている」
六年前といえば深冬と会った頃だ。その頃、この男と会っただろうか。男をじっと見て、章好は思い当たることがあった。
「まさか、深冬をさらおうとした洋装の男」
「正解。戸沢定之と申します」
男の名は分かったが、なぜ章好を捕らえたのだろうか。
「状況が読めない、という顔ですね。隻眼で顔に刀傷のある男を覚えていませんか?」
忘れるわけがない。睦を殺し、村を焼いた男だ。なぜ定之がその男を知っている。章好の顔に浮かぶ動揺を見て、定之は楽しげに笑った。
「ぼくの父です」
定之は章好が定之の父を殺してからのことを語りはじめた。定之の父の部下はほとんど葉隠に捕らえられたが、残されたわずかな部下としばらくは相変わらず強盗のようなことをしていたらしい。だが、定之が成長してからは奪った金をもとに海運会社を立ち上げ、女を売って西洋の武器を取り寄せ反政府組織に売っているそうだ。章好が閉じ込められているのは取り寄せた武器を保管している倉庫だった。
「強盗まがいのことをしていた父ですからねえ、仇討ちをされたのも仕方のないことかもしれません。しかし、父の残した部下を引き継いだぼくとしては、一応筋を通さなければならないのです。ここにいるのはぼくの部下ですが、父の代からいる者たちは仇討ちをしろ、とうるさくて」
「それで俺を捕まえたわけか」
「まあ、あなたには商品を横取りされた件もありますし。今はあなたのご友人の宿屋で仲居をしていますよね。大層な美人に成長した。惜しいことをしました」
「どうして、深冬のことを知っている?」
「あなたと初めてお会いしたとき、連れて行った部下の中にあなたのことを覚えている者がおりまして。それから六年間、あなたのことを調べさせていただきました。あなたの周りの人のこともね。前時代的な仇討ちなんてさっさと済ませてしまおうと思ったのですが、あの宿屋が葉隠に関与していることが分かりましたから、手出しができなかったのですよ」
敬は洋装の男の正体も行方も掴めなかった、と言っていたが本当は知っていたのではないだろうか。洋装の男が、章好が殺した男の息子だと知って、章好と深冬を宿屋に居候させていたのかもしれない。もしそうなのだとしたら、章好は深冬から逃げただけではなく、敬の配慮まで無駄にしてしまったことになる。
「まあ、この六年間も無駄ではありませんでしたが。待ったおかげで、気乗りのしない仇討ちが面白い見世物になりそうです」
「どういうことだ?」
「うーん、見世物になるかどうかは、今後の展開次第ですねえ」
仇討ちのために章好を捕らえたのならば、すぐにでも殺せばいいのだ。そもそも、長屋で待ち伏せをしていた時点で殺せたはずだ。あのときの章好は油断していた。面白い見世物とは何だ。
定之の部下が定之に近づき、何か耳打ちをした。それを聞いた定之は口の端を吊り上げ、酷薄な笑みを浮かべて章好を見た。
「さあ、面白い見世物の始まりです」
定之が両手を広げて見せるのと同時に、倉庫に光が差し込んだ。
「先生?」
これは本当に深冬の声だ。聞き間違いではない。面白い見世物、という言葉に嫌な予感がした。
「おい、あいつに何かしようってんじゃねえだろうな」
「おや、ぼくは仇討ちのためにあなたを捕らえたのですよ? ただ殺すだけじゃあつまらないでしょう?」
「あいつは関係ねえ」
「あの娘がこなければあなたを殺すだけ。くればあの娘を利用してあなたを苦しめてから殺す。その違いだったのですが、あなたの反応を見る限り、やはり面白い見世物になりそうだ。娘は外国に売ればいいし一石二鳥です」
「深冬は関係ねえって言ってるだろう!」
「関係ないはずがない。それはあなたが一番よくお分かりのはずです。現にあなたは、ぼくが金で雇った女に『先生』と呼ばれただけで隙ができた。小野寺章好、あの娘が大切ならば手放すべきではなかった。愚かな男だ、同じ過ちを繰り返すなんて」
長屋で聞こえた声は、定之のしかけた罠だったのか。悔しさに歯を噛み締めた。
深冬がこちらに近づく足音がする。徐々に深冬の姿がはっきりと見えた。袴をはき、手には竹刀を持っている。深冬も章好を見つけたのか、駆け寄ろうとしたが定之の部下に立ちはだかられ、章好に近づくことはできなかった。
「先生! 先生、ご無事ですか?」
「馬鹿野郎! どうしてこんなところにきやがった!」
「文が届いたんです。先生を助けたければ、ひとりでこの倉庫にこい、と」
「健気なお嬢さんだ。こんなおもちゃまで持ってきて」
定之が深冬に近づき竹刀を取り上げた。深冬は抵抗したが、男の力には敵わなかった。だから、章好は深冬に剣を教えたくなかったのだ。なまじ剣を学んだだけに、自分が多少は強いのだと思ってしまう。いくら剣の腕が立っても、腕力では男に敵うはずがないというのに。睦がそうだった。
「お嬢さん、この男はね、ぼくの父親を殺したんですよ。もっとも、ぼくの父親はこの男の妻を殺したのですが」
深冬が目を見開いた。章好が語れなかったことを、なぜ定之の口から深冬に聞かせなければならないのだ。
「弱い男ですよ。妻を守れず、今度はあなたのことも守れない。この男は自らあなたを手放したのですからねえ。そんな男をあなたは助けたいのですか?」
定之が深冬の白い頬を撫でた。やめろ、と叫びたかったが口を開こうとした瞬間、背中を踏みつけられた。
「助けます」
「へえ?」
「先生に助けられたから、いまのわたしがあるのです。先生がどんな人だろうと、どんな過去を持っていようと、わたしを救ってくれたのは先生だもの。先生が先生であることに変わりはないもの。先生を助けるためなら、何だってします」
「あなたのそんな思いに応えず、ほかの男に嫁がせようとしたのに?」
「それでも」
言葉を区切って深冬は章好を見つめた。
「わたしは先生をお慕いしております。先生がわたしをどう思っていても、わたしが先生を好きだから」
「深冬」
「素晴らしい」
芝居がかったしぐさで章好と深冬を交互に見やり定之は拍手をした。何かおかしなことを考えているに違いない。
「お嬢さん、何でもすると言いましたね」
「先生を助けるためなら」
「それじゃあ、ここで着物を脱いでください」
深冬の頬がさっと赤く染まった。唇を噛みしめている。章好も怒りで腸が煮えそうだった。定之は嫌らしい目つきで深冬を見ている。
「どうしたんですか? 早くしないと、愛しの『先生』をぼくの部下が傷つけてしまうかもしれませんねえ」
「やめろ、深冬っ。俺なんかのためにそんなことするんじゃねえ」
小刻みに震える手で、深冬は袴の紐を掴んだ。紐が緩められ、袴が深冬の足もとに落ちる。着物の下の長襦袢が見え、章好を押さえこんでいる男が唾を飲む気配がした。定之も深冬に釘づけになっている。
深冬の手が長襦袢の上に着ている着物の帯に伸びると、章好を押さえつける力が緩んだ。その瞬間、渾身の力をふりしぼり、男をはねのけた。後ろ手を縛られたまま深冬のもとへ駆ける。
「深冬っ」
「先生っ」
「おい、お前ら何してやがる。くそっ」
夢中で深冬と定之の間に入りこんだ。視界の端で定之が背広の胸に手を突っ込み、何かを取り出したのが見えた。ぱん、と乾いた破裂音がし、肩に熱と痛みを感じた。深冬が小さな悲鳴を上げた。
定之は銃を構えていた。どうやら肩を銃で撃たれたらしい。だが、弾は肩をかすっただけだ。血は出ているが深手ではない。
銃を撃ったことで興奮したのか、定之は肩で息をしている。今までの冷静さも欠いているようだった。章好の背後で深冬が身じろぎした。章好の手を縛っている縄を切っている。
「気づいていないふりをしてください。着物の中に懐剣を隠していました」
小さく頷くことで、分かったと伝えた。
「おい、動くなよ。動いたら、お嬢さんの綺麗な顔に風穴を開けるぜ」
定之の部下が章好と深冬を囲む。定之は本当に深冬を撃つだろうか。引き金は引くかもしれないが、殺しはしないと思う。おそらく定之は人を殺したことがないだろうし、銃の扱いにも慣れていない。章好の肩を撃っただけで興奮しているくらいなのだ。よく見れば銃を握る手は震えている。命のやり取りは部下に任せきりだったに違いない。人を殺すだけの覚悟など持っていない男だ。
「深冬、縄が切れたら俺はあいつに向かって走る。お前は俺から離れるな」
一か八かではあるが、返事をする代わりに深冬は章好の手を握った。その手を握り返した。離したくない。もう手放したりしない。
「お前ら、やれ」
定之が部下に指示をするのと、章好の手を縛っていた縄が切れて走り出したのは同時だった。深冬は懐剣を持って章好の後ろにぴたりとついている。
舌打ちをして定之は引き金を引いたが、弾は章好にも深冬にも当たらなかった。定之の銃弾に当たることを恐れたのか、定之の部下たちは章好と深冬には近寄らなかった。
銃を握る定之の手首に手刀を叩きこむと、定之は銃を落とした。落ちた銃を定之にも部下たちにも拾えないよう材木の下に向けて蹴り飛ばす。銃がなくなると定之の部下たちが頭を守ろうと向かってきた。
だが、部下が章好を捕らえるよりも、章好が定之を殴る方が速かった。細身の定之は簡単に膝を折った。鼻血が地に落ちた。
「お前たち、何をしている! この二人を捕らえろ! 殺してもいいぞ」
定之の命令に部下たちは再び章好と深冬に向かったが、突如薄暗い倉庫に光が満ちた。倉庫の入り口が大きく開かれている。
「動くなっ」
聞きなれた声が倉庫に響いた。敬の声だ。音もなく敬の部下が定之の部下たちを捕らえていく。定之も敬に縄をかけられた。
懐剣を握り締めたまま、深冬は定之を睨みつけていた。その目には憎しみが込められているように見えた。強く握りすぎているせいで震える深冬の手を握り締める。
「おかしなことを考えるなよ。あいつを傷つければ、お前の気が済むのか?」
「わたしのためではありません」
「俺のため? 違うだろう。俺は嬉しくねえよ」
懐剣を握り締める力が緩み、懐剣は落ちて地に刺さった。
「はい、先生」
深冬に言いながら章好ははっとした。事切れる前に睦が章好に伝えたかったこと。それは恨み言ではなく、仇討ちはしないでほしい、ということだったのではないか。
定之を見る深冬の目を見てようやく気づいた。睦は仇討ちを望むような女ではなかった。章好に恨み言を言うような女でもなかった。
章好が罪の意識から、最期に睦は恨み言を言おうとしていたと思いこんでいただけだ。最期の表情は確かに安らかではなかったが、憎しみに満ちていたわけではなかったはずだ。
睦を守れなかった罪と仇討ちとはいえ人を殺した罪から逃れるために、勝手に自分は幸せになれる人間ではないと決めこみ、失うことを恐れ深冬から逃げた。そして危うく本当に再び大切な人間を失うところだった。
定之に言われた通りだ。何度、同じ過ちを繰り返すつもりだったのだろう。だが、深冬はここにいる。章好の隣で生きている。
「深冬」
握り締めた手をそのまま引き寄せると、深冬は章好の腕の中に収まった。あたたかい。深冬の肩に顔を埋めた。泣きたくなった。もっとはやく、こうしていればよかった。敬から深冬の縁談を告げられたあのときに、拒まずに深冬を抱きしめていればよかった。
「好きだ」
「え」
「好きだ。深冬、お前が好きだ」
「嘘」
「嘘じゃねえ」
「わたしは先生のことが好きだけれど、先生はわたしのことなんて何とも思っていないはずです。だから、わたし」
「今までひでえことをしてきたな。俺はあの男が言ったとおりのろくでなしだよ」
「そんなことないです」
「それでも、俺を好いてくれるかい?」
「言ったじゃないですか。わたしが、先生を好きなのです。わたしは、先生がどんな人だって先生をお慕いしております。先生は『先生』です。幸せにしてほしいなんて思っていません。先生とともにあるだけで、わたしは幸せなんです。だから、それで、いいじゃないですか」
深冬の腕が章好の背に回された。深冬は泣いているようだった。
どれほどそうしていたのか分からないが、肩に手を置かれた。振り返ると敬が立っていた。敬は柔らかい笑みを浮かべていた。
「ようやく、答えにたどりついたようだな」
「ああ。随分と遠回りしちまったが」
六年前の洋装の男の正体が定之だということ、章好との関係についても敬は以前から掴んでいたらしい。だが、あちらが尻尾を掴ませるような動きをしなかったため、今日まで放っておいた。深冬が文で呼びだされるのを敬の妻が目撃し、敬に知らせたのだそうだ。おかげで定之たちを捕まえることができた。
「なあ敬、お前には今まで散々世話になって迷惑もかけてきたが、最後にひとつ頼みを聞いてくれねえか」
「何だよ、最後だなんて水臭い」
「俺と深冬があいつらに殺されたことにしちゃくれねえか」
「何を言っているんだ、章好」
深冬も驚いて顔を上げた。だが、決めたのだ。
「生まれ変わったつもりで、もう一度やり直してえんだ。深冬を連れて、出羽に帰るつもりだよ。俺が死んだことにすれば、お前ももう俺の監視をしなくていいだろう? それに、深冬も陸軍大臣の坊ちゃんとの縁談を破断にできる」
「そういうことならば、頼みを聞くのもやぶさかではないが、深冬ちゃんはどうだい?」
「わたしは先生と一緒にいられればそれで幸せです」
章好と深冬の思いが変わらないと分かったのか、敬は肩をすくめて苦笑いをして、一言、分かった、とだけ言った。




