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氷の楔

 忘れ物はないか、と言う睦に章好は眉をしかめて見せた。

「隣の村まで出稽古に行くだけだろうが。お前の方こそ、俺がいない間、大丈夫なんだろうな?」

「あたしは大丈夫ですよ、この村であなた以外にあたしより強い男なんていないんですから。それよりも、あなたの方が心配だわ。向こうの方々に失礼のないようになさってね」

「分かってる。まったく、お前は女房ってより母親みてえだな」

「あら、ほめてくれているのかしら」

 ふん、と鼻を鳴らしても睦は微笑むだけだ。これでは子ども扱いされても仕方がないかもしれない。

 睦は章好よりも三歳年上の幼馴染だった。五年前に章好の両親が流行病で死んだ後、夫婦になった。どちらかが一緒になろうと言ったわけではない。夫婦になるのは二人にとって当然のことで、言葉など必要なかったのだ。

 父が残した道場で村の子どもたちに剣や読み書きを教え、たまに近隣の村に出稽古に行く。村人たちからは非常時の用心棒だとも思われている。それが章好と睦の暮らしだった。

「二、三日で戻る。それまでは、道場をよろしく頼む。最近は、北での戦に便乗して野盗が出るって噂も聞くからな、気をつけろよ」

「もう、大丈夫だと言っているじゃないですか。野盗なんてあたしが追い返しますよ」

 睦の剣の腕を疑っているわけではない。睦は自分でも言うとおり、章好以外の男には負けたことがない。だが、それは村の中での話だ。野盗にかなうかどうかは分からない。

 海を越えた蝦夷地で将軍家の残党が政府軍と戦をしている。東北は昨年の国を二つに分けた戦で、将軍についた領主が多かったためか今でも治安が乱れていた。蝦夷地でも東北でも戦は終わっていないのだ。

 睦のことは心配だったが、それ以上気遣うようなことは照れ臭くて言えなかった。

「それじゃあ、行ってくるぜ」

「はい。いってらっしゃい」

 笑顔で手を振る睦に軽く手を上げ、隣村に向かって歩き出すと、近所の子どもたちが章好の姿を見つけ、後ろをついてきた。

「先生、どこ行くの?」

「隣の村だ。すぐ帰ってくるから、稽古さぼんじゃねえぞ」

「はーい。いってらっしゃい」

 子どもたちに「先生」と呼ばれるのはいまだに慣れない。くすぐったいような気持ちになる。章好が留守の間も睦が子どもたちに稽古をつけるだろう。

 夕暮れ前に隣村に着くと、そこでも野盗の襲撃を恐れていた。隣村には道場がなく、剣を習いたい村人のために章好が月に一度訪ねているのだ。腕の立つ人間がいないことを村人たちは不安に思っているようだった。

 歓迎の宴席で聞いた噂によれば、野盗は村を襲って食糧や武器になりそうなものをすべて盗み、将軍家の残党に高値で売り飛ばしているらしい。そして村は跡かたもなく焼き払われる。残るのは屍ばかりなのだそうだ。

 まさか章好が不在にしている数日の間に村が襲われるとは思わないが、どこの村でも恐怖に怯えているのだから、村に戻ったら村長と防衛について話し合った方がいいかもしれない。

 二日間の隣村での出稽古を終えて村に戻った。帰路で章好は村の方向に黒い煙と夕焼けのような赤い色を見た。嫌な感じがする。

 全力で駆けた。近づくにつれて村の様子が伝わってくる。火事か。その割には逃げてくる村人がいないし、火消しが行われている気配がない。

 火事ではない。焼き打ちだ。隣村で聞いた噂が脳裏によみがえる。心臓が大きく跳ねた。村の入り口にたどり着いたときには、村は消えていた。

 何が起きた。野盗に襲われたのか。たった三日間で村が消えたというのか。

 睦はどうしている。はっとして道場に向かって駆け出すと、道場は燃えていた。遠目に見て燃えていたのは道場だったのか。

 母屋に入ると子どもたちが倒れていた。斬られている。隣村に出かける章好を見送っていた子もいる。だが、睦の姿はなかった。

「睦っ!」

 名を叫び道場に入ると見知らぬ男たちがいた。男たちが振り返る。隻眼の男が章好を見て下卑た笑みを浮かべた。

 お前の女房か。そう言われた気がしたが、頭に入ってこなかった。隻眼の男の陰に倒れているのは睦だ。白い肌が鮮血に染まっている。頭が真っ白になる。信じられない。

 気づいたときには隻眼の男に斬りかかっていた。男の眼帯が落ち、顔の縦に一本筋が刻まれた。

 男たちが何か叫んでいる。だが耳に入らない。何人かが章好に斬りかかってきたが、すべて斬り倒した。視界が一瞬赤くなった。捨て台詞を残して男たちは去った。

「睦、睦っ」

 横たわる睦を抱きしめ、章好はただ名を呼ぶことしかできなかった。睦の瞼がかすかに動き、漆黒の瞳が章好を見つめた。

「あなた」

 か細い声で章好を呼び、一筋の涙を流したきり睦の体は徐々に温かみを失っていった。その顔は安らかとは言えなかった。悲しみや憎しみに満ちているように見えた。最後に睦は何を言おうとしていたのだ。

 おそらく章好への恨み言だ。どうして早く帰ってこなかったのか。どうして助けてくれなかったのか。

 そう言いたかったに違いない。章好は睦を守れなかった。村人も誰も守れなかった。野盗が出ることを知っていて村を留守にした。睦を気遣う言葉をかけることすらできなかった。章好が村を留守にしなければ結果は違っていたかもしれない。

 悲しみと後悔が胸を占める。何も考えられない。冷たくなっていく睦の体を抱きしめ、章好はただその場に座り込んでいた。睦の血が着物に重くしみ込んでいく。

 どれほどそうしていたか分からない。複数の男の声が聞こえる気がする。睦を殺した連中が章好を殺しに戻ってきたのかもしれない。それならばそれでいい。

「村の生き残りか」

 声をかけられ振り返ると、忍装束を着た男が立っていた。章好と睦の姿を見て男は何が起こったか察したらしい。

「すまない。賊を追っていたのだが、間に合わなかったようだ」

「あんたのせいじゃねえ。俺のせいだ。俺が守れなかった」

 男は自分にも村が消えた責任があると思っているようだがそんなことはない。道場主をやっているくせに役に立たない章好のせいだ。

「この村を襲った連中の顔を見たのか?」

「ああ。頭らしい奴の顔に傷もつけた」

「そうか」

 それがどうした。男は何かを考え込んでいるようだった。

「おれと一緒にこないか? 連中の顔を知っている君は戦力になる。それに、剣の腕も立つのだろう?」

「あんた、何者なんだ?」

「おれは玉松敬。主上お抱えの葉隠という組織に所属している。政府に反抗する人間に影で制裁を与えるのが役割だ。この村を襲った連中は賊軍と通じている、制裁の対象だ」

「本当か? あんたについていけば、仇討ちができるのか」

「殺しは禁物だ。だが、連中を捕らえて牢に繋ぐことはできる」

 何だっていい。あの連中と再び見えることができるかもしれない。睦の仇を討つこともできるかもしれない。それに、この男の誘いを断れば章好が牢に繋がれるのだろう。男は葉隠という恐らく知ってはならない影の存在を章好に教えたのだから。

「いいぜ、あんたについていく。俺は小野寺章好だ」

「よかった。よろしく頼む、章好」

 敬について行くと決めたが、葉隠のもとに行く前に章好は村人たちの墓をつくりたかった。敬の部下も集まり、一日がかりで墓をつくり終えることができた。

 だが、睦の墓だけはつくらなかった。墓をつくってしまえば、睦が章好のせいで死んだことを認めなければならない気がした。敬は埋葬された睦に手を合わせていたが、章好は手を合わせることすらできなかった。涙も出なかった。なぜか泣くことができなかった。そんな章好を見ても敬はただ黙っているだけで、それがありがたかった。

 村を去り葉隠に加わってからは、敬たち諜報部隊がもたらす情報をもとに、反政府の動きを見せる連中と戦う日々だった。雑魚としか思えない連中もいれば、政府を脅かす勢いを持った組織もあったが、睦を殺した男たちにはなかなかめぐり会わなかった。

 敬は人のいい男だった。何かと章好の面倒を見たがり、あれこれと世話を焼いた。最初はおせっかいだと思ったものだが、次第に打ち解け酒を酌み交わすようになった。

 三年経ち、章好は実働部隊に複数ある班のひとつの班長になり東京に移った。敬も諜報部隊で班長を務めるようになり、妻をめとって東京にある実家の宿屋を継いだ。世間に溶け込むために、敬の父親が始めたらしい。敬は章好にも再び所帯を持つことを勧めたいようだった。

 葉隠はよかった。与えられたことをこなせばいいのだ。淡々と毎日は過ぎて行く。仕事で命を落としたとしても章好は構わなかった。蝦夷地での戦は終わったが、将軍家の残党はまだ身を潜めている。ただ、睦の仇討ちができないことが多少残念だと思う程度だ。

 そんな男が所帯を持つべきではないし、章好には所帯を持つ資格などない。

 敬にそういう意味のことを伝えると殴られそうになった。そのかわり、そんなこと言わないでくれ、と敬は呟いた。

 東北からの賊と聞くとあの男がいるのではないか、といつも思っていた。だが、都合よく出くわすわけではなかった。今回も東北から流れてきた反政府勢力と聞いて賊の根城に向かったが、あの男はいないだろう。

 そう思っていた。だが、根城に乗り込んだ瞬間、振り向いた男を見て章好は驚きに目を見開いた。

 隻眼の男。顔に縦に走る傷。

 あの男だ。睦を殺した男だ。頭が真っ白になる。何も考えられなくなる。男は章好を見ても何も思い出さなかったようだ。ただ、葉隠に根城を突き止められたことに驚いているだけのように見えた。

 小野寺班長、と部下に呼ばれた気がした。一歩一歩、男に近づく。章好には隻眼の男しか見えなかった。男が刀を構えようとしたが、一気に間合いを詰めて刀を男の胸に深々と突き刺した。

 刀を男の胸から引き抜いた。返り血が章好の体を赤く染める。視界まで、赤く染まったようだった。

 もう一度刀を構えたとき、章好、と自分の名を呼ぶ声がした。赤く染まる視界の端で、章好の名を叫びながら駆け寄って来る、敬の姿が見えたような気がした。


 睦を殺した男を殺した後のことはよく覚えていない。葉隠から追放され、しばらくは自暴自棄な生活をしていた。葉隠では私情による殺しを禁じている。しばらくして敬の紹介で用心棒の仕事をするようになった。敬が章好の世話を焼くのは友情からだが、章好の近くにいるのは監視も兼ねているのだと知っている。葉隠の存在を世間に知られないようにするためだ。

 深冬と出会うまでの七年は、いつ死んでもいいと思っていた。自分にも他人にも興味がなかった。死んでいないから生きているだけだった。何もかもどうでもよかったのだ。

 過去は章好の心の奥深くを固く凍てつかせ、今でも氷の楔がとけることはない。

 深冬には話せない。睦が死んだこととも、睦を殺した男を章好が殺したこととも、向き合えないからだ。自分のことなのに他人事のように目を瞑り、耳を塞いでいる。

 他人とは二度と深くかかわりあうことはないだろうと思っていた。だが、深冬と暮らし始めてから、敬の言うように章好は自分の変化に気づいていた。

 ささやかな幸せ。そんなものを感じる資格が章好にあるのか。深冬は章好の過去を知ったらどんな顔をするのだろう。

 深冬の両親は物盗りに殺された。だが、深冬は仇討ちをしようとは思わなかった。そのことを聞いて、章好は自分の過ちを目の前に突きつけられたような気がした。

 このまま深冬と暮らしていていいのだろうか。少なくとも、いまのところ深冬は章好とこのまま暮らしたがっているように見える。そんなことを思う自分を笑いたくなった。本当に深冬のためなのか。章好が深冬を手放したくないだけではないのか。

 深冬の過去を聞いた夜から、深冬は以前よりもよく笑うようになった。過去の影から自由になった深冬は、章好には眩しかった。

 これからどうすればいいか。深冬にはそのままでいい、と言ったが自分自身のことは分からなかった。

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