表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/3

第3話:偽りの呼び名

 黎峻の治療が始まって、三日が経った。


 毒は予想以上に強力で、解毒に使う薬草もこの辺境では手に入りにくかった。けれど、蓮月は一度も手を止めなかった。――その命を、救うと決めたからだ。


 蒸した布で額を冷やし、口元に薬湯を流し込む。

 目を覚まさない黎峻の傍らで、蓮月は黙々と手を尽くし続けていた。


 王都で、どれだけ薬で命を救ってきたとしても――結局、誰も蓮月を信じなかった。

 婚約者さえも。命を預けた者たちでさえも。

 けれど今、目の前のこの命は、蓮月だけが頼りだった。


 そのことが、たまらなく怖くて、そして、同じくらい嬉しかった。


「あなたのような人は、簡単には死なないでしょう?」


 小さく呟いたそのとき。

 ふと、硬く閉じていた瞼が、かすかに震えた。

 ――黎峻の目が、静かに開いた。


 漆黒のような深い眼差しだった。

 その鋭さは、噂に聞く“冷酷将軍”そのままのものだったが、それでも蓮月はたじろがなかった。

 むしろ、その眼差しの奥にわずかに滲む混乱と痛みが、彼をただの“噂”の存在ではなく、「今ここにいる人間」として感じさせた。


「……ここは」


 掠れた低音が、乾いた喉から漏れる。


「目が覚めたのね」


 蓮月はほっと息をつき、そっと薬湯の椀を差し出した。


「動かないで。毒の影響で神経が過敏になっているわ。……まずは、これを飲んで」


 黎峻はしばし蓮月を見つめたまま動かずにいたが、やがて無言で椀を受け取った。

 薬湯を一口、また一口とすするたび、その鋭い目が徐々に落ち着いていく。

 その仕草さえも静かで抑制されていた。兵としての長年の訓練が、体に染みついているのだろう。


「……お前が、俺を治したのか」


「ええ。……薬を使っただけよ。毒姫らしくね」


 自嘲めいた笑みを浮かべながら蓮月が言うと、黎峻の眉がわずかに動いた。


「毒姫などと、つまらん呼び名だな」


「私もそう思うわ。けど、王都ではそれが私の、最後の名だったから」


 静かに告げた蓮月の声に、黎峻の目が細められる。

 次に発せられた言葉には、低く沈んだ怒気が宿っていた。


「……愚かな話だ」


 その言葉が、蓮月のために向けられたものであると気づいた瞬間、彼女の胸に、ゆっくりと温かなものが流れた。

 心のどこかに張り付いていた氷のような孤独が、少しだけ解けていくような――そんな気がした。


 黎峻は再び視線を彼女に向けていた。

 その瞳は、軍人特有の警戒心と緊張を保ちながらも、不思議と蓮月を拒絶する色はなかった。

 まるで、見極めようとするように――ただ静かに、彼女という存在を“視て”いた。


「……しばらく、ここにいる」


 低く掠れた声に、蓮月は瞬きをした。


「え……?」


「毒の影響が抜けきるまでは動くなと、医師が言うだろう?」


 それはまるで、誰か第三者の診断を代弁しているような、ぶっきらぼうな言い方だった。

 だが蓮月には分かった。これは彼なりの――ここに居ることを選んだ、という意思表示だ。


 医師ではない彼女に対して、そう言ったこと自体が、信頼の証だった。


「……好きにすればいいわ」


 蓮月はふっと、けれどどこか照れ隠しのように笑みを浮かべる。


「でも、勝手に動いて傷を悪化させたら、今度こそほんとに怒るから」


「ああ。お前の薬には、逆らえそうにないな」


 黎峻が口元を僅かに緩めた。

 笑みだったのか、ただの筋肉の動きだったのか、それは分からない。

 けれど、厳しさしか知らなかった顔に生まれたわずかな緩和は、蓮月の胸に静かな鼓動を響かせた。


 沈黙が落ちた部屋で、薪のはぜる音だけが響く。


 かつての蓮月なら、その場しのぎの治療を終えたら、深く関わらずに済ませていたかもしれない。

 けれど今は違った。


 この人に、もう少し触れてみたいと――そんな気持ちが、生まれていた。


 それが過ちでも、幻でも構わない。

 今だけは、この静かな時間に身を委ねてみたかった。


「どうして、冷酷将軍なんて、言われてるのよ」


「さぁな、俺にも分からん。人は時に、見当違いな評価を人に下す」


「……そうね」


「どうして、毒姫などと、言われてるんだ?」


「さぁ……何でかな。私にも分からない」


 泣きたい気持ちを抑え、前を向いた蓮月は黎峻と目を合わせる。

 蓮月と黎峻がくすっと笑い、冷たかった空気が和らいだ。

 読んで下さりありがとうございます。少しでも楽しんでいただけたのなら、下記の『☆☆☆☆☆』をタップして【★★★★★】にしていただけると幸いです。


 皆様の応援や反応が、執筆の原動力に繋がります!

 何卒、よろしくお願いいたします。


 ――海月花夜より――

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ