彗星が光れば流星が走る
ラベンダーの香りがして振り返る。
混雑した駅のホームでのことだった。
私は咄嗟にAを探した。しかし、電車を待って並ぶ人の列にも、階段にも、エスカレーターにもAはいない。
(いないか)
諦めるように自分に言い聞かせたものの、私の体は匂いの跡を追って歩き出していた。背中にじわりと汗が出る。もう引き返すことができなくなっていた。
忘れることができない、あの日の不可思議な出来事。
誰に話しても、よくできた心霊話だとか、作り話だとか、馬鹿にされるだけで信じてもらえない。いつしか夢だったのだと言い聞かせるようになった。
でも、結局できなかった。あれは確かに現実で起きたことなのだ。
(確かめたい)
だから、私はラベンダーの香りを追いかけずにはいられなかった。
(また会うって約束をしたはずだ)
香りの先にはきっとAがいる。
★
Aがバイト先の喫茶店にやってきたのは八月の、ものすごく暑い日ことだった。
「写真、譲ってもらえませんか?」
大柄な体を縮めてカウンター席に座り、額に浮かぶ玉のような汗を拭きながら、若い男Aは店主の娘に懇願している。店の奥に飾られた写真がどうしても欲しいらしい。
とある場所の夜の景色を写したものらしいが、私のような新人アルバイトは、いつ誰が撮ったかも、どういう経緯で飾られているかも、何も知らない。夜空には彗星と流れ星が同時に輝いていて、二人の小さな女の子がラベンダー畑でそれを見上げていた。
何かあったら男の私が出ていって制止すべきかどうか見ていたが、大人しく座るAは乱暴者というわけではなさそうだった。
「お願いします!」
懇願してから、アイスカフェオレを一気に飲み干す様を、店主の娘は熱視線で見つめた。
それから、
「無理です」
と、冷たく答える。
「そこを頼んでいるんです」
決して引き下がろうとしないAの態度は、その図体のデカさを際立てて、小柄な店主の娘をさらに小さく見せていた。
「無理です。あれは、父親が友人にいただいた大切な写真です」
ピシャリと言われ、Aは肩を落とす。古ぼけてしまった熊のぬいぐるみみたいな後ろ姿になっていた。
「コピーしたらいいんじゃないですか?」
私が空っぽになったアイスカフェオレをグラスを下げながら言うと、二人は揃ってため息をついた。どうやら場違いな発言のようだ。それでは駄目らしい。
Aはふと立ち上がり、古そうな帽子を被って、テーブルにメモとお金を置いた。
「僕のアパートです。気が変わったらここに写真を届けてください」
そう言ってから店を出ていった。お金の下のメモをちらりと見る。ボールペンで書かれた住所は私の住むアパートと近かった。ご近所さんなのか。
「あれって新しい種類のナンパですか?」
Aの姿が見えなくなると、私は眉間にシワを寄せて言った。
「やめてください」
乱暴にメモとお金を掴んで、店主の娘は思い切り私を睨む。ぱっと逸した顔が赤い。Aからの好意を感じ取っているのだろう。
(やっぱり彼女を狙ってるんだろうな)
店主の娘には不思議な魅力があったから。 少し離れ気味の目も、エプロンの下のふくよかな胸も、前髪のくせ毛も、とても可愛らしかった。見た目もそうだけど、くるくるとよく働くところとか、失敗をフォローするのが猛烈に早いところとか、知れば知るほど彼女に惹かれていく。
だから、その後もしつこく喫茶店を訪れるAのことを、私は好きにはなれなかった。
★
いつからか、私はAの家をそれとなく探すようになっていた。
(何ハイツだったっけ?)
Aに会ってはっきり言ってもいいと思っていた。彼女につきまとうのはやめろ、と。
我ながらおかしいと思う。バイトを始めてたったひと月しか経っていないのに彼氏面して一言言ってやろうと考えていたのだ。
そんな矢先Aの姿を見つけた。
近所のコンビニに入っていった。一瞬前のめりになったのだが、私は思わず押しとどまる。Aが高齢の女性と一緒だったからだ。
Aはカゴを持ち、その高齢の女性を気遣うようにゆっくり店内を歩く。私は近くの商品を見るふりをして、その後ろについていく。
「僕が行くよ」
そう言ったAを見上げ、女性は顔をしかめた。
「危ないよ」
「でも、写真があったんだ」
「あの喫茶店は多分……」
その後の会話は聞こえなかった。耳をそばだててみたが、近くを通った客のせいでかき消されえしまった。これ以上近づくと気づかれてしまう。
「あの娘が犯人だと思う」
Aの一言を最後に、二人はレジへと向かった。それ以上の盗み聞きはできなかった。
(犯人?)
店主の娘が何をしたのだろうか。
あの写真と関係があるのだろうか。
私は喫茶店の写真を思い出していた。
確かに心に残って忘れられない。写真なのに、夢や幻のように美しいのだ。
夜空の彗星と流れ星が印象深く、ラベンダーの紫色の匂いが頭の奥底で立ちこめる。四角い画面の中で、明るいようで仄暗く、幻想的なのに都会的で、降り注ぐ彗星の尾っぽまで嘘か本当かわからない。それを二人の女の子が今にも動き出しそうで、目が離せない。
そんな写真だった。
★
その写真が盗まれたのは次の日だった。
いつもの出勤時間に喫茶店へ行くと、入り口のガラスが割られ、それを店主の娘が掃除しているところだった。
「防犯カメラにはAの姿が映っていたの」
ホウキを動かしながら、店主の娘が言う。
「今朝来たら写真がなくなってて」
「警察へは届けましたか?」
娘は首を振る。
「お父さんが、Aに会ってこいって」
「会ってこい?」
「返してもらう。まだ若いのに警察沙汰は可哀想って」
「お父さんも行くんですよね」
「いいえ、わたしだけ」
ガラスを集め終え、娘は店内に入っていった。
私には信じられなかった。あいつの家に一人で行かせるなんて。あの父親は何を考えているんだ。
口髭の店主とは面接の時一度だけ会ったが、それ以来顔を見せていない。
「一緒に行きます!」
わたしの言葉に店主の娘は振り返って目を見開いた。それから少し俯いた。
「でも」
断られる。その表情からそう思ったが、私は絶対に嫌だった。
「一人では行かせられません」
手でも握りしめて、目を見つめて、熱く言えればよかったのかもしれない。今の私は、大声で暑苦しく叫ぶしかできなかった。
「厚かましいですか?」
訊ねると、店主の娘の眉尻が下がった。
「ううん」
首を振ってから、恥ずかしそうに笑った。
★
そういうわけで、私と店主の娘は二人でAの家へいくことになった。
21時に店を閉めてから出発したので、外は真っ暗だった。改めて一人で行かせなくてよかった。少し着飾った店主の娘と並んで歩いて、私はドキドキしていた。喫茶店のエプロン姿以外は初めて見るのと、女性と二人で歩くのなんて幼稚園か小学校以来だったから。
「もし写真を見つけたら、取り上げてほしいの」
ふいに、店内の娘が言った。
「それで、二人で逃げましょう」
彼女は少し冗談めかした笑みを浮かべ、私を見上げる。
「お願いね」
その首元や胸元からふんわりといい匂いがして、私はうなずきながら鼻の下を伸ばしていた。
Aのアパートは、大通りを1つ入って、更に細い路地の奥にあった。メモに書いてあるとおり、二階の端の部屋へ向かう。
「Aさん、いますか?」
インターホンを押して、店主の娘が呼びかける。
「開いてます。入ってください」
古いアパートだった。玄関を入るとすぐに台所があり、奥の部屋は、戸が閉められていて何があるかわからない。
シンクの前にAは立っていて、ダイニングテーブルを見つめている。そこには写真が置いてあった。明かりはシンクの蛍光灯しかついていなくて、よく見えない。
「今日はバイト君も一緒でごめんなさい」
店主の娘はそういいながら、靴を脱いで写真に近寄った。
(今日は?)
私もそれに続きながら、首を傾げていた。
私と一緒だとなぜ謝るんだ?
どうにも引っかかる言葉だ。まるで一人で会いに来たことがあるみたいな言い方。
そういえば、娘はここへも迷いなくたどり着いた。まるで何度も訪れていたかのように。
「写真を返してくれたら、警察には言わない」
「それはこちらの台詞です」
Aは眉を寄せた。
「妹たちを返してください」
店主の娘は黙っている。
(妹たち?)
私にはわけがわからない。まるで、店主の娘が妹を誘拐したとでも言っているようだ。
「祖母は見ているんだ。この写真が光るところを。妹たちが吸い込まれるところを」
さらにわけがわからないことを言い出した。そんなことがあるものか。冷笑してやろうとしたとき、
「あら」
店主の娘はキッとAを睨む。
「妹たちを父に預けて何をしていたか話せるの? 妹たちをほっといて、わたしと何をしていたか」
その口ぶりは責め立てるようだった。
「それは……」
Aは口ごもる。
「だから警察にも言えないのよね。向こうの部屋で寝ていらっしゃるおばあさまも、妹たちも、それを知ったら嘆くでしょうから。他人に妹を任せてわたしといい仲になっていたなんて」
Aはうつむいて黙り込む。それは彼女の発言を肯定したということだ。
いい仲だと、確かに言った。狙っているのではなく、すでにそういう仲だったのか。
私はショックでしばらく頭の中が真っ白になっていた。
「写真は返してもらいます」
こちらの動揺に気づく様子もなく、店主の娘はAに向かって静かに言った。そして、ちらりと私を見た。
(早く写真を取って!)
彼女の目に訴えかけられ、我に返った私は急いで写真を覗きこんだ。さっき話したとおり、このまま取り上げてしまおう。
二人は付き合っていたのかもしれないが、今にも別れそうじゃないか。そうなれば、写真を取り上げる計画を成功させた私にチャンスが巡ってくるに違いない。
今思えば、我ながら馬鹿馬鹿しいほど前向きに考えていたのだ。
しかし、私は写真に手をかけた瞬間、持ち上げるのを躊躇ってしまった。写真に違和感があったのだ。よく見ると、それは違和感どころではなかった。はっきりとした違いだ。
「流れ星がない」
思わず呟いていた。写真には彗星と、反対側には一筋の流れ星が走っていたはずだ。これにはない。
「これは偽物?」
私はAを見る。Aは悲しげに微笑みながら店主の娘に視線を向ける。お前が説明をしろとでも言うように。店主の娘は大げさな溜息をついた。
「あんた、案外目聡いのね」
その一言に背筋が凍りついた。
声も、表情も、普段の気立ての良い娘とは別人だった。
「役立たず」
冷たい言葉を重ね続ける。
「何も考えずに取り上げてしまえばよかったのに」
こんなに目尻を釣り上げ、怒りを露にする彼女を初めてみた。まるで悪い魔女のようだ。
「……ん」
その時、声がした。
「お……ゃん」
しばらく信じることができなかったが、とぎれとぎれのその声は、確かに写真から聞こえた。私はそっちを見るしかできない。美しい北の大地の、美しい写真から目が離せない。
彗星がにわかに光る。
それは全ての合図だった。
「……たすけて」
もうはっきりとその声が聞こえた。
「助けて、お兄ちゃん!」
彗星に呼応して流れ星が流れ、その光の筋が割れ、大きく開いた。溢れ出す銀色の光に目が眩んだ。
「穂香! 実月!」
Aは叫ぶと、光の中へ手を伸ばす。そして、音もなく、写真の中へと飲まれていく!
私は光の中に埋もれるAに、手を伸ばそうとした。咄嗟に助けようとしたのだと思う。でも、店主の娘が私の腕を強く引っぱった。
「お前は関係ない」
冷たい声で私に言い放つ。
「一体どういうことですか?」
「だから、お前には関係ない」
目を細めて光を見つめたままだった。私には説明する必要はないというのか。
その時、再び写真の中から声がした。
「あなたたちはお帰りなさい」
柔らかく丸みを帯びながら、どこか粘り気のある成年男性の声。それは店主の声だ。
「裏切るのね!」
店主の娘がヒステリックに叫ぶのを遮って、激しい光は部屋中を照らした。目を開けらない。立っていられずに膝をついてしまった。
「お父さんの裏切り者!」
最後に聞いた彼女の声だった。恐る恐る目を開ける。光が弱くなっていた。
その光の中から、Aと、幼稚園児くらいの女の子二人が現れ、ダイニングテーブルの前に押し出される。
「これはどういうことなんだよ」
私はAに向かって言ったが、Aは全く聞いていない。女の子と抱き合ってわんわん泣いていた。よかった、よかったと繰り返して。写真の光は完全に消え、もとの姿に戻った。
振り返ると店主の娘はいなかった。
★
年の離れた双子の妹が祖母と遊びに来ていてね。目を離したすきに、いなくなった。
探していたら、あの喫茶店の前に妹たちがいた。どうやら変な男に話しかけられたのを、店主の娘が助けてくれたらしい。それをキッカケに、僕と彼女は仲良くなってね。
でも、彼女の目的は最初から妹たちだった。 妹たちを言葉巧みに誘い、写真の中に閉じ込めて、返してくれなくなってしまった。
祖母は僕の話を信じてくれた。最初はもちろん取り合わなかったけれど、夜に一人で喫茶店へ見に行ったらしい。そこでこの写真が光るのを見たと言っていた。
それで、一人で喫茶店を訪ねたけれど、写真の中に閉じ込められた孫を返してほしいなんて、老人の耄碌だと侮蔑されて取り合ってもらえなかった。僕が頼んでもダメ。
君はそれを見ていただろう?
だから僕は力尽くで写真を奪い、妹たちを取り返したんだ。
★
それが、Aの話だった。
店主の娘が消えたAのアパートで、私は話を聞くまで帰らないと凄んで居座ったのだ。
あのまま帰れなんて、納得できるわけない。光る写真も、その中から現れた双子も、店主の娘が消えたのも、受け入れがたい摩訶不思議な出来事だったから。
「でも、トシオさん、優しかった」
「レイカちゃんも」
「だから怒らないで」
双子の妹たちは口を揃えていった。トシオは口髭の店主で、レイカは娘のことらしかった。
「にーちゃん、ほんとだよ」
「ほんとうなんだよ」
双子はAにまとわりつく。Aは困り顔で、でも嬉しそうに二人の頭を撫でた。
「あの人、何者なんですか?」
「わからない」
「わからないんですか? 恋人だったのに?」
「そういうんじゃなかったんだ」
じゃあ、どうだったのだ? そう問いただしたかった。でも、あまりにかっこ悪すぎる。彼女に利用されて、ノコノコついていって、その上Aにまで突っかかったら、情けなくて立ち直れそうにない。
「警察に届けなかったの?」
「写真の中に閉じ込められたなんて言えないし、それに……」
彼女が好きだったからと言い出しそうで、私は聞き出すのはやめた。
「写真を預かります」
「いや、うちに置いておく」
「これ、盗み出したんですよね。妹さんたちのためと言っても、ダメなものはダメですのね」
私は意地でも引き下がらなかった。この写真を元の場所へ戻すことで、自分の負けを少しでも誤魔化したかったのかもしれない。
「必ず、明日喫茶店へ届けます」
Aはじっと私を見つめた。見定めているようにも、考え込んでいるようにも見えた。
「信じてください」
私がそう言うと、Aはにっこりと笑った。
「じゃあ、お願いするよ」
Aは写真を梱包用の段ボールに入れ、私に手渡す。
「もしかして、この写真を飾っていたら引きずり込まれますか?」
「どうかな」
「Aさんは行かなかったんですか?」
「選ばれなくてね」
Aは段ボールに包まれてしまった写真をじっと見つめた。
「またこの写真の前で会おう」
Aからほんのりといい匂いがした。それは店主の娘と同じ匂いだった。
その夜、私は一人暮らしの部屋で、持ち帰った写真をしみじみと眺めた。やはり、美しい写真だった。
写真の夜空を流れ星が走り、夜闇を斬り裂いて、向こうの世界へ手招きしている。
あの娘はそっちへ行ってしまったのだろうか。
(明日、ちゃんと店に戻そう)
私は写真を段ボールに戻し、その日は眠りについた。
★
翌日のことは、忘れられない。
まず、朝起きると、写真は消えていたのだ。 どこにもないのだ。あんな大きなもの、失くすわけもない。勝手に飛んでいくわけもない。
慌てて駆けつけた喫茶店は、何故か閉店していた。
昨日まで確かに開いていたはずなのに、壁も屋根も看板も、長い年月放置された廃屋のようだった。
しかも、入り口のガラスは割れていない。 狐につままれた。狸に化かされた。そんな言葉が頭の中をぐるぐると回る。
今までの全ては夢だったのか?
「こら!」
後ろから声がした。私に向かって、見たことのない高齢男性が自転車に乗ったまま怒鳴ったのだ。
「えっ?」
バイト先が突然閉店していたという不可解な出来事に重ねて、なぜか知らない人に怒られている。私はもう訳がわからず立ち止まったまま固まってしまった。
「どうせ心霊動画を撮りに来た口だろ?」
老人は私に構わず吐き捨てる。
「違います!」
即言い換えした。
「全くの誤解です。この喫茶店に入りたいんです」
「入れないよ。見たらわかるだろ?」
確かに。どう見ても潰れた店だ。
「閉店したのは昨日ですか?」
「いや。何年か前。ずっとこのままなんだ」
「こんな閉店してボロになった喫茶店になにか用だったのか?」
「あの……写真を見に」
適当にいったつもりだった。しかし、高齢男性は一瞬目を見開いたあと、小さくうなずいた。
「そうか。あの写真か」
「見たことあるんですか?」
「何年も前にね。あの子のお気に入りだった」
「あの子って?」
「オーナーの娘だよ。可愛い子でね。結婚して子どもができたって聞いたけど、それからすぐに店を閉めて、オーナーも娘さんも逃げるようにいなくなった」
「どうしてですか?」
「さあね。誰も行方を聞いていないんだよ。ご近所とも割と仲良くしていたに。残念だよ」
ふと、老人が私を見つめた。
「あんた、いい匂いするな」
「えっ!」
そんなことを言われたのは初めてだ。驚いて後退りしてしまった。
「ああ、この匂い知ってるな。ラベンダーだ。うちのばあさんが好きな匂いだ」
おじいさんはそう言って、自転車に乗り直し、
「閉店していても空き家に入ったら空き巣だ。諦めて帰りなさい」
そう言って去っていった。
その背中を見送りながら、私は昨日のAの顔を思い出していた。
(Aだ)
Aが私の跡をつけ、写真を盗んだに違いない。Aが私を見つめ、なにか訴えかけるような仕草していたのを思い出すと、それ以外考えられない。
(何が、またこの写真の前で会おう、だ)
二度と会わないという意味だったのだ。
私はAのアパートへ走り出していた。
ところが、探したけれどどこにもない。細い路地のその奥が消えてしまっていた。私は再びその場に立ち尽くすことになった。
本当に夢を見たのだろうか。
いや違う。あれは現実だ。
でも、証明できるものは何もない。何故写真の1つでも撮らなかったのだろう。連絡先の交換をしなかったのだろう。
しばらくの間、私の頭の中は後悔と混乱でいっぱいになっていた。
★
時が過ぎて、あの喫茶店のことは忘れかけていた。
いや、やっぱり忘れたわけではない。考えても仕方のないことは考えないことにして、記憶の奥に押し込めたのだ。
そして、あのラベンダーの香りが今日、背後から漂った。並んでいた駅のホームの列から外れ、私は匂いを追いかけた。地上へ出る階段を駆け上り、街中へと匂いは誘う。
歩いて、歩いて、私は見つけた。
都会の真ん中から少し外れ、細い道の奥。小さな喫茶店のガラス窓の向こうに、二つの写真が並んで飾られていた。ひとつはあの写真だ。夜のラベンダー畑の上で彗星は輝き、幻想的な光を仄暗く放っていた。写真の中で、双子と一人の女がそれを見つめている。
女の横顔が振り返り、小さく微笑むのを見て、あの頃に覚えた焦燥がチリリと私の胸を焦がした。
そして、もう二度とラベンダーの香りを追いかけないことに決めた。
何故なら、女の微笑みは私ではなく、もうひとつの写真に向けられていたと気づいたからだ。
そこには懐かしいあの喫茶店の、あのカウンターに座る熊みたいな男が写っている。アイスカフェオレを片手に、玉のような汗をかいている。
あの日のAが写真に閉じ込められ、呪われ、出られなくなったように見えた。
しかし、それは一瞬のこと。
うつむき加減だった男は彼女の視線に気づくと顔を上げ、優しく、微笑み返していた。
深い幸福に満たされた二人だけの世界を見せつけられ、私は逃げるように立ち去るしかできなかった。