第3話:偽りの呼び名
黎峻の治療が始まって、三日が経った。
毒は予想以上に強力で、解毒に使う薬草もこの辺境では手に入りにくかった。けれど、蓮月は一度も手を止めなかった。――その命を、救うと決めたからだ。
蒸した布で額を冷やし、口元に薬湯を流し込む。
目を覚まさない黎峻の傍らで、蓮月は黙々と手を尽くし続けていた。
王都で、どれだけ薬で命を救ってきたとしても――結局、誰も蓮月を信じなかった。
婚約者さえも。命を預けた者たちでさえも。
けれど今、目の前のこの命は、蓮月だけが頼りだった。
そのことが、たまらなく怖くて、そして、同じくらい嬉しかった。
「あなたのような人は、簡単には死なないでしょう?」
小さく呟いたそのとき。
ふと、硬く閉じていた瞼が、かすかに震えた。
――黎峻の目が、静かに開いた。
漆黒のような深い眼差しだった。
その鋭さは、噂に聞く“冷酷将軍”そのままのものだったが、それでも蓮月はたじろがなかった。
むしろ、その眼差しの奥にわずかに滲む混乱と痛みが、彼をただの“噂”の存在ではなく、「今ここにいる人間」として感じさせた。
「……ここは」
掠れた低音が、乾いた喉から漏れる。
「目が覚めたのね」
蓮月はほっと息をつき、そっと薬湯の椀を差し出した。
「動かないで。毒の影響で神経が過敏になっているわ。……まずは、これを飲んで」
黎峻はしばし蓮月を見つめたまま動かずにいたが、やがて無言で椀を受け取った。
薬湯を一口、また一口とすするたび、その鋭い目が徐々に落ち着いていく。
その仕草さえも静かで抑制されていた。兵としての長年の訓練が、体に染みついているのだろう。
「……お前が、俺を治したのか」
「ええ。……薬を使っただけよ。毒姫らしくね」
自嘲めいた笑みを浮かべながら蓮月が言うと、黎峻の眉がわずかに動いた。
「毒姫などと、つまらん呼び名だな」
「私もそう思うわ。けど、王都ではそれが私の、最後の名だったから」
静かに告げた蓮月の声に、黎峻の目が細められる。
次に発せられた言葉には、低く沈んだ怒気が宿っていた。
「……愚かな話だ」
その言葉が、蓮月のために向けられたものであると気づいた瞬間、彼女の胸に、ゆっくりと温かなものが流れた。
心のどこかに張り付いていた氷のような孤独が、少しだけ解けていくような――そんな気がした。
黎峻は再び視線を彼女に向けていた。
その瞳は、軍人特有の警戒心と緊張を保ちながらも、不思議と蓮月を拒絶する色はなかった。
まるで、見極めようとするように――ただ静かに、彼女という存在を“視て”いた。
「……しばらく、ここにいる」
低く掠れた声に、蓮月は瞬きをした。
「え……?」
「毒の影響が抜けきるまでは動くなと、医師が言うだろう?」
それはまるで、誰か第三者の診断を代弁しているような、ぶっきらぼうな言い方だった。
だが蓮月には分かった。これは彼なりの――ここに居ることを選んだ、という意思表示だ。
医師ではない彼女に対して、そう言ったこと自体が、信頼の証だった。
「……好きにすればいいわ」
蓮月はふっと、けれどどこか照れ隠しのように笑みを浮かべる。
「でも、勝手に動いて傷を悪化させたら、今度こそほんとに怒るから」
「ああ。お前の薬には、逆らえそうにないな」
黎峻が口元を僅かに緩めた。
笑みだったのか、ただの筋肉の動きだったのか、それは分からない。
けれど、厳しさしか知らなかった顔に生まれたわずかな緩和は、蓮月の胸に静かな鼓動を響かせた。
沈黙が落ちた部屋で、薪のはぜる音だけが響く。
かつての蓮月なら、その場しのぎの治療を終えたら、深く関わらずに済ませていたかもしれない。
けれど今は違った。
この人に、もう少し触れてみたいと――そんな気持ちが、生まれていた。
それが過ちでも、幻でも構わない。
今だけは、この静かな時間に身を委ねてみたかった。
「どうして、冷酷将軍なんて、言われてるのよ」
「さぁな、俺にも分からん。人は時に、見当違いな評価を人に下す」
「……そうね」
「どうして、毒姫などと、言われてるんだ?」
「さぁ……何でかな。私にも分からない」
泣きたい気持ちを抑え、前を向いた蓮月は黎峻と目を合わせる。
蓮月と黎峻がくすっと笑い、冷たかった空気が和らいだ。
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――海月花夜より――