第二章 秘密の音色、広がる絆
「えっと、この部分の音色、もう少し柔らかく…息の流れを意識して」
夜の音楽室。窓から差し込む月明かりの中、私は弘樹のホルン演奏を熱心に聞いていた。昨日から始まった「幽霊先生」としての特訓は、意外なほどスムーズに進んでいる。
「こう…ですか?」
弘樹が再度挑戦する。息の流れが変わり、音色に豊かさが生まれた。
「そう、その感じ!」思わず拍手してしまう。「音が生きてきたわ」
弘樹の顔が明るく輝いた。学校一のイケメンと噂の彼は、笑顔になるとさらに眩しい。
「ユリエ先輩、マジ天才っすね!たった二日でこんなに変わるなんて…」
私は友里恵の幽霊を演じるため、長いウィッグと高校の制服を着ていた。幸い、母が私の卒業時の制服を記念に取っておいてくれていたのだ。
「あのさ…先輩」弘樹が恐る恐る聞いてくる。「なんで俺に教えてくれるんですか?」
その質問には私も考えていた。なぜ私はこんな危険なことをしているのか?
「あなたの…情熱が伝わったからかな」正直に答えた。「音楽を愛する気持ち、それがね」
弘樹は少し照れたように楽譜を見つめた。
「でも…」彼は声を潜める。「本当は先輩のことを知らなくて…すみません」
私はドキリとした。私が友里恵のフリをしていることがバレたのか?
「実は…ユリエ先輩の話は、学校の七不思議として聞いていただけで…」弘樹は申し訳なさそうに続けた。「四年前に…亡くなられたって…」
ああ、そういうことか。安堵のため息が出そうになるのをこらえる。
「気にしないで」私は微笑んだ。「私はホルンの音色に惹かれて現れただけだから」
「でも先輩、なんであの時、自ら命を…」
その言葉で私の表情が凍りついた。友里恵の自殺。それは今でも私の心の傷。
「それは…今は話したくないわ」
弘樹はすぐに頭を下げた。「すみません!余計なこと聞いて…」
気まずい空気が流れる。そんな時、弘樹のスマホが震えた。
「あ…」彼は画面を見て表情を曇らせる。
「彼女?」思わず聞いてしまった。
「えっ?!」弘樹が驚く。「幽霊でも分かるんすか?」
思わず笑ってしまう。「女の勘かな」
「知子って言うんです…同じ吹奏楽部の…」彼は少し困ったように画面を見つめている。「最近、俺が夜いなくなるから心配してて…」
「秘密にしてくれる?私のこと」
「当たり前じゃないですか!」弘樹は即答した。「誰も信じないし、それに…」彼は声を落とす。「これは俺と先輩だけの特別な時間だから」
その言葉に、胸が妙に温かくなる。
***
翌朝、実家の私の部屋。スマホの画面を見つめながら、ため息をついた。
「また落ちた…」
大手メディア企業からの不採用メール。ゴールデンウィーク明けの就活も、順調とは言えない状況だ。
LINEを開くと、彼氏の明宏からのメッセージがあった。
『今度の土日、帰ってくる?インターン発表会あるから来てほしい』
明宏はIT系のインターンで頭角を現し、同じ大学なのに私より先に内定をもらっていた。私より二つ年下なのに。
返信するかどうか迷っていると、母が部屋をノックした。
「美紀、ごはんできたわよ」
「うん…」
母は部屋に入ってきて、私のベッドに腰掛けた。
「就活、うまくいってない?」
「…うん」正直に答える。「見た目が若すぎるって、やんわり言われる」
母は私の髪を優しく撫でた。
「それなら、その若さを活かせる道もあるわよね」
教職のことだ。わかっている。でも…
「ママ、私教師に向いてると思う?」思わず本音が漏れた。「友里恵のこともあるし…あの時、私何もできなかったのに…」
母の表情が曇る。友里恵の自殺は、母校の暗い記憶だった。担任教師との恋愛関係が噂され、真相は闇に葬られたままだ。
「美紀、あなたは悪くないわ」母は強く言った。「それに、だからこそ、あなたのような優しい先生が必要なのよ」
言葉に詰まる私。母は立ち上がり、部屋を出る前に一言。
「ところで、最近夜遅くまで出かけてるけど、どこ行ってるの?」
「え?あ、ただの散歩…気分転換に」
嘘をつく自分に罪悪感を覚えつつ、窓の外を見る。母校の校舎が見える。あそこでは今日も弘樹が練習に励んでいるのだろうか。
***
夕方、実家近くのショッピングモールで買い物をしていた私は、思わぬ人物とバッタリ会った。
「あれ…秋田くん?」
制服姿の弘樹だ。彼の隣には同じく制服を着た女子生徒。きっと彼女、知子だろう。
弘樹は私を見て目を丸くした。当然だ。昨夜まで「ユリエの幽霊」として彼に特訓していたのに、今は普通の大学生の姿なのだから。
「あの…どちら様…?」弘樹は知らないフリをした。賢い判断だ。
「あ、ごめんなさい。私、聖桜台の卒業生で…」咄嗟に言い訳を考える。「制服でわかったから…」
「あ、そうなんだ」隣の女子が愛想よく笑った。「先輩ですか?」
「ええ、まあ…」
「私、日向知子です」彼女は礼儀正しく頭を下げた。「吹奏楽部です」
「あ、私も吹奏楽部だったの!」思わず本当のことを言ってしまう。
「マジですか?」知子が食いついてきた。「何の楽器を?」
「ホルン…」
弘樹の表情が変わった。目が合う。彼は何かを察したようだ。
「え?ホルン?」知子は驚いた様子。「それって弘樹と同じじゃん!」
「そうなんだ…」私は会話を切り上げたくなった。「じゃあ、頑張ってね。そろそろ行くから」
立ち去ろうとする私に、弘樹が声をかけた。
「あの、先輩!」彼は演技が上手い。「もしよかったら、アドバイスとかもらえたりしないですか?」
知子が疑問の表情を浮かべる中、弘樹は私に名刺を差し出した。裏には手書きで『今日も来てください』と書いてあった。
「あ、ええ…時間があれば」
そう言って私は立ち去った。背中に知子の視線を感じながら。
***
その夜、いつものように音楽室に忍び込んだ私を、弘樹は熱心に待っていた。
「来てくれたんですね、先輩!」
私はウィッグと制服に着替え、「ユリエ」の姿になっていた。
「さっきはビックリしたでしょ?」
「マジでびびりました」弘樹は素直に認めた。「先輩、二重生活してるんすか?」
「まあね…」曖昧に答える。「あの子が知子ちゃん?」
「はい…」弘樹の表情が複雑になる。「彼女には内緒にしてます、夜の練習」
「秘密にするのは大事ね」私は同意した。「幽霊の話、信じてくれなさそう?」
「知子は超現実主義者なんで…」弘樹は苦笑した。「『この世に幽霊なんていない』って断言するタイプなんです」
なるほど、それは助かる。
「でも…」弘樹が真剣な表情になる。「さっきのこと、考えてたんです。先輩がホルンだったこととか…」
緊張する私。何か気づいたのだろうか?
「もしかして…」彼は言葉を選びながら続けた。「先輩は本当のユリエ先輩のお友達だったりします?だから、ユリエ先輩になりきって、俺を教えてくれてるとか…」
鋭い。完全に見抜かれてはいないものの、かなり近い。
「それは…秘密」微笑みながら答えた。「大事なのは、あなたがホルンが上手くなること」
弘樹はしばらく考えていたが、すぐに納得したように頷いた。
「そうっすね!」彼は楽譜を広げた。「じゃあ今日も特訓お願いします、ユリエ先輩!」
私たちの秘密の特訓は続く。この不思議な関係がどこに向かうのか、まだわからない。
でも、この時間だけは、就活の不安も、友里恵への罪悪感も忘れて、純粋に音楽と向き合える。
弘樹のホルンの音色が音楽室に響き、それに合わせて私も演奏する。二つのホルンが奏でるハーモニーは、月明かりの中で美しく輝いていた。
***
翌朝、母からのLINEで目が覚めた。
『美紀、就職相談会のパンフレット持ってきたわよ。教員採用試験の日程も出てるから、帰ってきたら見て』
教員になる道。それは逃げではなく、新たな選択肢なのかもしれない。
スマホをスクロールすると、大学の友人たちとのグループLINEで盛り上がっていた。
『サクちゃん、久しぶり!最近どうしてる?』
返信しようとして、指が止まる。「最近どうしてる?」と聞かれても、何と答えればいいのだろう。
「実は高校生の幽霊のフリをして、イケメン男子にホルンを教えてるの」
そんなこと、誰も信じないだろうし、言えるわけがない。
でも、不思議と胸が温かくなる。この秘密の特訓は、私にとっても大切な時間になりつつあった。
ベッドから起き上がり、窓から外を見る。春の陽光が降り注ぐ母校の校舎。
今夜も、あの音楽室で特別な時間が始まる。
(つづく)
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