3-1 バイト仲間を装うやつを探れ
3 ハニートラップに気をつけて
★
「今から1時間は、訓練時間。」
10月に入り、暑さも和らいできたころ、ぼくの家にやってきた莉亜が宣言した。そして、にわかにぼくの耳もとに口を近づけて、ささやく。
「もちろん、終わったあとは、お泊まりするからね。」
身体が勝手に反応する。
「じゃ、始めましょう。相手の隙をついてキスをするってのはどう? 相手の動きを読んで自分から攻撃するとともに、相手から近づいてくるのはよけるってことになるでしょ。」
なんだそれは。訓練の中身も2人の関係性に合わせて進化したってことか。
「たくさんキスをしたほうが勝ち。負けた方は、そうね、らいくんが負けたら、きょうはお預け。私が負けたら、らいくんの好きなこと、なんでもしてあげる。じゃ、スタート!」
なんでもって、ほんとになんでもなんだな? 安直なことばを使ったことを後悔させてやる。即興のルールをいちおう飲み込んだぼくは、突っ立って莉亜のようすをうかがうが、莉亜は、まったくぼくを意に介していないかのように、ソファーの上でスマホを取り出し、いじっている。
なんだ、実はキスしてほしいんだな。ひょっとしたら、ベッドでぼくに無茶な要求をされることを望んでいるのかもしれない。
ぼくは素早く距離を詰めて、莉亜の横に座り込み、グロスの塗られた美しいピンク色の唇を射程圏に収めた。けれど、莉亜はぷいっと向こうのほうを向きながら立ち上がった。あれ。
ぼくは追いかけるように後ろから莉亜に抱きついて(よく考えたら、訓練中だから抱きついたのを利用して投げ技食らわされるかもしれない。危ない。)、強引に抱き寄せて、キスしようとする。だが、莉亜は、ぼくの手をつかんで自分の身体から引き離し、身体をかがめてするりとぼくの拘束から逃れた。いつの間にかスマホは脇の座卓の上に置かれている。
今さらながら莉亜の身動きの素早さにぼくがあっけにとられていると、突然、ぼくの唇にやわらかいものが触れた。
「はい、私、1点。一気に何回もするのはなしってことね。」
あ、向こうからも狙われるゲーム、もとい訓練だったよね。というか、どっちからキスしたかなんて、正確に区別できるの?
莉亜は部屋の真ん中の座卓を壁に寄せてスペースを確保すると、楽しそうに、部屋の中を右に左に移動して、ぼくをねらっている。決して動きやすそうではない短めのスカート姿だが、そんなことはもろともしない。
このまま逃げ続けていたら、ぼくはポイントを稼げない。近づくタイミングを見計らう。
ところが、ぼくの足が止まったとみるや、莉亜のほうから、まるでレスリングの選手のように正面からぼくとの間合いを詰めてきた。チャンスと思って、ぼくが顔を近づけると、読んでいましたとばかりに横によけられる。莉亜はそのまま、柔道の技のようにぼくの足に自分の足をひっかけ、バランスを崩したぼくの身体を、うまい具合にソファーに倒して、そのまま覆いかぶさるように上から濃厚な口づけ。・・・長い。いや、うれしいけど、目的違ってない?
「2点。全然だめ。ハンデつけましょ。」
莉亜がぼくの耳に口を近づける。
「エロいらいくんへの特別大サービスで、らいくんは私のおっぱいを触っても1点ってことにしましょ。あ、もちろん、キスしながら触ったらキスの点だけよ。」
訓練でそんなことさせてもらえるなんて、むふふ、と喜んだのは最初だけ。莉亜はぼくとの間合いをしっかり保つし、距離を詰めるときは、胸を触られないように、素早くぼくの手をつかむなりして動きを封じてくる。特別大サービスの得点は入らず、普通の得点も入らず、時間が過ぎる。もちろん、キス自体は何度もしている。だって、向こうから何回もしてくれるんだもん。むしろ、ぼくの手をつかまれて動きを封じられることが増えた分、次から次に莉亜がポイントを稼いでいく。軽く触れるキス、濃厚なキス、長いキス、短いキス。キスにもいろいろなバリエーションがあるのね。
7対0くらいになった。きつい。
「ちょっと休憩。」
麦茶を2人分準備して、座卓の位置を戻し、水分補給する。もちろん、これも作戦だ。莉亜が麦茶を飲もうとグラスを持ち上げた瞬間、こっそり近づいて背後から手を伸ばして彼女の上半身に触れようとするが・・・。ぴしゃりとグラスを持った手でガードされた。反対の手ももう握られている。
やっぱりおっぱいには触れなかった・・・、いや、そうじゃなくて、やっぱり得点が入らなかったかと思って一瞬身体の動きが止まったところで、莉亜の顔がくるりとこちらを向いて、ぼくの唇が、また、奪われる。今度は短い刹那的なキスだった。
「今のは私のポイントでしょ。8点目? もっと相手の動きを読み取らないとだめよ。さて、今夜はお預け? それとも別のお仕置きしてほしい?」
もし第三者が見たら、訓練というより、ただ、恋人が2人の世界に入ってるだけだわ、これ。
莉亜が訓練の終了宣言を出したあと、ようやく、ぼくのほうからキスをし、身体に触れることができた。そして、そのまま・・・。ぼくが負けたらお預けじゃなかったのか。
☆
あんなにキスをいっぱいしたのにお預けにしたら、私だってつらいじゃない! 結局、雷空にされるがままになってしまった。次からルールをよく考えないと。
それからも、雷空が喜ぶような方法で訓練をしてあげる。動きを鍛えるために、スカートめくりをさせるとか。もちろん、彼の動きでは私のスカートに手が届かないし、届いても,私がスカートを押さえるから、彼の欲望は叶わない。もちろん、どうせスカートと下着の間にはもう1枚履いているけれど、どんくさい彼はそれすら見ることができない。それから、脱出訓練。私が、後ろからホールドしたり(抱きついているんじゃなくて、拘束。)、横四方固めで押さえ込んだり(ベッドの上じゃない。)して、脱出させる。かよわい女の子の私から、彼はなかなか逃れられない。まさか、そのままくっついておっぱいの感触を味わい続けようとしているんじゃないでしょうね? どうせあとでもっと味わうくせに。
訓練を終えてから、いつものソファーベッドの上で、一晩を過ごす。
2人の仲が深まり、いつしか私は雷空の家の合鍵を持ち歩くようになっていた。もちろん、パンツを盗むためじゃない。恋人の象徴。雷空がバイトとかで遅くなっても、私が先に待ってあげられるってこと。
そんな日常の中、それは急に起こった。愛する彼氏、つまり雷空から、不穏なメッセージが送られてきたのだ。
「あの愛人が、バイト先にあらわれた。」
ファミレスの客としてたまたま来たっていうのはできすぎよね。客のふりして、探っているってこと? ま、まさか、ファミレスで騒ぎを起こそうとしてる?
そうではなかった。続けてきたメッセージには、こうあった。
「新しいバイトとして今週から働き始めたらしい。桂木さんというらしい。」
★
出勤してその顔を見たときは面食らった。簡単に自己紹介をしてから、慌ててトイレで莉亜に連絡した。もっとも、バイト中にスマホを何度も見る余裕はない。
桂木さんは、まだ入店3日目だそうで、新人らしく戸惑いながら、仕事をしていた。ときどきぼくにも質問をしてくる。ぼくは、あくまで先輩バイトとして、質問に答えた。
何がどうなってるんだ?
入り口の扉が開いて、丸いめがねをかけた若い女性客が入ってきた。ボーイッシュな黒いキャップをかぶって、髪の毛を1つに束ね、スポーティーな白い長袖シャツを着て、紺色のウインドブレーカーのロングパンツ、それから黒いスニーカーをはいている。スポーツジムの行き帰りのような印象だ。
「いらっしゃいませ。空いているお席へどうぞ。」
入り口近くにいた桂木さんが決まり文句を読み上げるように言った。女性客は、入り口にいちばん近い席に座った。ぼくがようすをうかがっていると、女性客は注文のタブレットに何か入力してから、スマホを取り出していじっている。キッチンで確認すると、リゾットとわかめサラダとドリンクバーがその客の注文内容だった。
なんでそんなにその客のことが気になるのかって? だって、大好きな彼女だからに決まってるじゃん!
下手な変装をして偵察に来たらしい。変装というか、いつもと違うかっこうをしているだけともいえる。ぼくはもちろんのこと、仮に桂木さんに顔がばれているなら、こんなのたまたま運動する機会に寄ったと思われるだけで、変装とも思われない可能性すらあると思うよ?
キッチンで莉亜が注文したサラダができあがると、ぼくはいの一番にそれをトレーにのせて莉亜の席に運んだ。
「わかめサラダでございます。リゾットは、もう少しお待ちください。」
「待ってる。」
莉亜がぼくにしか聞こえないような声で言った。リゾットを、って意味だよね? スポーツバージョンだからか、メイクはかなり薄い。
リゾットができるとぼくは莉亜の席に運んだ。
「リゾットでございます。ご注文は、おそろいでしょうか。」
「あ、ちょっと待ってください。ええと・・・。」
莉亜がクーポンでも探すようにスマホをいじった。画面をぼくに向ける。
『あなたじゃなくて、あの人が来るのを待ってるの!』
そっちか!
ぼくがあえて莉亜のテーブルに近づかないようにしていると、そのうち桂木さんがマニュアルどおりに莉亜が食べ終えた皿とドリンクバーの空きグラスを下げていた。
莉亜は、リゾットを食べ終えても、ドリンクバーの紅茶か何かを飲みながら、イヤホンをつけてスマホをいじって、長時間居座り続けていた。そのうち、桂木さんはシフトの終了時刻になったらしく、お先にあがりますと言っていなくなった。
夜遅くなり、店内の客はまばらになった。ドリンクを飲み過ぎたせいか、莉亜がトイレに向かうのが見えた。
☆
誰かに、つけられている。
私は、つないでいた雷空の手を引っ張って、直進するはずの交差点をむりやり左折する。
「誰かいる。あの女かも。」
「そう?」
まったく、いくら予定外に私がバイト先に来ることになって、それから一緒におててつないで家に帰れることになったからって、しかもその前にわざわざ私がファミレスの化粧室でメイク直しをしてせめて顔だけでもかわいらしい彼女モードになっているからって、油断しすぎじゃない?
「こっち。」
ほとんどもとのファミレスの近くに戻るような感じだけど、遠回りして駅の近くまで行って、人が多いところを通り、追っ手がいないことを確認して雷空の家に向かう。
周囲を探りながら、室内に入り、即座に施錠し、チェーンもかける。
「そういえば。」
雷空が言った。
「先月、父さんから、森田という議員はうさんくさいやつだからかかわるなとか言われた。」
「つけてるの、その関係者かもしれないわね。だいたい、このタイミングで、あの女がらいくんと同じところでバイト始めるなんて、とても偶然とは思えないもの。」
そのまま、なんとなく、ソファーに2人で座って、いちゃついていた。
「らいくん、1個だけ、お願いがあるの。」
「なに?」
「きょうは、着替えを持ってきてないから、着るもの、貸してくれない?」
「いいよ。」
なんだかちょっと不敵な笑みを浮かべながら、雷空が答え、私にキスをしてきた。
そのとき、外で物音がした。怪しげな足音だ。
「誰かいる。」
私は言った。誰かが追ってきたのかもしれない。それなのに雷空は今から3秒前に終わったキスの余韻から抜け出せていない。そんなことだから隙だらけだって言われるのよ!
私は人差し指を口の前にたてて雷空にしゃべらないように伝えて、玄関に近づいた。
もちろん鍵はかかっているし、チェーンもかかっている。
耳をすましていると、足音が玄関扉の向こう側を通り過ぎて、遠くでガチャガチャという鍵の音がした。別の部屋の住民だったみたいだ。
「莉亜ちゃん、そんなに緊張しなくても大丈夫だと思うよ。」
雷空が頭をなでなでしてくれる。少し(少しだけ!)涙が出てきた。私よりずっと弱くてほとんど何もできないくせに、なんでそんなにかっこいいのよ!
「でも何かあったら・・・。」
「そのときは守って。いや、一緒に戦おう。」
「もうっ。男のくず。殺されて地獄に落ちろ。」
ほんとにもう、私が守ってあげないとだめなのね、この男ってば。
「ほら、急所ががら空き!」
私は、泣いちゃった恥ずかしさをごまかすためもあって、むりやり手を雷空の下半身にのばした。
雷空が声にならないような声をあげている。もしかして、このまま下半身に人にはいえない秘密の攻撃をしてほしいの? いいのよ。だって、私、彼女だもん。
「じゃあ、服を貸してあげるね。」
あ、そういえば、私のほうから服を貸してほしいって言ったんだった。彼氏のシャツを借りて着るなんて、歌の歌詞みたいで、憧れるじゃない?
★
大学生になって半年もたつと、なんで女子高生の制服に興奮するようになるんだろうね? 非常に不思議な現象だ。
莉亜はもちろん、ぼくが普段着ている服を借りたかったはずだけど、残念ながら、ぼくのアパートには莉亜の服(厳密には、莉亜からぼくがもらった服)があった。
「これを着ればいいじゃん。」
「そういうことじゃなくて、寝るときに着る服を貸してほしいんだけど。」
「それは、何もいらないってことじゃない? どうせ、脱いじゃって、そのまま寝てるでしょ。」
「もうっ。」
強引に制服を押しつけ、着てもらう。そして、結局は脱がせる。最高の気分だ。
翌朝、遅めに起きて、2限の授業に出るため大学に向かった。何かあったら守らないといけないでしょ、とか言いながら、莉亜が校門までついてくる。莉亜はたぶん自分の学校に遅刻だ。別れ際に、今度から、着替えを置いておいてもいいかな、と聞かれて、ぼくは舞い上がった。