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冬ざれ(前)

 わたしの名を覚えていますか。

 章好(あきよし)を見つめて女は呟いた。張り詰めた糸のように気を張っているのが分かる。

(むつ)

 一瞥だけして答えると、乾いた音ともに頬に痛みを感じた。女が章好の頬を張ったのだ。

「出て行きます。離縁してください」

「離縁も何も、お前が勝手に押しかけてきただけだろうが。俺は知らねえよ」

「最低。三月も一緒に暮らしてきたのに、わたしの名も覚えていないなんて。わたしは睦なんて名前じゃありません」

 そんなことは分かっている。この女が睦という名であるはずがない。睦であるはずがないのだ。

 まだ女は恨み言を並べているようだが、章好は聞いていなかった。どうでもいいのだ、女のことなど。

 章好の住む長屋の近くでやくざ者にからまれている女がいた。近所で殺しやかどわかしがあっては面倒だと思い、やくざ者を殴り倒した。女はなぜか章好の長屋に住みついた。それだけのこと。女は章好の暮らしに口出しをしなかった。何かを求めることもなかった。追い出す理由もないから、そのままにしておいた。そもそも、追い出そうと思うほど女に関心を払っていなかった。

「わたしは、あなたのことを夫と思っておりました。けれどあなたは違ったのですね」

 章好が答えずにいると、女は風呂敷で身の回りのものを包み始めた。身支度を整え長屋を出る直前、女は振り返った。その頬には涙が伝っていた。だが、章好は何も感じなかった。女がこの長屋にいようが出て行こうが、どうでもいいのだ。

 あなたは、と言い淀むと新たな涙が零れた。

「あなたはひとを大事にできない人です」

 そうだ。その通りだ。たったひとりの人間すら大事にできないのだ。自嘲するようにひとり口の端を上げた。気づくと女はもういなかった。

 夕暮れ時になり壁に立てかけておいた刀を佩いて外に出た。同じ作りの長屋が立ち並び、夕餉の支度をする匂いがする。そろそろどこの家でも亭主が帰ってくるころだろう。

 十年前に国を分ける戦が起こり、新政府が樹立した。新政府の意向で国を挙げて欧化が進められているが、欧化が進んでいるのはほんの一部に過ぎない。多くの人間は章好と同じように九尺二間の狭い長屋に住んでいる。

 章好は腰に下げた刀で日々の生計を立てていた。欧化を進めるくせに政府は刀の所持を禁じていない。治安維持のためにも警察官と軍人以外は刀の所持を禁じた方がいいのではないか、とぼんやりと思う。もっとも、そのおかげで章好は食べていけるわけだが。

 章好の仕事は用心棒だ。夜中に質屋や高利貸しの店の周りを警護する。街では政府の銀行や官許の商家が金貸しをしているが、下町では質屋や高利貸しが幅をきかせている。これらの店は本来、政府に禁じられているため章好のような人間を用心棒にするのだ。

 章好は用心棒以外に職に就いているわけではない。用心棒の仕事がなければ、女にからんでいたやくざ者とそう違いはないのかもしれない。ただ剣に多少の覚えがあるだけだ。

 古臭い長屋で雨風をしのぎ、用心棒で金を稼ぎ、食べて飲んで寝る。それが章好の毎日だった。変わり映えのしない単調な日々。

 それでいい。何も変わらない日々を繰り返して、いつか死ぬだけ。

 質屋での仕事を終えて朝方に長屋へ帰り、粗末な布団にもぐりこむ。いつもならばそのまま昼まで眠るのだが、戸を叩く音で眠りが妨げられた。

 いまがどれほどの時刻なのかは分からないが、正午を知らせる空砲(どん)が鳴っていないのだから、まだ午前中だろう。いつもは空砲の音で目を覚ます。

 章好のもとを訪れる人間は限られている。知り合いはほぼいない。こんな時間に訪ねてくるのは長屋の大家だろう。家賃の催促だろうから無視していたが、戸を叩く音は鳴りやまない。

 章好の方が諦めて戸を開けた。そこに立っていたのは大家ではなかった。

「悪いな章好、寝ていたか?」

「寝てたが、本当は最初に戸を叩いた音で起きてた。大家かと思って無視しただけだよ」

「何だよ、大家さん無視しちゃまずいだろう」

 立っていたのは十年来の友である玉松(たままつ)(たかし)だった。章好が招き入れる前に敬は長屋に入り、狭い部屋を見渡した。

「何だ?」

「何度戸を叩いても誰も出てこないからおかしいと思ったんだ。お伊勢(いせ)さんは買い物にでも行ったのか?」

 お伊勢、と言われて一瞬誰のことだか分からなかったが、昨日出て行った女のことだと気がついた。敬に言われて、ようやく名を思いだすくらいなのだから、女が出て行くのも当然だ。

「いや、あの女は出て行った」

「女房に逃げられちまった、ってわけか。この寒空にお伊勢さんもよくまあ」

 敬は苦笑して肩をすくめたが、章好はそんな敬を見て鼻で笑った。

「女房なんかじゃねえ」

「冷たいな」

「俺は金を稼いでくる。あの女は飯を作る。それだけのことだった」

「お前はそうでも、お伊勢さんはそうじゃなかったろうよ」

 敬の言うとおりだ。だから女は出て行った。

「俺はひとを大事にできない人間なんだとさ。捨て台詞にそう言われた」

「お伊勢さんに言われたのか?」

「ああ。的を射ていると思うぜ」

「章好」

 敬の手が肩に置かれた。敬は悲しむような目で章好を見ていた。その視線に耐えられず章好は目を逸らした。わずかな沈黙の後、何事もなかったかのように敬が口を開いた。

「実は、今日は新しい仕事を持ってきたんだ」

 部屋に上がった敬に茶でも出そうと思ったが、どこに急須や茶葉があるのか分からなかったので出せなかった。

「最近人さらいが出没しているらしい」

「人さらい? そんなのは警察に任せておけばいいだろう」

「それが、狙うのは高級娼館でな、見目のいいのをさらって闇競売で売り払うそうだ。警察が介入すれば、まずはご禁制の売春をしている娼館の人間を逮捕しないわけにはいかない。だから警察には頼めない。そこで、娼館の主が昔のつてを頼りに、うちのに相談にきたんだよ。どうやら娼館や金貸しなんかの闇の商会では用心棒としてのお前は有名らしい。どこかで俺とお前の関係を知ったみたいで、お前を紹介してほしい、とさ」

「なるほどな」

 敬の妻はもともと芸妓だったと聞いている。娼館の主はその頃の知り合いだったのだろう。今は敬の実家の宿屋で女将をしている。

「すまないが、その娼館の警護をしてくれないか? いつもの用心棒の仕事もあるだろうが」

 前時代、女たちが自分の体を売る娼館を集めた遊郭は官許の存在だったが、新政府は売春を表向きは禁じた。警察に人さらいを捕まえさせようにも、相手は政府禁制の売春を行っている女たちなのだから、まずはそちらを逮捕しなければならないのだ。

「だが、それなら俺みてえなごろつきじゃなく、お前ら葉隠(はがくれ)が動けばいいじゃねえか。人さらいだけ捕まえて警察に突き出して、逮捕させりゃあ問題ないぜ」

「妻の頼みで組織を動かせってか。それは無理だ。それに、向こうさんはお前を紹介してほしい、と言っているしなあ」

「分かってる、冗談だ」

 葉隠はもともと西の主上に仕えていた組織で、東の将軍の動向を探るのが仕事だったらしい。将軍が消え、主上が東に遷都してからは政府や主上に反抗する人間の調査、監視と制裁が主な仕事だ。組織は諜報部隊と実働部隊に分かれていて、諜報部隊の集めてきた情報をもとに実働部隊が制裁を加えることになっている。木の葉の間に隠れるように、その存在は表には知られていない。敬は諜報部隊の副隊長を務めている。

「とにかく、頼まれてもらえないだろうか?」

 断る理由はない。いまの用心棒の仕事も敬が紹介してくれたものだ。敬には恩があるし、何より友の頼みでもある。幸い、質屋も高利貸しも用心棒の仕事は明日からしばらく休みだった。

「分かった。引き受けるぜ。で、どうすればいい? 今夜から花街の見張りでもすればいいのか?」

「ああ。連中は富豪を装い馬車で花街までやってくるらしい。その馬車に女を隠してかどわかすというわけだ。花街も昔より警備がゆるくなっているからな。冬の夜に見張りは辛いだろうが」

「気にすんな。普段と変わんねえよ。冬だろうが外で見張りをしてんだから」

「すまないが、頼む」

 仕事に戻ると言って敬は長屋を出て行った。長屋を出る直前、たまにはおれの家にも遊びに来い、と言っていたが、曖昧に頷くことしかできなかった。

 商家として町に融け込み情報を得やすくするため、敬は表向き宿屋の主人だ。店の切り盛りは敬の妻が行っている。妻のいる敬の家に行くのは気が引けた。

 日が暮れて花街へ向かうと、客を呼び込む三味線の音が響き、女郎たちが張見世に並んで格子越しに男を誘っていた。女郎を選ぶふりをして花街の様子を探ってみる。敬が言っていたような馬車は見当たらない。

 夜が更けて、通りを歩く男も少なくなってきた。いつまでもうろうろしていても不審に思われるかと思い、章好を雇った見世の主人に挨拶を済ませ、見世の近くの路地に身を潜めた。あとはかどわかしが起こるかどうかだが、今夜その連中がやって来るとは限らない。

 もう一度通りに出てみると、洋装の男とすれ違った。ぱりっとした背広姿で高級官僚のようにも見えるが、まだ二十歳前後だろう。官僚の息子だろうか。着物に袴姿の章好とは大違いだ。

 男は女郎と子どもを連れていた。女郎が馴染みの客を大門まで送っていくところなのだろう。連れている子どもは女郎についている見習いといったところか。

 そのまま去ろうとすると背後から殺気を感じた。刀を構えたやくざのような男が現れ、章好に斬りかかった。斬りかかる男をかわしつつ鞘の(こじり)をみぞおちに打ち込む。男はその場に倒れ込んだ。倒れ込む男の背後で、洋装の男が章好を見て口の端を吊り上げたような気がした。その足もとに女郎が倒れている。

 土煙を巻き上げ馬車が二台花街に乗り入れた。そのうちの一台に男は乗り込み、馬車は走り去った。

 洋装の男が人さらいだったのか。章好が倒した男は洋装の男の護衛か。

 もう一台の馬車から男が二人現れ、女郎ではなく子どもの方を無理やり馬車に乗せた。残っている馬車に駆け寄ろうとすると、子どもを馬車に押し入れていた男のうちの一人が刀を持って章好に斬りかかった。その男もかわして殴り倒す。男の鼻血が着物についた。まだ立ち上がろうとする男に蹴りを入れて気絶させた。その頃には、もう一台の馬車も通りからは消えていた。

 今から追いかけても間に合わないかもしれないが、子どもがさらわれた。助けないわけにはいかない。

 洋装の男が人さらいの仲間だった。もしかしたら頭かもしれない。女郎をさらって売るのだと聞いていたが、非力な女だろうが抵抗されれば面倒だ。だから女郎見習いの子どもを狙ったのだろう。

 急いで大門の外に出ると、かすかに馬車の土煙が見えた。人気のない森に向かっている。だが、どんなに走ったところで人の足では馬に追いつけない。そう思いつつ馬車を追いかけていると、爆音がした。音に怯えた馬のいななきが聞こえる。馬車の動きが止まった。

 森の木が揺れる気配がした。敬か敬の命を受けた葉隠の者が手助けしてくれたようだ。その隙に馬車に駆け寄る。馬車は一台しかなかった。どちらかの馬車には逃げられてしまったのか。

 残された馬車の扉を開けると、男が飛び出て章好を斬りつけた。かわしきれず肩に痛みを感じた。だが、男の陰に女郎がつれていた子どもが見えた。洋装の男を逃がしてしまったのは仕方がない。

 男が持っていたのは匕首だった。匕首をかわして男を斬る。男が悲鳴を上げた。血は飛んだが、急所を外しているので死にはしない。ほかに仲間はいないようだ。

 念のためにあたりを見回すと、背後に人の気配を感じた。新手かと思ったが、葉隠の人間だった。葉隠の諜報部隊が着る忍装束をまとっている。

「ご苦労さまです。この男は、こちらで引き取ります。去った馬車についてもこちらで捜索いたしますので、これ以上の関わりは無用です」

「そうかい。ご苦労さん」

 そう言うと、葉隠の忍は血を流している男を縄で縛り上げ、どこかへ消えた。あの忍が爆竹でも投げて馬車を止めてくれたのだろうが、あのような言い方をされては礼を言う気にはなれなかった。

 血が出ている肩を見る。かすり傷だ。放っておいてもいずれ治るだろう。それよりも、馬車に残された子どもをどうするか、それが問題だ。

 扉が開いたままの馬車の中を見る。子どもは章好を見て後ずさりをしようとしたが、狭い馬車の中では逃げようがない。

「おい、俺はお前をどうこうしようってんじゃねえよ。ただ、お前をもとの見世に」

 章好の言葉を遮るように子どもが首を振った。

「何だよ?」

 子どもが何を言いたいのかは分からない。だが、緊張の糸が切れたためか、それとも恐怖のあまりか子どもは章好の胸に倒れこんできた。気を失っている。

「どうしたもんかねえ」

 子どもは痩せていて胸にもたれかかられても、まったく重くなかった。むしろ軽すぎるくらいだ。十歳くらいだろうか。女郎が連れていたのだから女だろう。顔も体つきも、男にも女にも見えた。

 子どもを抱えて馬車の外に出る。吐く息が白い。冬なのだ。

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