静かな崩壊
2026年4月某日 「静かな崩壊」と画面の向こうの沈黙
ふと、最近YouTubeであれほど騒がれていた「人口動態」の動画を見かけなくなったことに気づく。
一年前までは、グラフの急上昇を指して「異常事態だ」「何かが起きている」と煽るようなサムネイルが溢れていたのに。今は、まるであの騒ぎが最初からなかったかのように、タイムラインは静まり返っている。
調べてみると、最新の統計では死亡者数が5年ぶりに少し減ったらしい。160万人という、かつてない高水準で「横ばい」になっただけなのに、数字が跳ね上がらなくなった途端、世間の興味は魔法が解けたように消えてしまった。
これが「慣れ」というやつなのだろうか。
年間で90万人近くの人口が消え、政令指定都市がひとつなくなるような事態が、もはや「日常」という景色に溶け込んでしまった。異常が日常になれば、それはもうニュースではなくなる。あるいは、プラットフォームの規制という見えない壁が、踏み込んだ言葉を次々と検閲して、私たちの目から遠ざけているだけなのか。
画面の中の「静かさ」の正体は、事態の改善ではなく、ただの麻痺か、あるいは排除の結果。
2040年には死者数が168万人でピークを迎えるという。あと14年。その頃には、今のこの違和感すら忘れて、「多死社会」という冷たい言葉を当たり前のように使いこなしている自分がいるのかもしれない。
この「静かな崩壊」の足音に、自分だけが耳を澄ませているような、言いようのない不気味さが残る。
あとがき
現在でも都市部では火葬待ちがあり、数日から一週間待つのが「当たり前」の光景になった。
それは数字の上では落ち着いたように見えても、なぜか周囲では突然死の割合が増加しているような気がしてならない。その「気のせい」では片付けられない肌感覚が、いっそう嫌な気分を増幅させている。
検証がタブー化される事態は、リアルにその人の持っている生命を削る可能性があるから、大々的に報道するのは間違っていると書いたことがある。しかし同時に、そのデータを詳細に取り続けることでしか、私たちの命は守られないとも信じてきた。
果たして、政府はデータを正確に取ることを支持でき、データーを取り続けたのだろうか。
今後来るかもしれない、犠牲者のさらなる増加に対して、私たちを守るための防波堤は、構築されたのだろうか……?
それができてないとすると、さらに命を見捨てたことになるのかもしれない。
追記
世界大戦の足音が聞こえるなら、本来企業は縮こまり、人を切るはずだ。
それなのに、街には求人の広告が溢れ、企業は必死に人をかき集めている。
この「矛盾」が何より不気味だ。
インフレのせいでも、景気がいいからでもない。
ただ、そこにいたはずの人たちが、何らかの理由でいなくなってしまった。
その空いた席を埋めるために、世界が壊れかけている今でさえ、企業は人を求め続けざるを得ない。
その空席の正体が、私たちが直視を避けている「数字」の中に隠されているのだとしたら。
この売り手市場は、失われた命の代償としての、あまりに皮肉な「需要」なのかもしれない。




