第四章 輝きだす才能、迫るコンクール
「はい、これが私たちの『特訓計画表』です!」
知子が手作りの予定表を広げた。音楽室の机の上に置かれたそれは、カラフルなマーカーで細かく分かれた時間割だった。
「すごい…」思わず感嘆の声が漏れる。「こんなに細かく…」
「知子、さすがだね」弘樹も感心したように言った。
「当たり前じゃん!」知子は胸を張る。「コンクールまであと3週間。毎日の練習メニューを最適化しないと間に合わないよ」
私たち三人の秘密の特訓は、知子が加わったことで一気に本格化した。彼女はクラリネット担当で、元々弘樹とは違うパートだったが、デュエットの練習も取り入れた総合的な特訓になっていた。
「それと、これも用意しました」知子が小さなデジタルレコーダーを取り出した。「練習の録音と分析用。これで客観的に音をチェックできるよ」
「さすが知子ちゃん、頼りになるわ」私は心から言った。
「えへへ」知子は少し照れた。「先輩のアドバイスを最大限活かせるように考えたんです」
私たちは早速、知子の計画表に沿って練習を始めた。最初は基礎練習、次に難所の集中特訓、そして最後にアンサンブル。
弘樹のホルンと知子のクラリネットが奏でるハーモニーは、予想以上に美しかった。
「二人とも、息がぴったり合ってるね」感心して言うと、二人は照れくさそうに笑い合った。
「付き合いが長いからね」知子が言った。
「小学校からの幼馴染なんです」弘樹が補足する。
「へぇ〜、そうだったんだ」
練習の合間、知子が突然質問してきた。
「先輩、なんで教師になろうと思ったんですか?」
「え?」動揺する私。「まだ決めたわけじゃ…」
「でも考えてるんでしょ?」知子の目は鋭かった。「先輩が教えてる姿、見てると絶対向いてると思うんだ」
弘樹も頷いた。「マジっすよ。俺、先輩に教わるようになってから、すごく上達した気がします」
二人の言葉に、胸が熱くなる。
「ありがとう…」素直に感謝の言葉を口にした。「実は明日、教員採用試験の願書を出してくるつもりなの」
「マジすか!」弘樹が目を輝かせた。
「うん」私は頷いた。「でも、企業の最終面接も残ってるから、まだ完全に決めたわけじゃないけど…」
「先輩、絶対教師の方が向いてます!」知子が熱く言う。「私たちが証人になります!」
三人で笑い合う、そんな何気ない瞬間が、私にとってはとても大切な時間になっていた。
***
翌日、教育委員会に願書を提出してきた私は、なぜか晴れやかな気分だった。スマホを手に取ると、東京の就職先候補からのメールが届いていた。
『佐久間様、最終面接のご案内をいたします。日時:6月15日…』
目を疑う。6月15日—それはコンクールと同じ日だ。
「どうしよう…」
迷いながらも、夜の特訓に向かった。音楽室に着くと、弘樹と知子が何やら古い冊子を広げていた。
「あ、先輩!」知子が手を振る。「見てください、これ!」
差し出されたのは、4年前の卒業アルバム。そこには制服姿の私と友里恵が笑顔で写っていた。
「友里恵先輩と先輩、マジ仲良しだったんですね」弘樹が言う。
「うん…」懐かしさと悲しさが入り混じる。「親友だったから…」
知子がアルバムのページをめくると、音楽祭の写真が出てきた。ホルンを持つ友里恵と私、そして後ろに立つ若い男性教師。
「この先生、誰ですか?」知子が指さす。
私の表情が曇る。「高橋先生…当時の音楽教師」
「あれ?」弘樹が身を乗り出して写真を見た。「この人…」
「どうかした?」私が聞く。
「いや…なんか見たことあるような…」弘樹は首を傾げた。
私は深く考えたくなかった。高橋先生—友里恵が慕い、そして周囲の誤解によって引き裂かれるきっかけとなった人物。思い出したくない記憶だった。
「今日も練習始めましょうか」話題を変える私。
特訓は順調に進んだ。弘樹の音色は日に日に深みを増し、知子とのハーモニーも美しく響く。
「弘樹くん、すごい上達してるわ」心から感心した。
「全部、先輩のおかげです」弘樹が真摯に言う。「あと…」
彼はポケットから小さなお守りを取り出した。
「これ、勝手に作っちゃったんですけど…」
手作りの布製お守り。「友里恵先輩と美紀先輩へ」と刺繍されている。
「私たちのために…?」
「はい」弘樹は少し照れながら言った。「友里恵先輩の分は、コンクールの日、ホルンケースに入れておきます。美紀先輩の分は、ここにあります」
心が震えた。彼は私のことを「美紀先輩」と呼んだ。今までは「ユリエ先輩」か単に「先輩」だった。
「ありがとう」お守りを受け取る手が少し震えた。「大切にするね」
知子も優しく微笑んでいた。
***
週末、思い切って明宏に電話をした。
「久しぶり、元気?」
『ああ、サクちゃん!忙しくてごめん』明宏の声は相変わらず明るい。『インターンの発表会、好評だったんだ!』
「おめでとう」素直に祝福した。「あのさ、話があるんだけど…」
『俺も!海外赴任、確定したんだ。シリコンバレーのオフィスで1年間!』
「え?」
『一緒に行こう、サクちゃん。向こうでも何か仕事見つかるよ』
その言葉に、かつてなら喜んだはずの私。でも今は…
「明宏…」私は言葉を選んだ。「私、教員採用試験、受けることにしたの」
電話の向こうで沈黙が流れた。
『そっか…』明宏の声が少し沈む。『なんか最近、そんな気がしてた。サクちゃん、教える時の話、すごく楽しそうだったから』
「気づいてたんだ…」
『うん』彼は優しく言った。『サクちゃんが輝いてるの、わかるよ』
その言葉に、涙が溢れた。
「ごめんね…一緒に行けなくて…」
『いいんだ』明宏は意外にも明るく言った。『お互い自分の道を行くのが一番だよ。それに…』
彼は少し間を置いて続けた。
『もう少し、時間をくれるかな。最終的な答えは、コンクールの後でもいいんじゃないかな』
「コンクール?」驚いて聞き返す。「なんで知ってるの?」
『え?』明宏も驚いた様子。『さっき言ったじゃん。6月15日の話』
そうか、私が言っていなかったのに…明宏は何かを察していたのかもしれない。
「うん、そうだね」私は答えた。「コンクールの後で、ちゃんと話そう」
***
翌日の特訓前、弘樹から急なLINEが来た。
『先輩、今日は特訓休みます。熱出ちゃって…』
心配になり、知子に連絡すると「弘樹の家に行ってくる」とのこと。私も何かできることはないかと思い、実家で保管していた高校時代の楽譜を探し出した。
その夜、知子と二人で音楽室で待ち合わせ。
「弘樹、大丈夫?」
「うん、ただの風邪みたい」知子は安心させるように言った。「でも先生からコンクールまで安静にって…」
「それは大変…」
「でも大丈夫!」知子は自信ありげに言う。「先輩と私で特別練習メニュー考えたから!」
「特別メニュー?」
「はい!」知子はタブレットを取り出し、プレゼンを始めた。「弘樹が回復するまでの3日間、あらゆる練習を録音して、彼のために最高の『回復プログラム』を作るんです!」
その熱意に感心する。「知子ちゃん、すごいね…」
「弘樹のためなら何でもします!」彼女は照れずに言った。「だって、大切な人だから」
純粋な気持ちに、胸が温かくなる。
「それに…」知子は続けた。「先輩も大切な人になりました」
「え?」
「だって、先輩のおかげで弘樹はここまで成長できたし、私も音楽の新しい魅力に気づけた」知子は真っ直ぐに私を見た。「先輩が輝いてるから、私たちも輝けるんです」
その言葉に、思わず涙ぐんでしまう。
「ありがとう…」
その夜、私と知子は二人で特訓し、弘樹のための「回復プログラム」を作成した。知子のクラリネットと私のホルンが奏でる音色は、不思議と調和していた。
***
次の日の放課後、私は母校の図書室に忍び込んでいた。幸い、図書室は自由に使えるようになっていて、卒業生も利用可能だった。
「友里恵の記事、どこかにあるはず…」
学校新聞の過去の号を探していると、背後から声がかけられた。
「佐久間さん?」
振り向くと、中年の女性教師が立っていた。私の高校時代の担任だ。
「藤原先生!」
「久しぶりね」藤原先生は優しく微笑んだ。「最近、よく学校に来てるって聞いたわ」
「え?」動揺する私。「あの…」
「心配しないで」先生は小声で言った。「夜の音楽室での特訓のこと、知ってるわ」
冷や汗が流れる。バレていたなんて…
「警備員から報告があったの」先生は続けた。「でも、音楽部の顧問として、黙認してたのよ」
「え?なぜ…」
「秋田くんと日向さん、急に上達したからね」先生はウインクした。「それに…あなたが教えてるって聞いて、安心したわ」
「先生…」
「教員採用試験、受けるんでしょ?」
驚いて目を見開く私。「どうして…?」
「母親から聞いたわ」先生は笑った。「佐久間さんのお母さんとは、同僚だものね」
そうか、母が話していたのか…
「友里恵のことを調べてるの?」先生は私の手元の学校新聞に気づいた。
「はい…」素直に認める。「あの事件の真相が…」
藤原先生の表情が曇った。「あの件は、学校としても深く反省してるわ。高橋先生のことも…」
「高橋先生、今どこにいるんですか?」思い切って聞いてみた。
「転勤したわ。今は別の私立高校で教えてるはず」
先生は少し迷った様子で、続けた。
「佐久間さん、あなたは友里恵の親友だったから言うけど…高橋先生は完全に悪者というわけじゃなかったの」
「え?」
「あの事件には、もっと複雑な背景があったのよ」
先生の言葉に、私は混乱した。友里恵の自殺は単純な周囲の誤解だけが原因ではなかったのか?
その時、図書室のドアが開き、知子が顔を覗かせた。
「あ、美紀先輩!いました!」
知子は藤原先生にも丁寧に挨拶し、私に近づいてきた。
「弘樹、熱下がったって!明日から特訓再開できるって!」
「それは良かった」心から安堵する。
「先輩、これも見てください!」知子がスマホを見せる。画面には、弘樹が自宅のベッドで私たちが作った練習音源を聴きながら、指を動かして「空中演奏」をしている動画が映っていた。
「かわいい…」思わず笑みがこぼれる。
藤原先生も覗き込んで微笑んだ。「熱心ねぇ。コンクールが楽しみだわ」
「先生も来てくださいますか?」知子が目を輝かせる。
「もちろん」先生は頷いた。「うちの学校の代表なんだもの。応援に行くわよ」
そして、私に向かって言った。「佐久間さんも来るでしょ?」
「はい」即答した。「必ず」
知子と別れた後、私はスマホを取り出し、東京の企業に連絡した。
『最終面接の日程について、変更をお願いしたいのですが…』
コンクールか就活か—選択肢は一つしかなかった。
***
その夜、久しぶりに三人が揃った特訓。
「先輩、お待たせしました!」弘樹は元気な声で言った。
「具合はどう?無理しない?」
「完全回復です!」弘樹は胸を叩いた。「それに、先輩と知子が作ってくれた練習プログラム、マジで効果ありました!」
彼はすぐにホルンを取り出し、演奏を始めた。確かに、休んでいた間も進歩していたように感じる。
「さすが弘樹」知子が誇らしげに言った。
練習の合間、弘樹が突然言い出した。
「先輩、明日放課後、屋上に来てもらえませんか?」
「え?」
「実は…」弘樹は少し緊張した様子。「吹奏楽部のみんなに、先輩を紹介したいんです」
「えっ?!」私と知子が同時に声を上げる。
「でも、私の正体は…」
「大丈夫です」弘樹は自信ありげに言った。「大学生の先輩として。ウィッグもなしで」
「でも、なぜ?」
弘樹は真剣な表情になった。「みんな、コンクールに不安を抱えてるんです。だから…先輩みたいな経験者の話を聞かせてあげたいんです」
その申し出に戸惑う私。しかし、知子が後押しした。
「いいと思います、先輩。弘樹の言う通り、みんな不安だから」
「でも…学校に無断で入ってたこととか…」
「大丈夫です」弘樹が言った。「藤原先生も了承済みなんで」
驚く私。「藤原先生が?」
「はい」弘樹は頷いた。「先生から『佐久間先輩を紹介してほしい』って言われたんです」
事態が急展開していることに戸惑いつつも、私は頷いた。「わかった。行くよ」
***
翌日の放課後、初めて堂々と正門から学校に入る私。制服ではなく、きちんとしたブラウスとスカートを着ていた。
校門で弘樹と知子が待っていた。
「先輩、いらっしゃい!」二人が笑顔で出迎える。
「緊張するね…」正直な気持ちを伝える。
「大丈夫ですよ」弘樹は私の背中を押すように言った。「みんな先輩のこと、待ってます」
屋上へ上がると、そこには吹奏楽部の部員たち約20人が集まっていた。藤原先生も一緒だ。
「みんな、こちらが佐久間美紀先輩です!」弘樹が誇らしげに紹介する。「4年前に全国大会に出場した伝説のホルン奏者です!」
「伝説って…」恥ずかしくなる私。
部員たちからは「すごい!」「憧れます!」という声が上がった。
藤原先生が前に出て、私に頭を下げた。「佐久間さん、秋田くんと日向さんの特訓、ありがとう」
「え?先生…」
「実は私、最初から知ってたのよ」先生はウインクした。「二人がぐんぐん上達するから、誰か素晴らしい先生がいると思ってたの。佐久間さんだったとは…」
先生の言葉に、胸が熱くなる。
「先輩、演奏聴かせてください!」部員の一人が手を挙げた。
「え?今?」
「お願いします!」みんなが声を揃える。
弘樹がホルンを差し出した。「先輩、お願いします」
部員たちの期待に満ちた目を前に、私は深呼吸してホルンを手に取った。
屋上の風が心地よい。空は青く広がり、雲一つない晴天だった。
ホルンを構え、息を吸い込む。そして、吹き始めた。
『フェスティバル・バリエーション』の一番美しい部分。友里恵と一緒に何度も練習した思い出の旋律。
音色が屋上に、そして校庭に響き渡る。
演奏を終えると、一瞬の静寂の後、大きな拍手が沸き起こった。
「すごい…」「きれいな音…」「感動した…」
部員たちの目は輝いていた。
藤原先生が私の肩に手を置いた。「素晴らしかったわ、佐久間さん」
その言葉に、涙がこみ上げてきた。
先生は部員たちに向かって言った。「みんな、佐久間さんは教員採用試験を受けるそうよ。将来、こんな素晴らしい先生が生まれるんだから、私たちも頑張らないとね」
拍手の中、弘樹と知子が駆け寄ってきた。
「先輩、マジで感動しました!」弘樹の目も潤んでいた。
「先輩、輝いてました」知子も感激した様子。
そして、弘樹はみんなの前で宣言した。
「僕たち、コンクールで絶対に金賞取ります!」
「おー!」部員たちから力強い掛け声が上がった。
青空の下、輝く太陽のように、私の心も明るく輝いていた。
帰り道、弘樹と知子が私を校門まで送ってくれた。
「先輩、今日はありがとうございました」弘樹が深々と頭を下げる。
「いや、私こそ」心からの感謝を伝えた。「こんな機会をくれて」
「先輩」知子が真剣な表情で言った。「コンクールの日、最前列の席、取っておきますね」
「ありがとう」私は笑顔で答えた。「必ず行くから」
校門を出る前、振り返ると、校舎の窓に夕陽が反射して輝いていた。その光景に、心が震えた。
あの日、ひょんなことから始まった「幽霊先生」の冒険は、今や私の人生を大きく変えようとしていた。
「友里恵…」心の中でつぶやく。「私、ようやく見つけたよ。本当の居場所を」
スマホを取り出すと、東京の企業からのメールが届いていた。
『面接日程の変更承りました。新しい日程は…』
コンクールの翌日に変更できたのだ。
そして、母からのLINEも。
『美紀、藤原先生から連絡があったわ。今日の演奏、素晴らしかったって。ママ、嬉しいわ』
返信する私の指が震えていた。
『ママ、私、決めたよ。教師になる』
送信ボタンを押した瞬間、心が晴れやかになった。
(つづく)
続きは明日21日更新します。