退職代行サービス モームリについて
退職代行モームリをどう扱うべきかという問題は、単なる一企業や一サービスの是非を超えた問いだと思う。そこには、日本社会が長い時間をかけて形づくってきた「働くこと」や「辞めること」への価値観が、はっきりと反映されている。
かつて日本では、終身雇用や年功序列を前提に、「一度入った会社に長く尽くすこと」が美徳とされてきた。その裏側で、退職は円満であるべきもの、できれば避けるべきものとされ、「辞めたい」と口にすること自体が、わがままや裏切りのように受け取られる空気が育っていった。
特に就職氷河期世代は、「仕事があるだけありがたい」「代わりはいくらでもいる」という言葉とともに社会に組み込まれ、理不尽な環境でも声を上げにくい立場に置かれてきた。
その構造が大きく変わらないまま時代が進み、過重労働やハラスメント、メンタル不調が問題化しても、「辞める自由」は制度上あるだけで、現実には簡単に行使できない職場が数多く残った。そうした中で生まれたのが、退職代行というサービスだったのだと思う。
モームリは、楽をしたい人のための近道ではなく、「自分では辞められない」「もう限界だ」という人たちが、最後に選ばざるを得なかった出口だった。
にもかかわらず、モームリをめぐる報道や議論は、「違法かどうか」「やり方が問題だ」という点に強く集約されがちだ。もちろん法律の線引きは重要だが、そこばかりが大きく取り上げられることで、なぜそこまで追い込まれる人が生まれ続けているのか、という問いは後景に追いやられてしまう。
退職代行を問題視する一方で、普通に「辞めます」と言えない企業文化や、辞める人を黙って消耗させてきた構造は、あまりにも軽く扱われているように感じる。
このまま社会が変わらなければ、その歪みは今後も特定の世代、とりわけ氷河期世代に集中し続けるだろう。年齢、生活、責任を抱えた人ほど身動きが取りづらくなり、「辞められない人」として構造の中に固定されていく。退職代行を叩くことで安心している社会は、本当にブラックな働き方を終わらせる覚悟があるのだろうか。
退職代行モームリの存在は、日本社会がこれまで何を問題にせず、何を個人の自己責任としてきたのかを、はっきりと映し出している。モームリをどう扱うべきかという問いは、そのまま、今の日本社会のあり方が本当に正しいのかを問う問いでもあるのだと思う。
あとがき
退職代行モームリによって、これまでどれだけの人が救われてきたのだろうか。
理想論だと言われるかもしれないが、少なくとも今の日本の労働環境において、ああした存在が「必要とされてしまう」現実があること自体が、すでに一つの答えなのだと思う。
管理職が無自覚に同調し、サービス残業が当たり前とされ、始業前に仕事の準備をするのが当然だとされる空気。そうした慣習は、私が大手企業や期間工として働いていた10年前にも、はっきりと存在していた。
期間満了の半年前あたりから、表向きにはそうした慣習が是正された職場もあったが、それは決して「消えた」のではなく、「見えにくくなった」だけだったようにも思える。
そして今もなお、その価値観を「仕方のないこと」「社会人として当然」と受け止め、良しとする世代が存在しているのも事実だ。
その中で、法律によって働き方を縛ることが、時に「うつ病になるリスクを抱えたまま、それでも働けと言われているように聞こえる」瞬間がある。
モームリの是非を問う前に、私たちは本当に、心や人生をすり減らすことを前提とした働き方を、どこまで許容してきたのか。
この社会がその問いから目を逸らし続ける限り、モームリのような存在は、名前や形を変えながら、これからも必要とされ続けるのではないだろうか。
ただ、このような会社が存在しない社会が理想であることは間違いない
今が退職までサービスが必要とされていない日本社会なのか・・・?
と問われれば、私は素直にうなずくことができない。
理想と現実のあいだには、まだ大きな隔たりがあり、その隙間を個人の我慢や精神力で埋めてきたのが、これまでの日本の働き方だったのではないだろうか。




