覚書:「記憶の手前」4
警察に向かうとき、私は母に同行してもらった。
自分ひとりでは、きっと信じてもらえないような気がしたからだ。
事故のあったと思われる時間帯には、
被害者は存在していなかった。
正式な「事故」としての扱いにはならないが、
「報告」という形で事情を伝えることができた。
その瞬間、胸の奥に少しだけ安堵が広がった。
もし本当に何事もなかったのなら、
この出来事は、いずれ夢のように忘れ去られていくのだろう。
スクーターで公共交通機関を破壊するような力はない。
だから、これは――
自分の中にだけ残る「記憶の影」なのかもしれない。
それでも、今回のことで一つの教訓を得た。
もし私が車を運転していて、
前方のスクーターに軽く接触し、そのまま倒れたとしても、
たとえ相手が立ち上がり、何事もなかったように走り去ったとしても――
やはり警察に届け出るべきだと、心から思った。
なぜなら、もしその相手が私のように記憶を失い、
そのまま息を引き取ってしまったとしたら、
それは「ひき逃げ死亡事故」として扱われる可能性があるからだ。
運転手は自分の身を守るためにも、
状況を警察に報告しておくことが、
最も安全で、誠実な行動だと気づいた。
自損事故なら別だとしても、
交通量のある道路では、
誰かの目に、誰かの記録に、必ずその瞬間が残る。
それを思うと、
もし自分が“車を運転する側”だったら、
きっと見過ごしてしまうかもしれない――
その可能性に、背筋が冷たくなった。
人は、自分の記憶や判断を完全には信じられない。
けれど、だからこそ、
「確かめる」という行為を放棄してはいけないのだと思う。
たとえ記憶が失われても、
確かめようとする意思が、
“生きている証”になるのだから。
あとがき
記憶を失ってから、一週間。
この時間は、脳の経過を観察するための期間でもあるという。
けれど、私にとっては、それ以上の意味を持っていた。
もしこの先、どんなことが起きても――もう受け入れよう、
そう思えるほどに、連絡を終えた。
警察へ。
任意保険会社へ。
すべてを伝えた。
それは、たぶん「自分を守るための最低限のこと」だったのだろう。
けれど今は、その行為そのものが、
“確かに生きている”という実感に変わっている。
記憶をなくしたとしても、
行動だけは、未来に残せる。
そしてそれが、私にできる――
最も静かで、確かな「答え」なのだと思う。




