17話
殿下の腕で泣いたあの日以来、屋敷の中で違う空気を感じるようになった。今まで自分が任されていたことの何かが、別などこかで起きているようなそんな感覚。考えても仕方がないことだが、考えずにはいられない。
「先生、この魔法の起動がうまくいかず」
「一度見せてもらってもいいですか?」
仕事は山のようにあったが、集中できない。よく考えれば、殿下が呼び出してくださらなければ、私は、何かを知りえる立場にない。その事実が自分の心を重くした。
そんな時間が数か月、アレン王子の結婚式も近づいたが、私は目を背けるばかりだった。だがある日、殿下に呼び出された。
「買いたいものがある、護衛を頼む」
「も、もちろんです」
久しぶりで、声が裏返った。
「相変わらずだな」
そう笑われた。理解できていない。王城から城下はそこまで遠くない。馬車で行くこともあるが歩ける距離だ。その日は殿下が歩きたいと言ったから、軽い変装をして歩いていくことになった。
「何を買いたかったのですか」
「ん。アレンの結婚祝いをな」
「それは、」
あの日の答えを、出せずにいた。どうしたいか。回答が出ないまま、時が流れ、目前まで来ている。
「その話はもういい。どのみち聞いてやれそうにもない」
「っ……、申し訳ございません」
「アレンは昔からやることなすこと破天荒でな。父や俺を困らせていた」
「そう、でしたね」
「だが、アイツには絵や音楽の才がある。お前ならよく知るところだろう」
「はい。国内外でも、描いた絵が評価されていました。その時には、アレン王子も、大変喜んでいらっしゃいました」
「アイツに力がなければ、もう少し楽しく生きられたのだろうと思うときもある」
「真実の力のことですか?」
「相手の本心ってのは、知りたくても、たいてい知らないほうがいいもんだ」
「で、殿下は私の心を覗いていらっしゃいますよね」
「それはお前、面白いからな」
そう笑われた。
「最近は、俺の呼び出しがなくて随分不安そうだったな。無理難題と辛そうにするくせに、休暇をもっと喜んで遊べばいいものに剣ばかり振って、これ以上強くなってどうするんだ」
「そ、れは、その通りなのですが、何をしていいかわからなくて」
「呼び出されたほうが嬉しいか?」
「……嬉しいというか、その……、はい、そう、ですね。殿下の無理難題の先に見えるものが楽しくあります」
「ふっ、はは、そうか、楽しいか。いいことだ。本当に。大事なことだ。ラニ。俺はな面白いからお前の心を覗いているんだ。アレンのように心の奥底まで俺のことを肯定することを求めたりはしない。アイツの力は、周りを不幸にもするが、あいつ自身を不幸にしている。俺はそう思ってる」
人の心なんて覗くものではない。確かにその通りなのかもしれない。全員に自分を肯定する言葉を求め、上っ面だけの言葉に、アレン王子が何度絶望し拒絶したか知っている。そのたびに振るわれる暴言と暴力に、あの屋敷に幸せの二文字は存在しなかった。
「あの力がなければアイツはもっと幸せに暮らせただろうと思うんだ」
画材ショップの入り口で、殿下はそんなことを言った。
「正直俺にはどれがいいか全然わからないんだが、お前はわかるか?」
「……よく使われていたのはこの筆と絵具だと思いますが、最新のものがいくつか出ているようですね」
「これか。いや、さっぱりわからん」
「殿下は絵には興味がないんですか?」
「絵とか音楽とかダンスとかはさっぱり才がない」
目を見開く。殿下にもできないことがあったなんて。
「私もさっぱりです」
「知ってる。国家を歌っているとき耳をふさぎたくなった」
「っ……、う、歌わないほうがいいですかね」
「俺は絶対口パクにしている。そんなことで馬鹿にされるのはプライドが許さないからな」
笑ってしまうと、お前よりは音痴じゃないと怒られた。何とかアレン王子への画材を見繕うと昼時だった。
「飯でも食って帰るか。予約もしていないが、いい店を知っているか?」
一瞬無言になると。
「お前食うことに興味なさそうだもんな」
とあきれられた。こっちに来いと、付いていくと、路地裏の小さな店に連れていかれた。殿下がこの店に入る想像がつかないなと思いながら、入り口を通るといい匂いが広がった。何人か座っている人がいるが、激混みではない。空いている席に座る。
「昔ルイと来たんだ」
「ルイですか?」
「長い付き合いなんだよ。アイツはこういう店を山のように知っている」
「確かに知っていそうです」
ルイは貴族の出身だが、ひょうひょうとした人物で、どこにいてもおかしくない雰囲気がある。
「この店のグラタンというものがうまい」
「では、それにしてみます」
「じゃあ俺もそれを一つ」
グラタンという食べ物は、食べたこともない味がした。ホワイトソースの甘い味わい。中にはいろいろな具が入っている。
「あ、熱い」
「うまいだろ」
「美味しいです。初めて食べました」
「一般的な家庭料理らしいんだが、屋敷のシェフに作らせても同じ味にはならなかった。食材の高級さ以上に重要な何かがあるんだろうと思うが、俺は料理ができないからさっぱりだ」
「すいません。私もさっぱりです」
「いや、お前、もとはアレンのもとに花嫁修業で行ってたんだろ?」
「……3,4回お前のお茶はまず過ぎると顔面に投げ捨てられたあたりで二度と厨房に立つなと言われたもので」
「ふっ、はは、いや、すまん。なんだかんだ剣とか魔法とか、経理とか政治とか、そういほうが向いてたんだろうな」
「剣も魔法も、それこそ先日のチェスも楽しかったです。実家で裁縫も料理もダンスも何もできず出来損ない扱いされていた日々は別の地獄でした。ドレスの違いとか全然分からなくて、」
分からないのも問題だなぁとぼやきながら、最後まで食べ終えて、紅茶までおいしくてびっくりする。料理も才能だよなと、本当に尊敬する。
「重要なのは高い茶葉ではなく技術なんですね」
「そりゃそうだろう」
「剣と一緒です」
「なぁ、ラニ」
殿下は、いつも通りの表情で私の名前を呼んだ。
「俺はお前に愛着が湧いているんだ。たぶん、お前が思っている以上にな。選択肢のなかったお前が、俺の中で、一つ一つ選んでいく姿を見るのが楽しい。選ぶことは大変だろうが、それが生きていくということだ」
「殿下」
「黙って聞け」
一つ瞬きをして、お茶を飲んだ。
「俺はこれからもお前にはいろいろなものを見て行ってほしいと思っている。たくさんのことを感じてほしいと思っている。俺も人間だ。本当の意味での正しさとは、何か、考えることもあるし、王族として、何をするべきなのか、そして自分のやりたいこととへの折り合いの付け方、お前には俺が何でも知っているように思うかもしれないが、俺も迷うときもある。実際、この前泣いたお前を見て考えるところがあった。お前に時間を与えたいとも思った。だが、こうも思っている。時間が解決するものはあまり多くないと。お前が過ごした12年という時間ほどは待ってやれないと」
伏せていた視線が、私を覗いた。
「だから、俺は俺の考えをお前に告げる。ただこれは命令ではないと、知っていてほしい」
ざわついた店内だというのに、殿下の呼吸する音が、届いたような気がした。
「今度の結婚式、順当にいけば謀反が起こる。第三王子派と新興貴族の企てによるものだ。すでに、もとの第三騎士団の者たちに、第三王子派として潜伏させている。可能性ではなく、確実に起こると考えていいだろう」
「本当に、言っていますか、」
「あぁ、間違いない。お前には本当にいくつもの選択肢がある。その場にいるかどうか。まずそこからだな。そして、お前が何をするか。俺はお前に、俺の護衛についてほしいとは思っていない」
「どう、いうことですか?」
「戦いというものは、準備の段階で勝敗が決まっている。今回も決定された事項だ。だからこそ、俺はお前に、アレンの首を取って欲しいと思っている」
「ッ……、」
コップを落としそうになり、殿下が、ぱっと受け止めた。
「これは、お前が前に進むために、必要なことだ。そして結婚式の日はどうやったって変更がきかない。どのみちその日、俺はアレンを討つ。だからこそ、これを逃せば、お前は、自分の心に決着をつける日を失う。できることなら俺は、お前が自らの手で、アイツの首を取って欲しいと思っている。それがお前が、今日まで、剣を磨いてきた意味となり、先に進むきっかけになるはずだ」
また過呼吸になってしまったらどうしようと。そう思った。だが、アレン王子を討つことへの抵抗は不思議となかった。あれほど大切だったというのに。まだ恐怖がある。きっと当日は震えることだろう。言葉を聞きたくないと思うことだろう。だが、自分のすべてだと思った心は、もう残っていないことを知った。
「あまり待てないが、3日後までに」
「できます」
数秒の間の後に。
「本当か?」
「大丈夫です。本当に、もう、大丈夫だと思います」
殿下が、泣いた私を笑って受け止めてくれたあの日。落ち着くまで側にいてくださったあの日。私はもう振り返らないでも生きて行けると思ったのだ。
「武闘大会の日の言葉を覚えていますか?」
「あぁ、覚えているよ」
「殿下の白が私の白です。今日、この日まで、殿下の言葉を信じて来たことが、私の人生で、初めての美しい景色でした。私は、殿下を信じています。それが、私のためになると言ってくださるなら、迷いはないです」
机の距離を憚るようにされたキスの意味を考えた。
「キスってのは目を閉じるもんだ」
「こ、れは、どういう意味ですか?」
「ないよ。意味なんて」




