2-2 頭脳派を鍛えよ
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莉亜がわざわざぼくの自宅を訪れる。どうしても会う必要があると言って、バイト後の金曜日の夜間にわざわざ。ハンドバッグを持っているだけではなく、なぜかリュックサックを背負っている。いやな予感がする。
「用事が2つあるの。まずはこれ。」
ハンドバッグの中から封筒を取り出して、ぼくに渡す。
「これは?」
「こないだの仕事の謝礼よ。」
封筒を開けてみると、一万円札が何枚も入っている。
「こんなに?」
「そりゃまあ、時間もかかってるし、ばっちり現場を押さえたわけだから、ボーナスをはずんでくれたの。私と半分ずつにして、それだから。」
ファミレスのバイトのやる気が失せるな、これは。
「わざわざこれを届けに?」
「絶対に、現金を直接渡すことになってるらしいの。振り込みとかだと誰が協力者かばれるかもしれないでしょ。」
詐欺グループみたいだな。
「それに、もう1つ、大事な用事があるの。らいくんは、はっきり言って弱すぎる。だから、お父さんじきじきの命令で、らいくんを鍛えることになった。」
不穏だな。まさか、お父さんのとこに連れて行かれて、軍隊みたいにビシバシ鍛えられるとかじゃないだろうな。
「今から、トレーニングを始めることにする。」
「今?」
夕食時で混雑するバイトを終えた後だから、今、夜10時なんだけど。だいたい、こんな時間に女の子が異性のアパートを遠慮なく訪問するのってどうよ? まあ、同じ部屋に宿泊した間柄ではあるけれども。
「今から、寝るまで。」
「こんな時間に何をしろと?」
「そうね。ひとまずきょうは、ただ、普通に過ごすだけでいい。」
「はあ?」
「ほんとは、空手と柔道とプロレスを合体させた超総合格闘術を教えてあげてもいいんだけど、それは大変でしょ?」
どんな術なのか知らないが絶対に習得できる自信がない。
「攻撃力がないのは仕方ないとはいえ、せめて、敵にやられないようにしないと困るでしょ。だから、敵の発見及び攻撃に対処するための訓練、レベル1。」
そんな訓練を積んで、今後どんな現場に連れて行かれるというのか? せめて謝金は増えるんだろうな。
「らいくんは、ただ普通に生活して。それを私が邪魔するから、邪魔されないように、生活する。ただそれだけ。簡単でしょ。」
本当に簡単な説明を終えてから、莉亜はぼくのほうをじっと見た。何かのタイミングをはかっているのか、じっと見つめている。かわいいけれど、目線が怖い。
「ちょっと、トイレ。」
じっとしていられずに、ぼくは立ち上がった。振り返って、歩き始めたのだが。
「残念。お先に。」
莉亜が目にもとまらぬ動きでぼくより先にトイレに駆け込んだ。ここ、ぼくの家なんだけどね。
そのまま時が過ぎる。
長い。
「・・・まだ?」
女の子にトイレから出るように促すなんて、基本的には絶対にすべきでない行為だとはわかっているけど、いくらなんでも長い。流れからして、間違いなく何か企んでいる。
「鍵しめてないから、勝手に入ってくれば?」
「はあ?」
「私を追い出せばいいじゃない。早くして。さすがにトイレの中は暑くて我慢できなくなりそうなの。」
ふざけとんのかこいつ!
いや、しかし、冷静に考えるなら、物理的にぼくが中に入ったとしても、莉亜をトイレの外に引きずり出すなんて無理だ。そんなことより、暑くて我慢できなくなるのを待っていたほうが早い。
さらに何分かたって、案の定汗をかきながら莉亜が出てきた。文句を言いたかったが、口を開く前に自分がトイレに駆け込んで、用を足す。
成功だ。無事、トイレでの排尿に成功した!
「私が邪魔するって言ってるのに、トイレに行くって宣言してからトイレに行くなんて、もう少し頭使ったらどうなの?」
「自分こそ、トイレにこもってそのままどうするつもりだったの? その間にぼくが寝てしまったらこのトレーニング終わりでしょ?」
「そ、そういえばそうね・・・。」
「それに、さっき寝るまでって言ってたけど、いつ帰る気?」
「わかんない。明日以降、気が向いたら。」
「明日以降って、ここに泊まる気?」
「目を覚ました瞬間から訓練再開するため。人間、寝ている間がいちばん無防備なんだから。心配しないで。寝袋持ってきたし。明日休みでしょ?」
そんな緊張感を保ったままで眠れるだろうか?
「・・・そんなら、シャワー、先に浴びたら? トイレで汗かいたでしょ?」
「いいけど、こないだみたいにのぞいてきたら、訓練レベルを一気に99にあげるからね。」
そんなにたくさんレベル分けしてんのかよ!
もちろん、のぞくためにシャワーを勧めたわけではない。彼女がシャワーを浴びている間に、自分の着替えとタオルを準備し、洗面台が使えないから台所の流しで歯磨きを済ませ、ソファーベッドの背もたれを倒して敷き布団とタオルケットをひいて、就寝の態勢をととのえた。
そして。
莉亜が浴室から出てくるや否や、莉亜の横をすり抜けて、浴室に入った。大成功。さすがに、いくらなんでも、風呂上がりの女子である以上、ぼくの動きを邪魔するほどの余裕はなかったらしい。むしろ、寝ている間より風呂上がりのほうが無防備なのかもしれない。
さすがに入浴中に茶々を入れられることはなかった。ぼくが全裸だしね。身体を洗って、タオルで拭いて、パジャマを着て、冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。もう夜は更けている。このまま就寝すれば、少なくとも今日の訓練は終了ということだ。
さて、部屋に戻ると、莉亜がいない・・・と一瞬思ったが、ぼくの寝場所であるソファーベッド上で、タオルケットの上にうつぶせになってスマホをいじっていた。寝間着代わりなのか、Tシャツとキュロットのような短パンを身につけている。無防備な格好だから、胸の谷間が少し・・・。いや、そんなこと気にしていたら何されるかわからない。
いつの間にか、莉亜のリュックサックとハンドバッグもベッドの下に移動している。ぼくの寝床を不法占拠する気か? 寝袋は?
「寝る時間だよ。」
しかたなく、ぼくは言った。
「だったら寝れば? 普通に生活してって、言ったでしょ。」
「これ、ソファーベッドだから、そこに寝るんだけど。」
「寝たいなら、私のことなんか気にしないで、勝手に寝れば?」
いや、あんたが邪魔で寝られないだろ! って、そういう訓練だもんね。まさか、彼女を動かさない限り、寝られない? 入浴前に布団もセットしていたから、他の場所に布団を敷いて寝ることもできない。
どうすればいい? 力ずくで動かすのは難しい。タオルケットの上に陣取られているから、タオルケットごと引っ張ったら引きずり下ろせるだろうか? それとも、もう下剤でも飲ませるしかないのだろうか?
莉亜はスマホをベッド下に置いていた自分のハンドバッグの中に収納し、わざとらしくぼくのほうを向いてにやにやと笑っている。風呂上がりですっぴんのはずだけど、真っ白い肌はとってもきれいだ。Tシャツがめくれるとまたしてもおへそのあたりがちらりと・・・。いや、だからそんなこと気にしてる場合じゃない!
「自分用の寝袋、持ってきたんでしょ?」
「あなたが寝たら私も寝るから、気にしないで。」
「じゃぼくが寝袋で寝る。」
「そう。寝袋なら、このリュックサックに入ってるから使ってもいいけど、でも、リュックには下着と警報ブザーと女の子の日に使うものが入ってるのよねー。」
「・・・。」
「あのさ、まじめな話、これ、身体機能の訓練なんだから、もっと男らしくかかってきたらどうなの?」
「ぼくは頭脳派なんだ。」
「頭脳派で戦闘力がないから訓練してるのに、頭脳で切り抜けたら訓練の意味ないじゃない。」
夜に人の家でいきなり訓練始めといて、よく偉そうに言えるもんだ。
☆
雷空が明らかに困っている。困らせるためにやってるんじゃなくて、訓練なんだけど。頭いいくせに、訓練の意味わからないの?
このまま眠気をこらえて私が寝落ちするまで耐えるとでも言うの? それもある意味訓練かもしれないけど、今は寝ずに我慢する力を鍛えたいわけじゃない。それに、私なら、たとえ眠っていても、身体をベッドの下に落とされたりしたら一瞬で目を覚まして相手に襲いかかる自信はある。
さすがに意を決したのか、雷空が隙をうかがうように少しずつ近づいてくる。ソファーベッドの横に立って、仰向けになっている私の顔の上に、いきなり足の裏を近づけてきた。
きったない!
私はその足をひっつかんで自分の上体を起こしながら、汚い足を横に払うようにして雷空の身体を横倒しにしようとした。
けれども私の脚に雷空がしがみついてきて、ソファーベッド上に倒れ込む。私の身体の上に折り重なるように、雷空がうつぶせに倒れ込んでいる。いや、いかがわしいことしてるわけじゃないのよ! 私のひざのあたりに雷空の顔があって、私の顔の上には雷空の太ももがあるし、おっぱいのあたりにあいつの下半身の大事な部分があるような気もするけれど、決していやらしいことしてるわけじゃなんだから!
足を顔に近づけられて一瞬動揺したのがだめだった。私もまだまだね。
私は上体を雷空の脚とベッドの間から避難させて、全身に力を込めて、そいつのすねをひっつかんで身体をエビ反りにしてやった。
「あいたた・・・。」
「今日はこれくらいで勘弁してあげる。」
さすがに疲れた。
「明日起きた瞬間から、訓練再開。」
私は彼の上半身をこっちに引っ張って上下反転させ、彼の身体を仰向けに寝かせた。そして、勝手に麦茶をもらって水分補給してから、自分も雷空の横に入り込んで仰向けになる。ソファーベッドって、意外と広いのね。二人でタオルケットをかぶって、このまま寝ても、決して十分な広さとはいえないけれど、別にこれでいいんじゃない? 枕は雷空の頭の下にあるのだけみたいだから、あきらめるしかないけど。
「何でそこにいる?」
「よく考えたら、真夏に寝袋に寝てたら熱中症で死んじゃうかもしれないもん。いやなの?」
「いやというかなんというか・・・。」
「エロいことしたら、殺すわよ。」
耳元でささやきながら、しれっと雷空の手を握った。こう言っておけば、本当に何もしてこないんだから安心できる。ほんとに、意気地のない男。
★
目が覚めると、ぼくと莉亜は仲良しの恋人のように、1つのベッドに寝ていた。タオルケットはいつの間にか床に落ちていたけれど、2人の身体はソファーベッドの上にとどまっっていた。
それだけならまだいい。
自分でも状況をよく飲み込めないが、やけに寝苦しいと思って目が覚めたら、莉亜が、正面からぼくを抱きしめていた。身体をぴったりくっつけ、両腕をぼくの脇の下から背後に回して抱きしめているばかりか、両脚までぼくの脚にからみつけてぼくを包み込んでいる。そりゃあ、いくらエアコンが効いていても暑くてタオルケットをはいでしまうのは当然だ。
朝だし、こんな状況だし、下半身の生理現象が収まらない。
さて、起きて顔でも洗って、と思うが、莉亜がぴったりとぼくに抱きついているから、動けない。子どものころにどこかの動物園で見た、木にしがみついているコアラみたいだ。やわらかな身体の丸みが、しっかりと伝わってくる。むろん、彼女の胸はぼくの胸にぎゅっと押しつけられている。下半身の生理現象はさらに強さを増す。
莉亜の身体を離そうとする。しかし、銅像のように、ぴくりとも動かない。
なんだ、けっこうかわいいじゃないか。ひょっとして、本当は、襲ってほしかった?
ぼくより背の低い莉亜の顔は、ぼくの首のあたりにぴったりとくっついていて、表情は見えない。ただ、なんとなくシャンプーのようないい香りがしている。寝顔がどうなっているのか、なんとなく気になって、体勢をかえようとするが、動けないばかりか、抱きしめる力がますます強くなって、莉亜の両手がぼくの背中の真ん中あたりでぎゅっと結ばれる。これはもう、抱きしめられているというより、身体拘束されているといったほうが正確だ。
こ、こいつ、起きてるな。
訂正。全然仲良しの恋人のようじゃない。起きたというか目が覚めた瞬間から、ぼくが起床するのを邪魔するという意図的行為だ。ただ、そんな目的のために男のベッドで一緒に寝る女っていうのもどうなのよ?
「莉亜ちゃん・・・。」
ぼくは頭脳派だ。甘くささやいて、油断というか動揺を誘おうとした。
「らいくん。大好き。絶対離れないで・・・。」
ええっ。耳を疑うような甘いことばが聞こえて、ぼくの下半身がさらに反応して・・・。
そうだよ。離れるわけないじゃん。ぼくは自分の手を動かして、莉亜の腰のあたりを手探りで探って、やさしくなでなでする。女性らしいくびれが手のひらに伝わってくる。
その瞬間、ぼくの身体は急に自由になった。と思うか思わないかのうちに、もう莉亜がぼくの身体の上に馬乗りになって、両手でぼくの首を上から押さえてきていた。は、速い!
「殺す。」
目が殺気を帯びている。
「あ、いや、その・・・。」
声が出た。よかった。しゃべれるということは、本当に首を絞められているわけではないということだ。そんな当たり前のことがわかるまでに何秒かかかるくらい、驚いた。
「言っとくけど、起きた瞬間から訓練始まってるんだからね。エロいこと考えて油断してんじゃないのよ。」
ぼくはことばを出せず、ただうなずいた。訓練が始まっていることはわかっている。起床自体を妨げられるとは予想外だったけど。莉亜の油断を誘おうと甘いことばをささやいて、もっと甘いことばを返されて術中にはめられてしまうなんて、一生の不覚!
訓練はその後も継続した。ぼくが移動しようとすれば手を捕まれたり(つながれたり、じゃなくてね。)、前に立って進路を塞がれたり、ベッドの役割を終えたソファーに座ろうとしたらいきなりソファーを動かされたり(小学生のいたずらかよ!)。
朝ご飯はいるのかと尋ねたら、莉亜は自分で準備するからいらないと言ってきた。だからぼくが自分の分の食パンを焼いて、皿にのせて食べようとすると、あ、横取りされた! 自分で準備って、自分で盗むってことかよ! 文字どおり油断も隙もあったもんじゃない。
「ほしい? じゃ、残りは食べていいわよ。」
あんたのじゃねえんだよ! しかも、もう2口分くらいしか残ってない。そもそも食べかけ!
「らいくん、緊張感なさすぎ。もっと私の動きをよく見て、感じて、よけないと話にならない。」
「もうすぐバイト行く時間なんだけど。」
「行けるもんなら行ってみなさい。」
さすがに着替えは邪魔されなかった。というか、交代で着替えるしね。ぼくはクローゼットからバッグを取り出して、それを持って、出発の態勢をととのえた。
横目で莉亜の動きを観察。すり足でこちらに向かってくる莉亜に向かって、バッグを投げつける。
女の子に乱暴なことしちゃいけないけど、これはバイトをクビにならないための正当防衛なのだ。法学部でよかった。
本当の荷物は、別のバッグに入れてあらかじめ玄関のほうにこっそり置いていた。今のバッグは目くらまし。2つあってよかった!
やっぱり、ぼくは頭脳派だ。
ぼくは靴を手で拾って、靴下だけをはいた状態でとにかく玄関の外に出た。
「きょ、きょうのところはこれくらいにしておいてあげる・・・。」
中から扉を少し開けた莉亜が、悔しそうに言った。だったら自分の家に帰れ。