春立ちて(前)
深冬と暮らし始めて五年以上経った。年が明ければ深冬は十八歳になる。昔、敬が言っていたとおり深冬を目当てに宿にくる客もいるらしい。章好からみても深冬は綺麗な娘だった。
さすがにいつまでも同じ部屋で寝起きするのはどうかと思い、深冬が十五歳になってからは、章好は今までとおりの部屋、深冬は母屋の空き部屋で寝るようになった。食事は今でも都合がつけば一緒に食べているが、その回数も年々減っている。
歳を重ねて深冬は宿の仕事を何でもこなせるようになり、朝から晩まで忙しく働くようになった。夜に仕事に出る章好とは顔を合わせることもあまりなくなった。深冬は忙しさの合間を縫っていまだに剣の稽古をしているようだが、早朝に行っているらしく章好が立ち会うことはできない。
それでいいのかもしれない。いつまでも章好とばかり一緒にいては、深冬は自由になれないだろう。章好との暮らしが幸せだと、かつて深冬は言っていたが、深冬のための幸せをこれからは深冬自身が築いていくべきなのだ。いつまでも章好のもとにいる必要はない。
おかしなものだ。最初は、面倒な拾いものをしてしまったと思っていた。責任を果たすために深冬と暮らしていたはずだった。それが、今となっては深冬の将来を思うとやるせない思いがする。
そんな思いもあって深冬と顔を合わせるのが何だか気まずい。なるべく顔を合わせたくない気もするし、いつまでも見ていたい気もする。
何を考えているのだ。自嘲の笑みを浮かべ、章好は宿の裏庭に向かった。素振りでもして頭を空にしたかった。だが、そこには袴姿の深冬がいた。立ち去ろうと思ったが、深冬の視線が章好をとらえる方が速かった。
「先生。お久しぶりです」
「あー、ああ、そうだな」
まだ昼時だ。深冬は昼食の後片付けをしているはずではないのか。章好の疑問を感じ取ったのか、午後から休みをもらったのだと説明された。今日は客が少ないらしい。
「最近、あまりお話できていなかったから、ここで会えて嬉しいです」
「そうかい」
深冬の頬は薄く染まっていた。汗が浮くほど熱心に素振りをしていたからだろう。素振りを始めると、深冬はじっと章好を見つめていた。型を学ぶためなのだと分かっているが、それ以外の熱っぽさを感じるのは気のせいだろうか。深冬と顔を合わせるのが気まずい理由に、深冬の視線も含まれていた。考えすぎだ。深冬が女になりつつあることを意識し過ぎているだけに違いない。
「深冬、お前惚れた男はいねえのか?」
「えっ、せ、先生、何をおっしゃるんですか」
竹刀を振りながら尋ねると、深冬は真っ赤になって持っていた竹刀を落した。この反応を見れば鈍い章好にも分かる。深冬には好いた男がいるのだ。ただ、それが誰なのかは考えないようにした。
「いや、何でもねえよ。ただ、お前ももう十七なんだよな、と思っただけだ」
「先生、あの、わたし」
「じゃあな。さっきの素振り悪くなかったぜ」
深冬はまだ何か話したそうだったが、汗を拭いつつ井戸へ向かった。水を頭からかぶったが、惚れた男がいるのかと聞かれたときの深冬の顔が頭から離れなかった。
年が明けて深冬は十八歳になった。年明けからしばらくして、仕事を終えて朝方に帰ると敬に母屋に呼ばれた。敬の妻もいる。話があると言われたが、察しはついている。
「章好、すまないな、仕事帰りで疲れているだろうに。実は、深冬ちゃんのことで話したいことがある。深冬ちゃん目当ての客がいることは、お前も知っているよな?」
「ああ。それがどうした」
「その客の中に陸軍大臣の又甥がいる。まだ学生だがな。一度、大学の友人たちと夜遊びの帰りにうちに泊まって以来、深冬ちゃんに会うためだけに月に何度もくるようになった上客だ」
敬が何を言おうとしているのかは分かっている。敬はこの先を言ってもいいものかためらっているようだった。気遣わしげに章好の様子をうかがっている。だが、章好の顔にはどんな表情も浮かんでいないだろう。
「その客が、深冬ちゃんを妻にしたいと言ってきた。大学を卒業したら、すぐに結婚して洋行に連れていきたいとも」
客が深冬と結婚したがっている。そこまでは予想できたが、まさか外国に連れて行くとは思わなかった。章好は驚きに目を見開くしかなかった。だが、かえって覚悟が決まった。拳を握りしめる。強く握りすぎて少し痛かった。
「章好、今ならまだ間に合う。深冬ちゃんには言い交わした仲の相手がいると言えばいい。その相手は」
「分かったぜ、敬。深冬とその陸軍大臣の又甥だっけか、その客との話進めてくれ」
「なつ、本気で言っているのか?」
敬が身を乗り出してきた。敬の妻も驚いているようだった。
「当たり前だ。玉の輿じゃねえか、何不自由ない暮らしができるようになるだろう。それに、断ったら陸軍大臣が葉隠の敵になるんじゃねえのか?」
「それは問題ないと思う。深冬ちゃんと俺の繋がりが葉隠に影響を及ぼすとは」
敬も確信を持って問題ないとは言えないだろう。陸軍大臣は政府で絶大な影響力を持っている。葉隠は主上、政府にとって影の戦力だが陸軍は表の軍事力なのだ。陸軍が葉隠の動向を探っていてもおかしくはない。葉隠の幹部である敬が営む店の娘と陸軍大臣の親類との縁談を断れば角が立つだろう。
「小野寺さん、本当によろしいのですか?」
今まで黙っていた敬の妻が口を開いた。敬の妻は鋭い眼差しで章好を見据えている。
「ああ。深冬にとって悪い話じゃないはずだ」
「あなたは、本当にそれでよろしいのですね?」
「もちろんだ」
「分かりました。深冬、そういうことだよ、分かったね」
敬の妻が襖を開けると、隣の部屋に深冬が控えていた。深冬は今にも泣き出しそうな目で章好を見つめている。ひどいことをしているような気持ちになった。
先生、と深冬の唇が動いたが声にはならなかった。
「深冬、縁談が決まったら三つ指ついて、はい、とだけ言やあいいんだよ」
章好の言葉を聞いて敬は章好を睨んだ。深冬の顔に浮かんでいるのは絶望だ。瞬きをすると深冬の白い頬に涙が伝った。深冬は章好に言われたとおり三つ指をつき、深々と頭を下げた。
「はい、分かりました」
それだけ言うと逃げるように深冬は去った。残された章好の胸ぐらを敬がつかむ。敬は本気で怒っているようだ。だが、殴ることはせずただ章好を突き飛ばすだけだった。
「行けよ、深冬ちゃんが泣いている」
「俺が深冬にできることなんて、何もねえ。それより、この縁談ちゃんと進めてくれよ」
深冬のもとに行ってどうするというのだ。深冬を傷つけて泣かせたのは章好だ。章好は自分が人の心の機微に鈍いという自覚があるが、深冬が何を思ったのかはさすがに分かる。だからこそ、章好にできることなど何もない。
本当は泣かせたいわけではない。ため息をつきつつ宿屋の部屋に戻ると、背中に衝撃を感じた。振り返らなくても分かる。深冬が章好に抱きついたのだ。心臓が跳ね上がった。
「先生」
「仕事はどうした。早く行けよ」
「先生、わたしは先生に嫁に行けと言われればどこにでも行きます。それが先生へのご恩返しになるのなら。先生がわたしのことを思ってそう言ってくださるのなら。先生の望みなら。ただ」
深冬の声は涙で震えている。本当は嫁に行きたくないのに強がっている。
「ただ、最後に六年前の続きをさせてください。お願いします」
腰に回された深冬の手が、章好の着物を握り締めた。六年前。深冬が章好の長屋にきた夜のことを言っているのだ。深冬の腕を振りほどき、振り返ると深冬の涙に濡れた瞳が章好をまっすぐに見つめていた。悲壮な決意を感じさせる目だった。
六年で深冬は美しくなった。見目だけではない、心も美しいのだ。章好とは違う。章好が触れて汚してはならない。涙を拭おうと差し伸べかけた手を握り締めて引っ込めた。
「そういうことは、旦那になる男にするもんだぜ」
「先生は、あのときおっしゃいました。好いた相手にすることだと。だから、わたしは」
「深冬、仕事に行きな」
わざと深冬の言葉を遮り、深冬の言いたいことに気づかないふりをした。
「わたしが、郭育ちだからですか? 汚れた女だとお思いだからですか? わたしのこと、お嫌いですか?」
「そんなわけがあるはずねえ」
「それなら、最後に思い出だけ。先生、わたし」
冷たく突き放そうとしても深冬はすがりつこうとする。
「お前は綺麗だよ。汚れてるのは俺だ。だから、俺がお前を汚しちゃならねえんだ」
「そんなことないです」
「俺は人殺しだぜ」
深冬の肩が揺れた。驚いているのだ。はじめから、こう言えばよかった。深冬も人を殺した男に泣いてすがろうとは思わないだろう。
「俺はお前を幸せにはできねえ。お前は、お前を好いてくれた男と幸せになれよ」
日暮れまで部屋で眠ろうと思っていたが、立ち尽くす深冬を置いてもう一度母屋に向かった。深冬が追いかけてくる気配はない。母屋にはまだ敬と敬の妻がいた。
「敬、今まで世話になった。俺はここを出て行く。深冬の縁談、よろしくな。お前の養女ってことにでもしてくれよ」
深冬の縁談話を聞かされたときから、深冬を置いて長屋暮らしに戻ろうと思っていた。深冬が部屋にやってきて取った行動で、今すぐにでも出て行った方がいいと決めたのだ。
「それも深冬ちゃんのためか?」
どきりとした。何も言い返すことはできなかった。
「違うだろう。深冬ちゃんの縁談に賛成したのも、急にここを出て行くのも自分のためだ。逃げるな、章好。深冬ちゃんからも、自分からも」
敬の言葉が胸に突き刺さる。だが、これ以上ここで深冬と暮らすことはできない。敬に今までの宿代にあたる分の金を渡し、刀だけを持って宿を出た。
敬が章好を呼ぶ声がしたが、振り返ることなく章好は宿を後にした。




