第1話:毒姫、断罪
――この世で最も人を殺すのは、毒でも剣でもない。
信じていた者に裏切られた時、人は初めて心から死ぬ。
王宮にある鳳凰殿。
冬の朝の大広間は、冷たい空気と静寂に包まれていた。
集まった者の視線が、中心に居る一人の少女に向けられている。
白い薬師衣を身に纏い濃紺の長い髪を背に流した少女、蓮月。
冷たい石畳の上で膝をつき、身動き一つしない。
王妃候補として育ち、皇太子、景晨の婚約者でもあった蓮月。
それが今や、『毒姫』と周囲に居る者たちから囁かれてしまっている。
「……蓮月、そなたに問う。皇太子に毒を盛ったのは、そなたであるか?」
凛とした声は皇太子、景晨から出たものだった。
その目は冷たく、まるで氷の様だった。
かつて蓮月の薬草茶を『癒される』と笑ってくれたその顔は、冷徹さを表していた。
「私は……毒など盛っておりません。あの薬湯は、殿下の体調を考え、慎重に調合したものです」
震える声を抑えながらも、蓮月は真っすぐに前を見て答えた。
それが今出来る精一杯の潔白を示す行動だからだ。
だが、その声は誰にも届かなかった。
「では、なぜ毒が検出された? 殿下は倒れられ、命すら危うかったのだぞ」
声を上げたのは瑾瑜。宰相の娘であり、蓮月の政敵。
楚々とした美貌に、柔らかな微笑み。
けれどその瞳は、冷たく蓮月を見下ろしていた。
「私が確認しましたの。蓮月様が差し出された薬湯の香りが、いつもと違っていたと……」
それは嘘だ。だが、嘘だと証明できる者は、この場には居ない。
いや、居ても誰も蓮月の味方はしなかっただろう。
「皇太子殿下」
蓮月は、最後の希望を込めて景晨を見上げる。
「どうか、私を信じて――」
「……もう、やめろ」
景晨の声は低く、拒絶に満ちていた。
「お前がそんなことをするはずがないと……そう思いたかった。けれど、証拠はすべて、お前が犯人だと示している」
「それでも、私は――」
「信じるには、代償が大きすぎる」
静かな断罪。
蓮月は、自分の心が音もなく割れていくのを感じた。
「……そなたにかけられた嫌疑、勅命により裁定が下る。
本日をもって王宮籍を剥奪、婚約は破棄。王都から追放とする」
宣告を告げる廷臣の声は、まるで雷のようだった。
蓮月の世界が、そこで完全に終わった。
「毒姫などという名が、これでふさわしくなりましたな」
「薬師ごときが皇太子の妃など、夢が過ぎる」
ささやかれる声、蔑み、嘲り。
その中で、蓮月は唇を引き結び、頭を下げなかった。
――泣けば終わる。
取り乱せば、私は本当に毒姫になってしまう。
息を吸い、ゆっくりと吐く。
冷たい石の上に立ち上がった彼女の姿は、誰よりも静かで――美しかった。
「勅令、しかと承りました」
その瞬間、会場が静まり返る。
誰も、泣き叫ぶでもなく、懇願するでもなく、ただ受け入れた蓮月の姿に言葉を失った。
彼女は、誇りを捨てなかった。
「殿下。……お身体だけは、ご自愛くださいませ」
その声に、景晨がわずかに目を伏せた。
けれど彼は、最後まで何も返さなかった。
蓮月は振り返り、衛兵に促されるまま静かに動き出す。
宮廷に敷かれる大理石の廊下を、音もなく歩き去っていく。
白の薬師衣が、凍てつく風にひらりと揺れた。
―――――――――
王都の南門を抜けてから、すでに三刻が過ぎた。
街の喧騒は遠ざかり、代わりに聞こえてくるのは馬の蹄音と馬車の走る音だけだった。
冬の冷気が薄い帷子の隙間から、容赦なく入り込んでくる。
馬車に座った膝の上には、蓮月が自ら荷造りした小さな薬箱と、最低限の着替えが入った網目の籠が一つあるだけだった。豪華な装飾品や王妃候補としての証も、もう何も残っていない。
「はぁ……私、何しちゃったんだろう……」
小さく吐いた息が、外の気温によって白く見え周囲に霧散していく。
なのに胸の奥にある、何かはちっとも消えてなくなってくれない。
痛みではなく身体に纏わりつく様な、全てが終わったという現実の重さだ。
目を閉じた蓮月は、鳳凰殿での出来事を思い出していた。
景晨の冷たい表情。
廷臣たちのざわめき。
瑾瑜の微笑。
全てが、頭の中に残っている。
――結局、誰も私を信じてはいなかった。
蓮月の心は虚しくなるだけで、何故か涙は溢れなかった。
きっと、泣く気力もないのだろう。
そんな落ち込んでいる蓮月に、隣に座っていた御者が遠慮しながら声をかけた。
「その……蓮月、さま……。寒くは、ございませんか?」
慌てて後付けされた『様』という言葉に、思わず蓮月は微笑を見せる。
「お気遣いなく。追放された毒姫に、礼儀なんて要りませんよ」
「い、いえっ……そのようなつもりでは……」
御者は慌てて頭を下げ、直ぐに前方に視線を戻す。
まるで本当に、毒を撒かれるとでも思っているようだ。
蓮月は膝の上にある薬箱を開き、小さな包みに触れる。
それは彼女が調合した解熱の薬であって、断じて毒ではない。
――どれだけこの手で多くの命を救おうとも、あの場に居た者にとっては関係なかった。
「私は……毒など、使っていない。だが――」
ぽつりと蓮月が呟いた。
「もし本当に毒を使っていたのなら……もっと完璧にする。誰にも気づかれず、決して痕跡など残さない」
自嘲や警告の言葉か、はたまた自信なのかも分からない言葉だった。
御者の背中がびくりと震え、蓮月はふっと笑った。
――そう、まだ笑える自分が、居ることに少し救われる。
空を見上げれば、雲の切れ間から淡い光が差していた。
行く先に待つのは、凍てつく辺境。
西河――獣と盗賊と、雪に閉ざされた厳しい地。
「でも、薬を求める人は――必ず居る」
蓮月は目を閉じ、凍てつく風の中で小さく微笑んだ。
――その名に恥じぬように私は、毒で救ってみせる。
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――海月花夜より――