表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
日々の想い(日記?)  作者: otu
小説って、アニメ化される30ぐらいがちょうどいい?
55/62

自動運転というロマンと矛盾についての考え

自動運転は、本来とても魅力的な技術であり、

人間を疲労や事故から解放するというロマンを持っている。

それ自体を否定したいわけではない。


しかし「安全な自動運転」を突き詰めていくと、

そこには根本的な矛盾が現れる。


完全な安全を目指せば目指すほど、

人間は不確定で危険な存在として扱われるようになる。

飛び出す歩行者、気まぐれな運転、ルールを破る判断――

それらを排除しない限り、

自動運転は本当の意味では完成しない。


この構造はすでに昔から存在していた。

レールの上を走る鉄道模型や、

決められたコースを走るミニ四駆は、

すでに完全な自動運転だった。

それが安全に成立していた理由は単純で、

そこに人間が入り込まなかったからである。


現実社会で自動運転を実現しようとすると、

まず道路が限定され、

次に車両が限定され、

最終的には移動そのものが管理される。

つまり自動運転は、技術の問題を超えて、

社会や国家による管理を前提とする仕組みへと変わっていく。


ここにある矛盾はこうだ。

人間のために生まれたはずの自動運転が、

安全を理由に人間を不要な存在へと追いやっていく。


自動運転はロマンである。

だが同時に、

安全を絶対化した瞬間、

人間の自由や偶然性と衝突する思想でもある。


この矛盾を認めたうえで、

自動運転を「完全な安全装置」としてではなく、

人間と危うく共存する技術として捉え直す必要があるのかもしれない。

あとがき


では、この矛盾を抱えたまま、

自動運転を現実の「行動」として実装しようとした場合、

何が起こるのだろうか。


安全を最優先にすれば、

速度は必然的に抑えられる。

たとえば時速30km程度で走行し、

衝撃を感知すれば即座に停止する――

そのレベルであれば、

人は死なずに済むのかもしれない。


だが、そのとき私たちが手にするものは、

本当に「車」なのだろうか。


それは速さも自由も失い、

移動の効率さえ歩行や自転車と大差なくなる。

安全を突き詰めた結果、

自動運転車は「危険のない乗り物」になる代わりに、

「車である必然性」を失っていく。


ここで、別の可能性が立ち上がる。

もしかすると問題は

「どう自動運転を完成させるか」ではなく、

そもそも車が必要なのかという問いなのかもしれない。


自動運転の行き着く先は、

技術の完成ではなく、

移動という行為そのものの再定義なのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ