記憶の外側
前書き
これは、実際に体験した出来事をもとにした、ノンフィクションに近いフィクションです。
事故や健忘の体験そのものというより、記憶の断片化と行動の習慣、そして心の不安を描くために脚色しています。
読者には、現実に起きたことではなく、心理的真実としての物語として読んでほしい。
私はある朝、ふと自分の行動に違和感を覚えた。
目の前で起きたこと、交わした会話の断片は覚えている。
だが、その前後のつながりがすっぽり抜け落ちている。
体は普段通り動く。
通勤も、食事も、会話も、すべてこなせる。
相手から見れば、何も問題はないだろう。
しかし私は知っている――覚えていないことがある。
重要なことが、頭の中で欠けている。
その欠落が、心にわずかなざわめきを生む。
人は日常のほとんどを、無意識で動いている。
靴を履き、服を着て、朝食をとり、通勤する。
思い出す必要はない。体が勝手に動かしてくれる。
それでも、社会や倫理、他者との関係では、重要なことを覚えていることが前提だ。
だから欠落は、不安になる。
記憶がないのに行動できる。
体は覚えているのに、意識は追いつかない。
相手は私の説明を聞いて納得するかもしれない。
だが、自分は納得できない。
自分の行動の裏付けを、記憶という形で確認できないからだ。
覚えていないことのために、心は静まらない。
事故後のことを思い出せない私は、バイクや衣服の状況、周囲の状況で静かに考える。
もし誰かに影響があったのなら――その可能性を否定できない不安が心に残る。
状況を考えると、致命的な被害があった可能性は低いと推測できる。
それでも不安は消えず、頭の中で何度もシナリオを反芻する。
記憶の断片化は、心理的に不安を生む。
体は動く、習慣に従う、会話は成立する。
だが重要な記憶が欠落していることで、社会的にも、倫理的にも自分を確かめ続けなければならない。
この矛盾が、心の奥に静かな恐怖を残すのだ。
あとがき(覚書)
記憶とは何だろうか。
自分が覚えていないはずなのに、体や習慣がいつものように行動できることがある。
それは奇妙で、不思議で、そして少し恐ろしい感覚だ。
事故直後、私は受付で保険証を出し、診察の手続きをし、支払いまでしていたらしい。
しかし、それらが“齟齬なく成立していた”というのは、今思えば話を盛りすぎなのかもしれない。
実際には、ところどころで受け答えに不自然さがあったのだろう。
受付の人も、最初の診察をした医師も、私の振る舞いに違和感を覚えたという。
その「どこかおかしい」という感覚が引き金となり、私は脳神経外科から緊急搬送されることになった。
つまり、私は自覚のないまま“受け答えはできるが、どこか辻褄が合っていない人”だったわけだ。
行動できていたように見えて、行動と記憶の間には深い断絶があった。
そのギャップこそが、記憶の消失よりも恐ろしいと今は思う。
しかし当の本人だけが覚えていない。
記憶の欠落と、現実に起きていた行動の間に横たわるギャップは、思っている以上に心を揺さぶる。
日常の多くは、記憶を意識せずに動いている。
今日の朝に何を食べたか思い出せなくても、それは記憶喪失ではない。
けれど、重要な記憶だけが抜け落ちると、人は強い不安に包まれる。
社会や倫理、そして安全は、重要なことを覚えている前提の上に成り立っているからだ。
だから、私はこうして文字にする。
失われた記憶の代わりに、文章として残すことで、心の輪郭を少しでも取り戻すために。
そしてどうしても考えてしまう。
――もし誰かを巻き込んでいたら?
その可能性を、完全にゼロだと言い切れない。
その不安は、傷口のようにしばらく疼き続けるだろう。
しかし、周囲の状況を冷静に見ると、こうも思う。
私が加害者であれ被害者であれ、もし重大な事故であったのなら、誰かが必ず名乗り出ている。
誰も動かないということは、社会的には「大した事故ではなかった」ということでもある。
この出来事は、家族の中にだけ静かに残る、少し重大で、少し生活習慣が変わる程度の記憶として収まっていくのだろう。
あらためて思う。
人間にとって重要だと思われる記憶や記録でさえ、抜け落ちてしまうことはある。
そして、記憶が欠けていても日常は淡々と進んでいく。
記憶や記録が失われるということは、実はそれほど珍しくも、特別でもないのかもしれない。
むしろ、こうした経験こそ、ひとつの物語になるのだと思う。
今回の体験を書いていくうちに、記憶そのものをテーマにした短編小説を書いてみたいという気持ちが少し芽生えている。
“覚えていないことの中に残る自分”という、奇妙で静かなテーマの物語を。




