2-1 政治家の不倫を調査せよ
2 半人前でも協力すれば
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ついに。
私にも具体的かつ本格的な案件が舞い込んできた。
森田健輔という政治家の、不正を調査せよと。
森田は、怪しげな密会をしている。その相手は、妻とはまったく別の、若い女である。ただの不倫とは限らず、その女を通じて何かの不正をしているもかもしれない。あるいは、賄賂として女を送られているのかもしれない。森田は、3週間後に、ある温泉地の宿に泊まる予定である。愛人と一緒に宿泊するに違いない。それについて調査せよ。雷空と協力してよし。これが課題、いや任務だ。
そして、森田が泊まろうとしている宿は、普通の旅館とかホテルではない。温泉旅館ではあるが、一つの大きな建物に多数の客室があるような一般的な構造ではなくて、高台の広い敷地内に離れがいくつかあって、それぞれの離れを貸し切る方式である。そんなところに泊まるのは、常識的には、子連れの家族か、夫婦か、恋人か、さもなければ愛人であるとか、そういう関係であって、ビジネスホテルのように一人きりでそんなところに泊まる人はいない。
私が潜入捜査のためにそこに泊まるなら、男と一緒なのが自然ってことね。エロ親父ってやつは、どうしてこういうことばっかり考えるの?
私は、雷空に洗いざらい話をした。宿泊費はむっちゃ高いところだけど、お金はこっちで(というか経費として)出すから、負担はない。ただし、あくまで、政治家の不正の調査であると。
その男は、生意気にも、その日はバイトのシフトが入っているから、行けないかもしれない、と言ってきた。私と一緒に高級旅館に無料で泊まれるっていうのに、断ったら承知しないんだから!
★
バイトのシフトがあるから、細切れに帰省することにしていたのに、シフトが入っている時期に思わぬ予定が飛び込んできた。しかたがないから、他の従業員に交代を頼んで、何とか、その日に行くことにした。
だって、政治家の不正を暴くんだよ? そんなことに立ち会えるというか、当事者になるなんて、よっぽどのことだ。別に、莉亜と一緒の部屋に宿泊できるとか、そういうことはまったく関係ない。本当だ。
待ち合わせ場所に現れた莉亜は、いつか見たようなストライプ柄のブラウスに、カーキ色のゆったりしたデザインのパンツを着用して、日差し対策なのかつばの大きな帽子をかぶっていた。メイクはしっかりしている。今すぐ、抱きしめて別の宿泊施設に連れて行きたい、とぼくの股間が言っている気もするけれど、脳みそで我慢する。
目的地方面に向かう列車に乗る。冷房のきいた社内。指定席があらかじめ確保されていたので、それに従って隣り合って座る。手を2人の間の肘掛けの上にもっていく。反応はない。
思い切って、手を肘掛けの向こう、白い服の袖からのびている白い腕のほうにのばしてみる。反応はない。いや、莉亜の顔がこっちを向いた。
目がこわい。慌てて、手をひっこめる。
「エロいことしたら、殺すからね。」
誰にも聞こえないくらいの声で、莉亜は言った。ぼくは顔を反対方向に向けた。
そのまま何事もなく、文字どおり何事もなく、目的地の駅に着いた。駅前でハンバーガーを食べてから、バスで移動して、バス停から少し歩いて、旅館に着いた。敷地が広く、門からフロントのある建物までもけっこうな距離がある。ぎらぎらした日差しの下、少し歩くだけで大量の汗が出てくるので、持参したタオルで拭く。莉亜はレースの飾りのついた真っ黒の日傘を差している。
「お客さまのお部屋は4番の建物となっております。お食事は、お部屋にお届けします。お時間は・・・。」
フロントで、係の人がひととおりの説明をしている。
「大浴場は、この建物の2階にございますが、お部屋にも露天風呂がございますので、どうぞご自由におくつろぎください。」
愛人と一緒に露天風呂付き個室に宿泊なんて、いいご身分だな。本当にうらやましい。いや、許せん。
「それでは、ご案内いたします。」
山並みに囲まれただだっぴろい公園のような敷地で、そのところどころに木が生えている。そして、バンガローのような離れの建物がまとまって6軒並んで建っている。旅館というよりもキャンプ場みたいだ。真っ青な空には、真夏のもくもくとした白い雲が浮かんでいる。
荷物は旅館の人が運んでくれ、離れのうちの4号室に入る。係の人がエアコンをつけて簡単に室内を案内した後、ぼくに鍵を渡して、それではごゆっくりと退散した。たったこれだけのわずかな行動でも汗が噴き出してくる。
けっこう早めのチェックインだし、仲睦まじいカップルがこれから2人きりの愛の時間をたっぷり過ごそうとしていると思われたに違いない。
莉亜が、周囲の建物の状況を確認しているのはなんとなくわかった。ホームページで予習はしてきたけれど、ぼくも実物を見て配置を頭にたたき込む。
森田は、いつ来るのだろうか?
「見張るの、たいへんね。」
「こんな目立つ時間には来ないと思うけど。」
「そりゃそうよね。いや、早いほうがかえって目立たないかもしれないじゃない?」
建物内は、旅館ということばからイメージされるのとはまったく違う洋風なつくりで、寝室とリビングのような部屋に分かれている。荷物を寝室に運び入れると、ベッドが2台並んでいた。たぶんセミダブルサイズだ。隣り合ってはいるが、間は1メートルくらい離れている。いや、仮にベッドがくっついていたとしても、あるいは、いっそラブホテルみたいにダブルベッド1台だけだったとしても、何かしたら殺されそうだけどね。それ以前に、そもそも同じ部屋で寝ていいのかどうかもわからない。
寝室の向こう側には、ガラスばりの掃き出し窓で隔てられた木製のテラスがあって、そのテラスの隅のほうに、やはり木製の丸い形をした浴槽が存在している。
これも事前にネットで見てはいたけれど、なるほど、こういう構造の貸し切り風呂付き個室なのね。もちろん浴槽のあるテラスの向こう側には木の板でできた壁がそそり立っていて、空を飛べない限り、外からは見ることができない。ライト兄弟は、こういうお風呂を見て、飛行機の発明の意欲をもったに違いない(そんなわけないってば。)。一方、部屋の中からはテラスの中のお風呂が丸見え。ただし、窓の内側にはローリング式の不透明なブラインドがあって、それを下ろせば目隠しになる。
「作戦会議、するわよ。」
莉亜が言った。
リビングで、重厚な木製のダイニングテーブルに向かい合って座る。
「まず、あいつが来たことにどうやって気づくか。駐車場でも見張る? それともフロントの人と仲良くなって、ロビーに居座るとか?」
こういう宿泊施設に来て、ロビーでホテルの人と長々とおしゃべりする客なんている? しかも、ぼくたちって、いちおう、カップル設定でしょ?
「迷惑だし、怪しまれると思う。」
「でも、あいつが、どの部屋に泊まるかわかんないし。」
「たぶん、1号室だと思うけど。」
「なんでわかるの?」
「だって、ネットで調べても、ロビーの案内図を見ても、そこだけ特に広くて大きい部屋だったから。さっき来たときも、1号室だけ構造が違ったでしょ。」
「なるほど。賢い!」
ちゃんと予習してきたのはぼくだけのようだ。ぼくはちゃんと、この旅館のことも、そして、ターゲットのことも、事前に調べている。あ、いや、旅館のことを調べたのは、あくまで、任務を全うするためであって、決して、ぼくの個人的な興味によるものではない。ターゲットである森田健輔のことのほうこそちゃんと調べている。森田は、ぼくの出身地の隣の県の有力な県議会議員で、既婚者。子どもがいるかどうかまではネットではわからなかった。62歳で、地元の建設業界出身。
「でも、この部屋からあの建物は見えないんじゃない? 外で見張る?」
「うーん、電気がついてるかどうかで、お客が来てるかどうかはわかると思うけど、誰が来たかは出入りする瞬間とらえないと難しいよね。」
「なんか道具使えないかな。」
莉亜が寝室に置いていたスーツケースを持ってきて、開封した。たった1泊なのに、こんなに荷物が多いなんて、女の子は大変だなと、ぼくはひそかに思っていた。だが、そういうことではなくて、調査に必要な道具があるせいで大荷物になっていたらしい。
「どれが使える?」
自分で持ってきておいてぼくに丸投げかよ!
ビデオカメラ。これをどこかにおいて、フロントなり1号室の建物なりをひたすら撮影すれば。しかし、カメラの存在がばれたらアウトだ。本人にばれなくても従業員やほかの客に見つかるかもしれない。
自撮り棒。これでテラスのまわりの塀の上から撮影すれば、ひょっとしたら愛人とのいちゃいちゃ混浴タイムを撮影するのに成功するかもしれない。しかし、要は盗撮だ。ばれたらえらいことに。
カツラにサングラス。いや、ぼくらの顔は知られていないはずだから、必要ないでしょ。なんでそんなもん持ってきた? 真夏だからサングラスは本来の用途には使えるけれども。
だいたい、今さら言っても遅いけど、作戦会議をここに来てからするのってどうよ?
☆
こいつ、意外と頼りになるじゃん。そうよね。難しい大学に行ってる人だものね。けれどもそんな彼の頭脳をもってしても、現場を押さえる具体策は思いつかないらしい。
「まあ、やっぱり見張るしかないね。そもそも、絶対に1号室と決まったわけでもないし。」
しばらく考えてから、雷空が言った。
「どうやって?」
「基本2人で。もちろん、休憩とかはするにしても。」
「なんで2人なのよ?」
またいらんことを考えてるのね、この男は。
「だって、1人でずっと外にいたら怪しまれるじゃん。2人なら、そんなに怪しくないんじゃない?」
大自然の中の宿泊施設。標高が高いとはいえ、真夏の炎天下。そんな状況下で1人っきりで長く過ごす人なんていない。でも、若い男女が長々と2人の時間に入り込んでいるだけなら、誰も邪魔しようとはしないってことね。海水浴じゃあるまいし、夏場に彼女を炎天下で長時間過ごさせる男なんて絶対にもてないと思うけど、まあ、他人の邪魔が入らないという意味では妙案かもしれない。
「わかった。そうしましょう。この部屋の中でずっと2人きりだと、何されるかわかんないけど、外だったら変なことされる心配もないし!」
自分に言い聞かせるように、しっかりと声に出して言った。
日焼け止めをしっかり塗って、貴重品と飲み物と汗拭き用のタオルと日傘を持って、フロントのある建物から離れにかけての付近を一望できる場所に陣取った。もちろん木陰だけれど、日傘も差す。とにかく暑い。シート代わりにコンビニの袋をお尻の下に入れて、座る。地面も熱い。
ちょっと。近すぎない?
建物までの距離じゃない。私と、この男の距離が、やたら近い。日傘の中に入りたいのなら、自分で持ってこい!
少し身体をずらす。
そしたら、近づいてくる。
「ちょっと。」
「カップルがいちゃいちゃしてる設定なんだから。そういう距離感を工夫しないと。」
ドラマの撮影じゃあるまいし、そんな細かいことまで誰も気にしてないでしょ!
そして、ひたすら、待つ。いつ来るのかわからない人を、待つ。
暑い。それに退屈。少しは雑談に付き合ってあげる。
「大学って、どんなとこ? 私、行ったことないし。」
「まあ、自分が受ける授業に出て、あとは気ままに過ごす感じかな。」
「どういう勉強してる?」
「いろいろ。」
「法学部でしょ? 難しい法律の勉強?」
「それもそうだけど、今は一般教養が中心。」
「ふーん。法律って、どんなこと勉強するの?」
「うーん、説明が難しいんだけど、法律にもいろいろあってね、憲法とか民法とか・・・。」
よくわからない法律の話のほかに、今まであまり聞いたことのなかった、彼の学生生活のこと、実家に両親と妹がいること、高2の妹は剣道部に入っていること、雷空自身は高校時代は部活はしていなかったことなどを、聞いた。
「私も、専門学校でメイクとファッションの勉強してるのよ。卒業するときには国家試験を受けて美容師の資格をとれるの。それで・・・。」
自分のことも話をした。私は一人っ子。高校時代は美術部に所属だけしたことがある。今は、親の影響で、この世界に身を投じようとしている。けれども、ちゃんと表の顔もある。
「来た。」
私の話を遮るように、彼が簡潔に言った。同時に、遠くから雷の音が聞こえてきた。
★
遠くに見えた人影は、ネットで見た森田健輔に違いなかった。この暑いのに、場違いにスーツを着ている。ネクタイは締めていない。1人でフロントのある建物に入っていく。
莉亜のほうを見ると、もう日傘をほっぽり出してスマホで動画撮影を開始していた。ぼくも慌てて自分のスマホを取り出す。遠くからは、カップルが2人の思い出動画を撮影しているだけに見える、と思う。
少し間を置いて、その建物から、従業員に連れられた森田が出てきた。ジャケットを脱いで手に持っている。従業員に誘導されて、森田は1号室の建物に入っていく。従業員が鍵を開けて森田を中に引き入れたところを見ると、やはり今まで中には誰もいなかったに違いない。
「1人で来たのかしらね。」
「あとでもう1人来るんじゃないの。というか、2人で来たら怪しまれるし。」
ぼくたちはわざわざ怪しまれないように2人で一緒にいるというのに、この人は怪しまれないように2人別々にやってくるって、何なんだろうね。学生と政治家の違いってそんなにも大きいものなのか。
それから莉亜の専門学校生活の話を聞きながら待つ。話題がなくなったので好きな食べ物の話をする。とにかく暑い。手元には空になったベットボトルがたまっている。足りなくなったらフロントの建物前にある自動販売機で買ってくる。ときおり、莉亜が自分の分がなくなったからと、ぼくの飲みかけの麦茶を飲むことがある。間接キスだ。そんなことで興奮したりはしないけどさ。
次第に、空の上の白い入道雲がどす黒い雲にかわってきた。天気が急変して、この時期らしい、ザーっという雨が降り出す。木陰とはいえ、雨が水滴となってポタポタとしたたってくる。
と思ったら、さっきまでぼくとの微妙な距離を維持していた莉亜が、少し距離を詰めてきて、日傘として使っていた真っ黒い傘の中にぼくをおさめた。機能的には晴雨兼用なんだろうけど、女性ものの日傘だから、2人で入るととびきり狭い。腕と腕が触れる。
「もう、これじゃあいつ来るかわかんないし、暑いし、濡れちゃうし、座れないし、夜になっちゃう。」
莉亜が少し焦るように言った。
「でも、一泊二食付きの宿だから、食事の前には来るだろうし、そろそろじゃないかな?」
夕立はあっという間にあがり、再び莉亜がぼくとの距離をとって、傘の役割を自分専用の日傘に戻す。夏の長い日が少しだけ西に傾いたころになって、ようやく真っ赤なワンピースを着用して日傘を差した女性がやってきた。ぼくたちはその状況をそれぞれのスマホで録画する。女性は、フロントの方に行かず、じかに離れのあるほうに向かい、1号室の扉をノックする。
中からワイシャツ姿の森田が出てきて、女を招き入れる。
「あとはお楽しみってことね。戻りましょう。これ以上見てても、たぶん出てこないでしょ。」
4号室に戻る。互いの撮影した写真と動画を確認し、間違いなく撮影できていることを確認。
食事の時間までは少しある。
「汗かいたし、お風呂入ろうかな。」
ぼくは言った。汗をかいたどころか、汗まみれといってもいい。
「1人で勝手に入ってれば?」
莉亜が顔を赤くして言った。いや、テラスの貸し切り風呂に入るなんて言ってないからね!
☆
幸い、大浴場は男女別だった(当たり前だ。)。そこで軽く入浴を済ませる。大浴場と言っても、少人数相手の宿泊施設だから、さほど大きくないし、誰も入っていなかった。あの愛人の女が来る気配もない。
ドライヤーで髪の毛を乾かし、スキンケアをして、軽くリップを塗ったりして、4号室に戻った。ほぼすっぴんで、しかも浴衣代わりの作務衣姿であの男の前に出て行く義理はないのだけれど、風呂上がりにしっかりメイクするわけにもいかないし。
ちなみに、女性限定のかわいい浴衣のレンタルもあったのだけど、有料だったし、そんなのでおめかししても見せる相手があの男しかいないから、借りてない。
雷空はすでに部屋に戻っていて、ちょうど旅館の人が食事を運んでくるところだった。旅館の従業員は、テーブルの上に手際よく料理を並べ、追加のご注文とお済みの際は内線でご連絡くださいと言い残して、去って行った。
向かい合って食事をする。この2人での食事には慣れた。
和洋折衷の料理で、さすがに、高い旅館だけに、とってもおいしい。
食事が終わってフロントに連絡すると、係の人はすぐにやってきた。食器をトレーに戻し、では、ごゆっくりおくつろぎくださいと、笑みを浮かべて退散する。この人の目には、きっと、これから2人のラブラブタイムが明日の朝まで続くように映っているのでしょうね。でも、私たちは赤の他人なの。
「あっちのようす、見に行こうか。」
雷空がやにわに言った。
「あっちって?」
「1号室に決まってるでしょ。」
私の返事も聞かず、状況を確認に向かう。私もついて行く。というか、本当は私の仕事だし。
1号室の建物は明かりがついていた。もちろん中で何をしているのかは全然わからない。
何を思ったのか、雷空が裏側のほうに回る。私は足音をたてずについて行く。というか、こいつ、気配を消すの下手すぎ。ペンギンじゃあるまいし、そんなばたばた歩いたら、ばれちゃうじゃない。もっと静かに歩きなさい!
「ボイスレコーダー、とってきて。」
雷空が言った。本人はこっそり言ったつもりなんだろうけれど、もっとこっそり言わないと、ばれたらどうするのよ!
私はいったん自分たちが泊まっている4号室に戻って、探偵グッズの中からボイスレコーダーをとりだした。1号室の脇で雷空に渡すと、彼はスイッチを入れて、木の塀のすぐ外に置いた。
そのまま二人で4号室に戻る。
「どういうつもり?」
「あそこにおいとけば、会話が録音できるかもしれないでしょ。それに、こんな時間にあんなところを見回る人もいないだろうから、今夜のうちに回収すればばれないでしょ。」
「ロッジの中の会話が、外で拾えるとでも?」
「そうじゃなくて、あそこは、露天風呂があるとこだよ。」
「おっさんのお風呂の鼻歌でも録音する気? ・・・あ、そっか。」
せっかくここに愛人とお泊まりするんだから、一緒にテラスの露天風呂で星空を眺めながら高いワインでも飲むのかもしれないってことね。まったく、男の人ってそういうのが好きなんだから。というか、男の人が女の人と一緒にお風呂に入りたがるのはわかるけど、それに応じる女の人って、どういう気分なの? 相手が望むからしかたなく付き合ってあげるってことよね。そうに違いない。
★
結果的には、ボイスレコーダーからほとんど雑音しか聞こえてこなかった。入浴したのかどうかもよくわからないし、会話も聞こえないから、何が起こったのか、あるいは何も起こっていないのか、まったくわからん。せっかくのチャンスだったのに、卑わいな声を聞けないなんて残念だ。いや、そうじゃなくて、証拠として卑わいな声をつかめなくて残念だ。
歯を磨いて寝支度をする。寝室に入り、それぞれのベッドの中に潜り込んで、電気を消す。莉亜は、2人とも同じ部屋で寝ることについて、いいとも嫌ともあっちの部屋で寝ろとも、まったくコメントしなかった。ぼくもあえて触れなかった。
「襲ってきても、いいのよ。」
目を閉じようとした段階で、いきなり横から莉亜の声がした。
「えっ。」
「襲いたいんでしょ? 我慢しなくていいのよ。ただし、言っとくけど、その後どうなるかは知らないからね。私が飛び起きて変態の首を絞めるか、外に放り出すことになると思う。1号室の窓から投げ込むのもいいかも。」
そ、そうか。女の子は普通、特別な関係にない限り男性と一緒の部屋に寝るのは嫌なはずだ。それにはいろいろな理由があるだろうが、突き詰めていえば、襲われる可能性があるからだ。そして、莉亜が、ぼくと同じ部屋で寝るのを嫌がっていないのは、そもそもぼくが莉亜を襲っても成功する余地がないくらい、身体能力に雲泥の差があるからなのか。
絶対に、襲うもんか。いや、別に、今の会話がなくても襲わないけど。
余計な挑発をされたせいで、無駄な緊張が押し寄せてきて、眠れない。
襲わないけれど、そもそも同い年というか同学年の女の子と同じ部屋で寝ている。やっぱり緊張する。
眠れない。疲れているはずなのに。
「まだ、起きてる?」
また莉亜の声がした。動く気配。
「私も、なんか、どきどきして、眠れないのよね。こんな仕事をいきなり任されるなんて思ってなかったし。きっと、1人じゃできないことでも、2人で協力すれば大丈夫だって、お父さんも思ってくれたんじゃないかと思うの。でも、うまくいかなかったらどうしようっていう不安も、もちろんあるの。」
なぜかぼくのベッドの布団がめくり上がって、背後に莉亜が入り込んでくる。まさか、首を絞めにきた?
背中から、やわらかな女の子の身体の感触が伝わってくる。
やばい。どこをねらってる? 首? 心臓? まさか、下半身の急所か?
しかし、莉亜は、物騒な行動には出なかった。そのかわり、仰向けになって、ぼくの片手を握った。セミダブルサイズのベッドは、広々とまではいかないにせよ、さして身体の大きくない2人が並んで寝るには十分な幅がある。
「へんなとこ触ったら、殺すからね。」
莉亜は、物騒なことばを残すことは忘れなかった。
「でも、このくらいなら許してあげる。安心して、寝て。」
ぎゅっと手を握られる。いや、これじゃあいつ関節技をかけられるかわからないから安心できねえ!
☆
私が目を覚ますと、雷空は隣のベッドで寝ていた。最初に私が寝ていたほうのベッドで。どうやら、いつの間にか移動したらしい。結果的に、ベッドを交換するという、珍しい状況になっている。
寝ている雷空を無視して、運動用の服を着て外に出て、身体を軽く動かした。身体を鍛えるために、普段からトレーニングは積んでいる。ここは高原だから、朝はけっこう涼しくて、気持ちいい。ジョギングしながらもちろん1号室のようすをうかがったが、特にかわったようすはなく、早朝だけにひっそりとしていた。
それにしても、男の人の手を握って一緒に寝るのって、けっこう安心感あるのね。意外な発見だった。まるで、赤ちゃんがお母さんに抱っこされているような・・・。それなのに、勝手に隣のベッドに移動するなんで、ひどい男。
部屋に戻ると、雷空はまだ寝ていた。お寝坊なのね。寝顔を勝手に写真撮影する。何かあったら脅しの材料に使おう。
温泉旅館といえば、朝風呂に入るのもいいかも。
ん?
私はまた外に出て1号室の近くに行った。手にはボイスレコーダー。気配を消して、昨日と同じようにボイスレコーダーを置く。
それから、4号室に戻る。せっかくなんだから、私も露天風呂を満喫しなければ。運動の後だし、ちょうどいい。木でできたテラスにある露天風呂は、浴槽も蛇口も木でできていて、四角い木の蛇口から温泉のお湯が出てくる仕組みになっている。浴槽にお湯を入れて、着替えとタオルを準備し、目隠しでもあるロール式のグレーのブラインドが確実に閉まっていることを確認してから、服を脱いで湯船につかる。
気持ちいい。さすがに構造上景色は見えないけれど。見上げると夏の真っ青な空が広がっていて解放感がある。
入ってみて気づいたけれど、明らかにこの浴槽は1人で入ればいっぱいの大きさだ。特に男性なら1人でも窮屈なくらいだろう。1号室は特別室みたいだから、ひょっとしたら違うかもしれないけれど、小さな子どもでもない限り、さすがに2人で一緒には入りにくい。ラブラブの若いカップルなら、無理してでも一緒に入り込んで密着するとかもあるのかもしれないけど、さすがにあのおっさんが愛人と一緒に入るのは無理があると思う。
ふいに、後ろでガラガラという物音がした。振り返ると、テラスと室内を隔てるガラスの向こう側のブラインドが、少しずつ上がっていき、その下から、雷空の脚が見えてくる。
「ストップストップ!」
「ん?」
声は聞こえたらしい。だが、私が理由を何も言わなかったからなのか、あるいは雷空が寝ぼけていたからなのか、雷空がかがんでブラインドの下から外のようすを確認してきた。
「変態!」
私は反対側に身体を向けながら叫んだ。木製の浴槽に身体を沈めていたから、顔以外は見えなかったと思うけれど、こののぞき魔!
「ひいっ!」
後方で雷空のおびえたような声がして、急いでブラインドを再度下げるような音がした。
★
朝起きたらカーテンとかブラインドを開放するのが普通でしょ? ぼくはそうしただけだ。別にやましい心はない。だいたい、まさかぼくが寝ているからって、テラスでご入浴中だとは思わなかったし。
入浴を終えて服を着た莉亜にお仕置きの一本背負いか関節技を食らったらどうしようと思っていたが、莉亜は入浴中のできごとには一切触れず、テラスから洗面所に直行してドライヤーで髪の毛を乾かし、化粧をしてから出てきた。丈の短い黒っぽいトップスに、デニムの短いスカートをはいていて、そこから美しい脚がすらりとのびている。朝食が済むと、莉亜は、なぜか顔を真っ赤にして、手の動きでぼくを外に連れ出し、1号室のほうに連れて行くと、昨日と同じ場所からボイスレコーダーを回収した。あ、おへそのあたりがちらりと。もちろん見えただけで、のぞいたわけじゃない。
「あなたが寝てる間に、朝から仕事したんだから。」
なるほど。自分が入浴しようと思って、そういえばターゲットも朝風呂かもと思ったってわけね。
自分たちの部屋に戻って録音を再生するも、やはり雑音しか聞こえない。が、しばらくして、明らかに入浴に伴うような、バシャンという水の音。ビンゴか?
ときどき水音がして、女性の声が聞こえた。はっきりとは聞き取れないが、「だめ~。」「見ないで~。」と言ったように聞こえた。
「あのおっさん、愛人の入浴シーンをのぞいてたみたいね。誰かさんみたい。」
視線が痛い。いや、ぼくはのぞきをしたわけじゃないってば!
その後も水音はしたが、それ以上の収穫はなかった。
☆
「すばらしい収穫だ。」
珍しく父が満足げに言った。私と雷空が2人がかりで撮影した写真に動画、それからボイスレコーダーの録音。動かぬ証拠だ。まだまだ半人前の私だけれど、0.1人前くらいの雷空と協力して、すばらしい成果をあげることができたということだ。
「こいつは社会的に抹殺されるだろう。あとは任せろ。」
所詮、私は下っ端。どういう事情であの政治家が調査されていて、これからどうなるのかといった全体像は教えてもらえなかった。
「ところで、莉亜。」
「次の課題?」
「そうではない。お前は、さっきの写真の女のような役割はできるのか?」
「は?」
「ありていに言うなら、男をたぶらかして夜の相手をするようなことはできるか、ということだ。もう成人だからな。」
「無理!」
即答した。そもそも、そういう行為の経験自体がないし、仮にあったとしても、好きでもないおっさんとそういう関係になる役割なんて、死んでもいやだ。
しかも、父親が娘に聞くことじゃないでしょ!
それに、さっきの写真の女のような役割って、何? まさかとは思うけど、うちが送り込んだスパイと不倫させて、それを私に撮影させたんじゃないよね?
「あの雷空とかいう男はどうなんだ?」
「そういう関係じゃくて、お芝居で一緒に泊まっただけだって言ってるでしょ!」
「仲間としてどうなんだ?」
「・・・紛らわしい聞き方しないで。私より頭はいい。大学行ってるしね。でも、基本がなってない。運動神経鈍いし、戦闘力はゼロ。」
「だったらお前が鍛えてやれ。そんなやつが現場に乗り込むなんて危険すぎる。」