最終話 第五章 奇跡のフィナーレ、永遠の友情
コンクールまであと一週間。
音楽室に響く二つのホルンの音色と一つのクラリネット。私と弘樹と知子の三人で奏でるハーモニーは、もはや完璧な域に達していた。
「OK、今日はここまで」練習を終えた私は、二人に微笑みかけた。「本当に素晴らしい音色だったよ」
「先輩のおかげです」弘樹が目を輝かせて言う。「本番が楽しみで仕方ないっす!」
知子も頷いた。「先輩、この調子なら絶対金賞取れますよね?」
「うん、可能性は十分あるわ」心からそう思った。「ただ、本番でのメンタルコントロールが重要よ」
「メンタルですか…」弘樹が少し不安そうに呟いた。
「大丈夫」私は彼の肩に手を置いた。「あなたたちなら、きっと最高の演奏ができるわ」
その夜、三人で音楽室を出ると、美しい星空が私たちを迎えた。初夏の風が心地よく頬を撫でる。
「わあ、きれい…」知子が空を見上げた。
「星、めっちゃ綺麗っすね」弘樹も感心する。
私は二人を見て、ふと思いついた。「ねえ、ちょっと寄り道していかない?」
「寄り道?」
「ついてきて」
私は二人を連れて、学校の裏手にある小さな丘へと向かった。そこからは町全体が見渡せる絶景ポイントだった。
「わあ!」知子が驚きの声を上げる。「こんな場所あったんだ!」
「すごい景色…」弘樹も感動した様子。
「高校時代、友里恵とよくここに来たの」私は懐かしく語った。「試験前や、コンクール前…ここで深呼吸すると、不思議と気持ちが落ち着くんだ」
三人で丘の上に座り、町の灯りと満天の星空を眺めた。
「先輩」弘樹が静かに言った。「友里恵先輩のこと、もっと教えてください」
その言葉に、私は少し戸惑った。でも、もう隠す必要はないと思った。
「友里恵は…本当に優しい子だった」思い出しながら語り始める。「ホルンの才能も凄くて、私なんかよりずっと上手だった」
「でも…なぜ…」知子が言いかけて止まった。
「自殺したのか、ってこと?」私が言葉を継いだ。「それは…」
深呼吸して、長年胸に秘めていた話を始めた。
「友里恵は高橋先生を心から慕っていたの。二人は音楽を通じて特別な絆で結ばれていた」私は思い出しながら語った。「高橋先生も彼女の才能を本気で認めていて、特別に指導してたの。でも周囲がそれを誤解して...」
弘樹と知子は黙って聞いていた。
「ある日、二人の特別な関係が学校に知られて…周囲は恋愛関係だと誤解し、高橋先生は転勤することになった。友里恵はその才能を理解してくれる唯一の先生を失って絶望して…」
声が詰まる。
「そのとき私は何もできなかった。親友なのに、友里恵の心の叫びに気づいてあげられなかった…」
涙が頬を伝った。
知子が私の手を握ってくれた。「先輩…」
「でも、それだけじゃなかったんです」弘樹が突然言った。「高橋先生のこと…思い出しました」
「え?」
「実は…高橋先生は僕の叔父なんです」
驚きで固まる私と知子。
「本当?」
弘樹は頷いた。「顔は覚えてなかったんですけど、名前を聞いて調べたら…うちの母方の叔父でした。家族の間では『あの事件』として触れちゃいけない話題になってて…」
「そうだったんだ…」
「叔父さんは今、別の県で音楽教師を続けてます。でも…彼も相当苦しんでるみたいです」
弘樹の告白に、私は複雑な心境になった。
「高橋先生を恨んでたけど…」私は正直に言った。「でも今は、ただ友里恵のためにもっと何かできなかったのかって後悔してる」
「それって…」知子が静かに言った。「先輩が教師になりたいと思う理由ですよね?」
鋭い。私は頷いた。
「うん…生徒の心に寄り添える教師になりたいの。もう二度と友里恵のような悲劇を繰り返さないために」
「素敵な先生になりますよ」知子が温かく言った。
「先輩なら絶対できます」弘樹も強く頷いた。
私たちは再び星空を見上げた。どこかで友里恵も見ているような気がした。
***
コンクール前日。私たち三人は最後の特訓を終えていた。
「明日は本番だね」私が言う。「緊張してる?」
「はい、でも…楽しみでもあります」弘樹の表情は晴れやかだった。
「私も!」知子が元気よく言う。「今までの練習の成果、全部出し切ります!」
その時、弘樹が真剣な面持ちで言った。
「先輩、明日の演奏は…友里恵先輩に捧げます」
その言葉に、胸が熱くなる。
「ありがとう…きっと友里恵も喜ぶわ」
「それと…」弘樹はポケットから一枚の写真を取り出した。「これ、叔父さんから送ってもらったんです」
それは高校時代の友里恵と高橋先生の写真。二人とも楽器を持ち、笑顔で並んでいた。
「叔父さんが言ってました。『友里恵さんの死は、みんなが思ってるより複雑だった』って」
「どういう意味?」私は写真を手に取りながら聞いた。
「友里恵先輩は…元々心を病んでいたそうです」弘樹は言葉を選びながら話した。「叔父さんは彼女の才能を見出して支えようとしていたみたいです。二人の間には本当の信頼関係があって…でも周囲の誤解や学校の対応が彼女を追い詰めてしまったんです」
私は写真を見つめながら考えた。友里恵の些細な変化に気づけなかった自分。親友なのに、本当の苦しみを分かち合えなかった後悔。
「先輩」知子が優しく言った。「過去は変えられないけど、未来は変えられます。先輩が教師になれば、きっと多くの生徒の心を救えますよ」
「そうだね…」私は写真を弘樹に返した。「ありがとう、二人とも」
最後の練習を終え、別れ際、弘樹が突然私に深々と頭を下げた。
「先輩、本当にありがとうございました。明日は先輩のために、最高の演奏をします!」
知子も頭を下げる。「私たちに音楽の素晴らしさを教えてくれて、ありがとうございます」
その言葉に、教師としての喜びを感じた。
「明日、最前列で見てるからね」
***
コンクール当日。県民ホールは多くの観客で埋め尽くされていた。
約束通り、私は最前列の席に座っていた。緊張する手に、友里恵の写真を握りしめている。
「美紀」
隣から声がかけられた。振り向くと、なんと明宏が立っていた。
「明宏!なんで?」
「サクちゃんの大事な日だからね」彼は微笑んだ。「来ないわけないじゃん」
「でも、東京から…」
「昨日の夜に着いたんだ」明宏は隣に座った。「最終面接の日程変更のこと、聞いたから」
「ごめんね…」
「謝らなくていいよ」彼は優しく言った。「サクちゃんが輝いてるの、見たかったんだ」
その言葉に胸が熱くなる。
開演時間が近づき、各校の吹奏楽部が次々と演奏を披露していく。どの学校も素晴らしい演奏だった。
「次は、聖桜台学園高等学校」アナウンスが流れる。
私の心臓が高鳴った。ステージに弘樹と知子を含む吹奏楽部の面々が現れる。制服姿の彼らは凛々しく、そして緊張した表情だった。
弘樹がホルンを構える前、客席の私に向かって小さく頷いた。
指揮者の合図と共に、演奏が始まった。
『フェスティバル・バリエーション』の美しい旋律が会場に響き渡る。
私の心の中で、過去の記憶が蘇る。友里恵と一緒に練習した日々。彼女の笑顔。そして最後に見た悲しい表情。
弘樹のソロパートが始まった。彼の奏でる音色は、まるで友里恵の魂そのものだった。透明で、深く、そして温かい。
涙が頬を伝う。
知子のクラリネットも美しく響き、弘樹のホルンと見事なハーモニーを作り出していた。
演奏が終わると、会場に大きな拍手が巻き起こった。
「素晴らしかった…」隣の明宏も感動した様子で言った。
舞台上の弘樹と知子は、達成感に満ちた表情で私を見つめていた。彼らの目は「やりました!」と語っていた。
***
結果発表の時間。
「金賞…聖桜台学園高等学校」
会場から歓声が上がる。弘樹たちが飛び上がって喜ぶ姿が見えた。
表彰式の後、ロビーで弘樹と知子が駆け寄ってきた。
「先輩!やりました!」弘樹の目は涙で潤んでいた。
「金賞、本当におめでとう」心から祝福した。
「これも全部、先輩のおかげです」知子も興奮気味に言った。
「ううん、あなたたちの努力の結果よ」
その時、明宏が横に立ち、弘樹と知子に向かって言った。
「君たちの演奏、本当に素晴らしかったよ。サクちゃんが教えてたって聞いて、納得だよ」
「あ、明宏さんですか?」知子が気づいた。「美紀先輩の彼氏さんですよね?」
「そうだよ」明宏は笑顔で答えた。
弘樹は明宏に向かって深々と頭を下げた。「先輩の彼氏さん、美紀先輩を大切にしてください。先輩は本当に素晴らしい先生なんです!」
明宏は少し驚いた様子だったが、すぐに微笑んだ。「知ってるよ。サクちゃんの素晴らしさは」
その言葉に、私は複雑な気持ちになった。
コンクール会場を後にする時、明宏が静かに言った。
「サクちゃん、決めたんだね」
「うん…」私は頷いた。「教師になる」
「そうだよね」彼は微笑んだ。「君の目、輝いてたもん」
「明宏…」
「俺、明日アメリカに発つんだ」明宏は空を見上げた。「一年間の予定だけど、もしかしたら長くなるかも」
私たちは黙って歩き続けた。言葉は必要なかった。互いの道を進むことを、静かに受け入れていた。
「美紀」明宏が立ち止まって、真剣な表情で私を見た。「君は素晴らしい教師になる。そして、いつか誰かと幸せになる。それを心から願ってる」
「明宏…ありがとう」
彼は優しく微笑み、私の頬に軽くキスをした。「さよなら、サクちゃん」
そして彼は歩き去った。別れの瞬間なのに、不思議と心は晴れやかだった。
***
翌日、最終面接のために東京へ向かった私。
「佐久間さん、その熱意は伝わってきます」面接官は私のプレゼンテーションに感心した様子で言った。「ぜひうちの会社で…」
「ありがとうございます」私は丁寧に頭を下げた。「でも、私は教師の道を選びます」
面接官は驚いた様子だったが、すぐに理解を示した。「そうですか。残念ですが、あなたの決断を尊重します」
会社を出る私の足取りは軽かった。明日は教員採用試験。すべてが新しい始まりに向かって動き出していた。
東京の街を歩きながら、スマホを取り出すと、弘樹からメッセージが届いていた。
『先輩!今日、高橋叔父さんに会ってきました。友里恵先輩のことをたくさん話してくれました。叔父さん、先輩に会いたいって言ってます。良かったら今度…』
返信する。『ぜひ会いたい。友里恵のことを、もっと知りたいから』
そして知子からも。
『先輩、私たちの演奏動画、学校のSNSで公開されました!めっちゃ評判いいです!みんな「誰に教わったの?」って聞いてきます』
微笑みながら返信した。『それは良かった!でも、秘密の先生のことは内緒だよ』
そして、母からのLINEも。
『美紀、教員採用試験の願書、受理されたわよ。藤原先生も応援してるって』
心が温かくなる。これが私の進むべき道なんだと、確信できた。
***
一ヶ月後、教員採用試験の合格通知を手にした私は、母校の音楽室に一人で立っていた。
夕暮れ時の優しい光が窓から差し込み、楽器たちを金色に染めていた。
ホルンを手に取り、深呼吸して吹き始める。友里恵と二人で何度も練習した曲。『フェスティバル・バリエーション』の最も美しい部分。
音色が部屋中に響き渡る。
演奏を終えた瞬間、不思議な感覚に包まれた。まるで誰かが傍にいるような…
窓から差し込む夕陽の光の中に、一瞬だけ友里恵の姿が見えたような気がした。微笑んでいる。
「友里恵…」
幻はすぐに消えたが、心には温かさが残った。
音楽室のドアが開き、弘樹と知子が顔を覗かせた。
「先輩、いました!」知子が嬉しそうに言う。
「お祝いに来ました!」弘樹が花束を手に持っていた。「教員採用試験、合格おめでとうございます!」
「ええ?どうして知ってるの?」
「藤原先生から聞きました」知子がウインクした。
花束を受け取った私の目に、涙が浮かんだ。
「ありがとう…」
「先輩」弘樹が真剣な表情で言った。「来年の教育実習、絶対ここに来てくださいね。約束ですよ!」
「うん、約束するよ」
「その頃には私たち3年生だから」知子も嬉しそうに言った。「先輩の生徒になれますね!」
「楽しみにしてるわ」心からそう思った。
帰り道、三人で学校の裏手にある丘に登った。夕暮れの町と、空に浮かび始めた最初の星が見えた。
「先輩、幽霊先生は引退ですか?」弘樹が笑いながら聞いた。
「ええ、正式な教師を目指すことにするわ」私も笑顔で答えた。
「でも、また時々特訓してください!」知子が頼み込むように言った。
「もちろん、いつでも」
私たちは星空の下で、これからの夢を語り合った。弘樹は音大進学を考え始め、知子は科学と音楽を融合させる研究に興味を持っていた。
「先輩、輝いてますよ」知子が突然言った。
「え?」
「本当に」弘樹も頷いた。「先輩、前より何倍も輝いてます。まるで星みたい」
その言葉に、心が温かくなった。
「あなたたちこそ、輝いてるわよ」
三人の笑顔が、夕暮れの空に溶け込んでいく。
あの日、偶然始まった「幽霊先生」の冒険は、私に本当の自分を見つけさせてくれた。
「友里恵、見てる?」心の中でつぶやく。「私、やっと見つけたよ。本当の輝きを」
永遠の17歳と言われた私は、これから本物の「先生」への第一歩を踏み出そうとしていた。
私の人生の、新しい楽章が始まろうとしていた。
(完)