冬ざれ(後)
人さらい騒動の後、夜が明けると敬が長屋にやってきた。敬に昨夜の詳細を報告する。ひととおりの話を聞いた後に敬は部屋の隅に目をやった。
「で、あそこで寝ているのがかどわかされた子というわけか」
「そういうことになるな」
「だから見世の主は金を払いたがらなかったわけだ。口下手なお前が、よく言い訳できたものだよ」
「うるせえ。このがきを見世に帰したところで、人さらい連中は取り逃がしてるんだ。結局、金はもらえなかっただろうよ。お前の嫁さんの顔を立てられなくて悪かった」
花街に戻ると女郎が通りに立っていた。いきなり消えた子どもを探しているようだった。その女郎に子どもはかどわかされて助けられなかった、と説明した。章好の言葉を信じたのかは分からないが、女郎は見世の主に章好の言ったとおりに説明したらしい。結果として見世の商品候補だった子どもが盗まれるのを防げなかったので、見世の主からは文句しか言われなかった。
なぜ子どもを見世に戻さなかったのか、章好にも分からない。だが、長屋に連れて帰ってしまったものはどうしようもない。馬車の中で気絶したまま、子どもは目を覚まさず眠っている。
「敬、このがきお前のところで引き取っちゃくれねえか。俺には子育てなんてできねえよ」
「何言ってるんだ。お前がこの子を助けたんだぞ。お前の意志でな。だから、お前が責任をとれ」
「あの状況じゃ俺じゃなくても助けるぜ」
「章好はひとりでいない方がいい。おれはそう思う。この子と暮らしてみろ。それに、もしかしたら親がどこかにいて、親元に帰りたいと言うかもしれないだろう」
どういう意味だろう。何を言っているのだろう。章好は何か考えがあって子どもを助けたわけではないし、ひとりでいる方が楽でいい。子どもの面倒を見られる自信はなかった。
この子どもと暮らす理由はない。だが、この子どもを追い出す理由もなかった。
ならば、敬の言うとおりにしてみようか。章好の妻を自称していた女は勝手に住み着いたのだが、確かにこの子どもは敬の言うとおり章好が連れてきたのだ。責任は誰にあるかと言われれば、自分にあるのは分かっている。子どもに帰る場所があるのならば、帰りたくなるまで預かるだけだ。
肝心の子どもはどう思うのだろう。ふと子どもを見ると、身じろぎをした。もぞもぞと動いた後、子どもの目が開いた。眠そうな目は、章好と目が合った瞬間に大きく見開かれた。寝起きとは思えない素早さで子どもは起き上がって正座をした。怖いのか緊張しているのか、体は強張っているように見える。
「おう、起きたのか」
こくりと子どもが頷いた。何か話そうとしたのか口を開いた瞬間、子どもの腹が鳴る音が聞こえた。子どもは顔を赤くして俯いた。
「腹が減ってるんだな。何かないのか?」
「米ならあるが」
「米って、炊かなきゃ食べられない米粒しかないのかよ。お前、料理しないもんなあ」
仕方ない、と呟きながら敬が炊事場に立った。子どものために何か作るつもりらしい。子どもと二人残されても、何を話していいのか分からなかったので、白湯を子どもに渡した。喉も乾いているだろうと思ったのだ。
白湯を飲むと落ち着いたのか、子どもの肩から少し力が抜けたように見えた。沈黙が訪れる。気まずかった。黙り込んだ章好を見かねたのか、敬が炊事場から声をかけてくれた。
「どうして自分がここにいるか分かるか?」
子どもは首を振った。それはそうだろう。敬の方を見ると、説明してやれ、と敬の目が言っていた。
「お前が悪い連中にさらわれそうになったのは覚えてるか?」
子どもは頷いた。
「俺が連中を追っ払って、お前をここに連れてきた。見世に帰してもよかったんだが」
敬が苦笑とともにため息をついた。自分でもあまりに拙い説明だと思ったが、これ以上どう説明すればいいというのだ。
「……ありがとうございます」
小さな声が聞こえた。誰の声だか一瞬分からなかったが、長屋には章好と敬のほかに子どもしかいないのだから、この子どもがしゃべったのだ。
「やっぱり、見世には戻りたくなかったってことか」
「だって、怒られるし叩かれるし、あんまりご飯も食べさせてもらえないから。だから、助けてくれて、ありがとうございます」
体を売ることが嫌なのかと思っていたが、こんなに幼い子どもにはさすがにそんなことはさせていなかったのか。ただ、表向きの華やかさとは違い、花街の見世の内情は泥臭いようだった。女郎が足抜けをしたがるのだから、子どもも逃げたくなるだろう。
「そうか。少なくとも、俺もあそこでお前に飯を作ってやってる奴も、お前を叩かねえから安心しな」
この言葉を聞いて今度こそ子どもは安心したのか緊張を解いた。
「ところで、お前の名前は何ていうんだ?」
名前を聞くと子どもは黙って首を振った。
「名前がねえのか?」
また首を振る。名前がないことはないだろうに、なぜ首を振るのだ。助けを求めて敬を見ると、呆れたような顔で章好を見ていた。
「そうだよね、君にだって言いたくないことはあるよね」
敬の言葉に子どもは頷かなかったが、そういうことか、と章好にもようやく分かった。子どもだろうが言いたくないことのひとつくらいあるだろう。敬は章好の鈍さに呆れていたようだ。
「それじゃあ、このおじさんに新しい名前を考えてもらおうか」
「なっ、誰がおじさんだよ!」
「この子から見れば、三十のおれもお前も立派なおじさんだろう。なあ、いいかな」
「はい」
「章好、いい名前考えてやれよ」
あとは鍋を火にかけておくだけなのか、敬も章好の隣に座り、子どもと章好を交互に見てにやりと笑った。
名前と言われても、女の子どもの名前などすぐには思い浮かばない。いまの季節は冬だ、ということが頭に浮かんだ。
「冬」
「は?」
「いまは冬だろう。だから、冬」
「お前、それはあんまりだろうが」
「それじゃあ、みふゆ」
「みふゆ? 美しい冬か、それならいいな」
「いや、深い冬で『深冬』だ」
「深い冬?」
首を傾げる子どもに、「深冬」と紙に書いて見せてやった。だが、読み書きができないのか子どもは首を傾げるだけだった。
「これが、今からお前の名前だ。いいな、深冬」
深冬、と確かめるように呟いてから、うん、と深冬は頷いた。敬は黙って、いいとも悪いとも言わなかった。
「よし、深冬ちゃん、そろそろ雑炊ができるから、もう少し待っていておくれよ」
「あ、あの」
「うん?」
「おじさんは、だれですか?」
深冬の言葉に章好は思わず吹き出してしまった。章好のことは、自分を助けた人間として認識しているが、深冬と敬は初対面だったのだ。敬が何者か紹介するのをすっかり忘れていた。
「こいつは玉松敬。俺の友人だ。で、俺は小野寺章好」
「小野寺さまと玉松さま。よろしくお願いします」
ちょこんとおじぎをする深冬に、章好も、ああ、と頷いた。
雑炊を作り終えると敬は仕事に戻るため長屋を出て行った。深冬と二人きりになると、何を話せばいいのか分からなかったが、深冬はもともと無口なのか、沈黙が苦ではないように見えた。聞かれたくないことも多いだろうから、章好も黙って刀の手入れをしていた。深冬はそれをじっと眺めていた。
日が暮れれば章好は用心棒の仕事に出なければならないが、深冬だけ長屋に残していくわけにもいかない。深冬を連れて、今夜の仕事場には詫びを入れに行き休ませてもらうことにした。
夕飯は長屋の近くの小料理屋ですませ、長屋に帰るとすぐに床に就いた。布団は居ついていた女が自分のものを残していたので、それを深冬のために敷いた。
深冬はまだ疲れが取れていないためか、すぐ眠りに就いたようだった。章好も深冬が眠りに就いたのを確かめて眠った。
ふと、布団の中に気配を感じて目を覚ました。深冬の寝ていた布団を見ると、深冬の姿がない。寂しくなって章好の布団にもぐりこんできたのだろう。そう思い眠ったふりをして放っておいたのだが、深冬は布団の中でもぞもぞ動いている。
何をしているのだろうか。そのまま様子見をしていると、深冬が章好の寝巻の帯に手をかけた。帯が解かれ寝巻をはだけられ、深冬の手が章好の脚の方に伸ばされそうになり、章好は深冬の手をつかんだ。
「何してる」
「え?」
体を起こして、深冬を自分の布団に座らせた。行燈に火を入れて、着崩れた寝巻を直す。深冬はきょとんとした顔をしていた。
「あー……、その、お前は夜中に俺の布団にもぐりこんで何してたんだ?」
「お礼をしようと思いまして」
「礼だと?」
「はい。男の人にお礼をするときにはひとつの布団に入って、それで……」
「待て待て、それは女郎屋で教えられたのか?」
「はい。何か違っていましたか?」
深冬が何をしようとしていたのかは分かった。女郎が客にするようなことをしようとしていたのだ。深冬は折檻を嫌がって見世に戻りたがらなかったが、女郎の仕事についてはよく分かっていなかっただけのようだ。
年端も行かぬ子どもにまで、客のよろこばせ方を教え込む。それが女郎屋というところか。深冬が見世でどんな教えを受けたのか想像するだけでおぞましい。何も分からないからこそ、深冬はこの行為に疑念すら抱かなかった。深冬を見世に帰さなくてよかった。初めて心底そう思った。
「小野寺さま?」
「間違いだらけだ!」
女郎屋に苛立っただけなのだが章好が大きな声を出したせいで、深冬はびくりと肩を震わせた。目に涙が浮かんでいる。
「ああ、泣くな、泣くな。お前を怒ったんじゃねえよ」
深冬の涙を拭い、どうしようか迷ったあげく泣きやむまで背中をさすることにした。
「で、でも、こうしなさいって教えられたから。ごめんなさい」
「お前が俺にしようとしたこと、これからは誰にもしちゃいけねえよ」
「いけないことだったのですか?」
どう説明すればいいのだろう。子どもだからこそ、深冬は分からないのだ。章好のために、よかれと思ってしようとしていただけだった。
「これは、好いた相手にすることだ。恋しいと思う相手にな。だから、それ以外の相手にしちゃあならねえ。礼をしたいときは、ただ一言『ありがとう』が言えればそれでいい」
「好いた相手?」
「そうだな、あと七、八年もすりゃ嫌でも分かるようになるだろうよ。だから、好いた相手、という意味が分かるまではいけねえ。いいな?」
深冬が頷いた。好きな相手にすることだ、とは自分で言いながら恥ずかしいことを言っていると思ったし、子どもに分かるだろうか、とも思った。実際、深冬は好きな相手、というところはよく分かっていないようだった。だが、深冬はいけないことだと思ったようだから、もうほかの男にこんなことをすることはないだろう。
「今夜だけは、一緒に寝ようぜ。だから、もう泣くな。ゆっくり寝ろ」
行燈の火を消し、深冬を隣に寝かせた。深冬は泣き疲れたのか、またすぐ眠った。
腕の中で安らかに寝息を立てる深冬の体温を感じ、こそばゆいような気持ちになった。食べて寝て、生きているだけだった自分にこんな気持ちが残っていることに章好は驚いた。
深冬と二人、これからどう生きていこうか。明日からのことをぼんやりと考えながら、章好も再び眠りに誘われていった。




